第25話 涙のわけは

 トゥーレを担いでラルスが出ていった扉を、アマリアはぼんやりと見つめていた。

 別れはあっけなかった。切なさを押し殺す暇もない程に。全身の力が抜けて、虚ろな目で扉を見つめるばかりだった。

 胸の奥の大切な部分を、ごっそり持って行かれたようで、心が乾いてカサカサと音を立てている。

 トゥーレが触れた部分がまだ熱くて、彼の体温も忘れがたく身体に沁み込んでいているけれど、夢のような時間はもう終わってしまった。

 トゥーレはもういない。二度と会うことはないのだ。

 ガタガタと船は揺れ続け、海へと引かれてゆく。

 これでいいのだ、思い通りにしたのだから。そう思うのに虚しくてならない。死への恐れはない。ただただ、自分が無為で愚かな存在に思えて仕方がないのだった。


 そしてぽっかり空いた胸に、一つの疑念がコロンと取り残されている。

 昨夜、妻にはしないと明言したはずのトゥーレが、どうしてあんなに情熱的に抱きしめたのか。そして、どうして迎えにきたラルスに船を止めろと叫んだのか。

 あれでは、まるで自分を守ろうとしているようではないか、とアマリアの胸が締め付けられる。

 それに彼と抱き合ううちに、何度も大それた思いに捕らわれてしまっていたのだ。もしかして、自分は愛されているのだろうかと。

 しかしその思いが湧くたびに、ただ夢をみているだけなのだと、自分なんかが愛される訳がないのだと、懸命に目を背けていた。

 その甘い疑念が、今むくむくと育ってきている。

 小さな種のような、もしかしてという思いに、アマリアは気づかないようにしていたのに、ラルスが水を与えてしまったのだ。


 思い返すほどに、ラルスの言葉と行動は理解しがたかった。

 彼がくれた美しい純白の衣装。これは、きっと誰か身分の高い女性の為に用意されていたものなのだ。いきなり用意できる代物ではないのだから。

 古参女中の話では、彼はトゥーレを慕っているということだった。だから、大事な花嫁衣裳を持ち出しアマリアに着せたのは、従兄を陥れようとか困らせようという意図ではないと思われた。

 それなら、何をしようとしたのか。第一夫人だなどと口にしたのは戯れてのことだと思う。しかし彼は、トゥーレと釣り合う女になれ、そうとまで言ったのだ。

 ぞくりと背が震えた。その震えは、恐れか歓喜か後悔か判然としない。アマリアは両手で己を抱きしめた。

 そして彼は、トゥーレがアマリアに執心しているとも言ったのだ。想いを伝え合えばいいのにというようなことも。

 トゥーレはラルスの言葉を全く否定せず、彼女が贄と知っていれば、儀式を中止していたとはっきり言ったのだ。

 思い返すアマリアの胸で、種は芽吹き急速に成長して、まさかまさかと揺れ始める。


 二人きりの時間は、甘くて激しくて身も心も焼けるようだった。彼の指も唇も声も匂いも全部、覚えている。刻みついている。彼がしっかりと跡を残していったから。

 アマリアの震えが止まらない。

 彼があんなにも自分を求めたわけは。

 船を止めろと叫んだわけは。

 別れを告げた時、黙って首を振ったそのわけは。

 アマリアの頬を涙が流れ落ちる。


『お前、こいつに笑えって言ったよな? ならさ、真剣に頭使えって』


 ラルスの言葉がよみがえってきて、胸がキリキリと痛んだ。

 トゥーレの笑顔を、最後にもう一度見たかった。

 自分が海に沈んだあと、彼はまた笑えるのだろうか。笑って欲しい。

 でも、思い浮かぶのは、儀式を止めさせろと何度も叫ぶ、悲痛な顔ばかりだ。彼にあんな顔をさせたのは自分なのか、そう思い至ると涙が止まらなくなる。

 自分の想いにばかり夢中になって、彼の心を全て曲解していたというのだろうかと、アマリアはぶるぶると震える。


 一際大きく船が揺れ、突然の浮遊感に心臓が悲鳴を上げた。遂に海に到着したらしい。

 今、彼は一体どんな気持ちでこれを見ているのだろうか。まだ目覚めていなければいい。全て終わるまで、目覚めないで欲しい。

 アマリアは両手を組んで祈った。トゥーレが悲しむだろうという思いが、ただの慢心でありますようにと。

 だが、違うそうじゃないと、心が叫びだして苦しかった。もうとっくに答えは出ているのだ。

 アマリアは、ああと悲痛な声を上げて、頭を振った。涙が止まらない。

 聖婚の妻に名乗りを上げるという愚行が、トゥーレを絶望を与えてしまったのだ。

 自分が秘めていた思いと同じものを彼も隠していたから、あんなにも嘆き憤っていたのだと、胸にわだかまっていた疑念は真実なのだと、ようやくアマリアは認めた。自分をベッドに横たえたとき、彼が微笑みながら涙を流したそのわけを。


――ああ、トゥーレ様。私は愛されていたのですね……


 しかし、その気づきは彼女にも絶望を与えていた。もう死は目の前で、思いを通じ合わせることは二度とできないのだ。

 じっとしていれば、決して結ばれることは無かっただろうが、少なくともトゥーレを悲しませることも苦しめることも無かったのだ。愚の骨頂だ。

 アマリアは自分で、彼との未来を断ち切ってしまったのだ。


 ザブンと波の音が聞こえる。船はどんどんと沖へと向かっている。

 ラルスは「考えろ」と言った。その言葉がグルグルと頭を回っている。

 今更、何を考えればいいというのだろう。直に海に沈むというのに。アマリアは、また両手を合わせて祈る。トゥーレの苦しみが少しでも減りますようにと。自分にはもうそれしかできない。

 が、不意に閃くように、ラルスはトゥーレの為にできることがまだあると言いたかったのではないだろうかと気付いた。もしそうなら、何だってしよう。

 アマリアは、懸命にラルスの言葉を思い起こす。

 彼は部屋を出る時、何と言ったのだったか。


――部屋の隅の床板……?


 補修が終わっていただろうか、と確かそんなことを言っていた。

 この船は、そもそもは先代領主の第三夫人を贄として鎮めるために用意されたものだった。急遽、領主の血の付いた板を張り替えたのだと聞いている。

 その床板がきちんと張られていなかったとして、それがなんだと言うのだろうか。丁寧な仕事をしたところで、どうせ沈む船なのだし。

 ラルスはアマリアに何を伝えたかったというのか。ドキドキと心臓が鳴った。

 アマリアは唇を噛みしめ這うようにして、ラルスが目で示した場所に向かう。何があるのか確かめなければならない。

 床板に触れると、簡単に動いた。ごくりと唾を飲む。

 そっと床板を外すと、その下にアマリアのロッドが隠されていた。


「わ、私の杖が……」


 アマリアの目は、おろおろと泳いでいる。

 ハラルドの屋敷で準備をしている間に失くなってしまったはずの杖が、こんな所にあるなんて決して偶然などではない。きっとラルスがここに隠したのだ。

 しかしなぜ、と思う。

 術を操るときに必要な、呪術師にとってとても大事な杖だ。呪術師ならば、死に向かう時も肌身離さず持って行けというのだろうか。

 先代領主の件があるから、アマリアは武器になりそうなものもちろん、余計なものは一切持たされなかった。彼女にその気は無かったが、もしも杖を持って行きたいと願ったとしても、聞入れてはもらえなかっただろう。

 だが、ラルスはアマリアにはこの杖が必要だと考えたのだ。だからこそ、わざわざこんな所に隠したのだ。

 からかうようなラルスの声が頭の中に甦る。


『俺がここを出た後はお前は自由なんだぜ? もう誰も見てやしない、好きに生きていいんだぜ?』


――自由? 好きに生きていい……?


 アマリアはあっと声を上げた。

 彼の真意にやっと気付いた。杖は死の道行きの同行者ではない。生きる為のしるべなのだ。きっと、自分の為に術を使えということなのだ。この木箱のような部屋から脱出しろと。生き残れと。

 トゥーレを悲しませたくないなら、再び笑わせたいなら。


――私……生きて、いいの?


 恐らく、ラルスの意図を読み取ることは出来たのだと思う。

 だが、やはりアマリアはため息をついた。例え杖があっても、壁を破る程の術が使える自信はなく、運よく外に出られたって泳ぎの下手な自分は溺れるだけだろうと思うのだ。浜には多くの人がいるだろうし、海面に顔を出せばすぐに見つかってしまう。

 アマリアは小さく首を振った。


「申し訳ありません。トゥーレ様……」


 杖を抱きしめて、アマリアがうなだれていると、船が傾き始めていることに気付きビクリと身を竦めた。船尾から、浸水が始まっている。

 やはりこのまま沈むのだと、目を瞑った。

 するとその時、瞼の裏にキラキラと光が煌いた。ハッと顔を上げる。


『恐れるな! 自由になれ! 生きるんだ!』


 父フーゴの、力強い声が頭の中に響いていた。暖かい力が流れ込んでくるのを感じた。

 アマリアは濡れた頬をクシャリと歪めて微笑み、そっと頷くのだった。

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