第18話 正体

「ごめん……百、ごめん……」


 にじり寄る様にゆっくりとふらつきながらこちらに向かってくる百を、受け止めればいいのか、ナイフを弾き飛ばして躱せば良いのか、何が正解なのか分からなくなる。


 小さい百を抑え込むなんて簡単な事だ。

 片手で振り払えばきっと体ごと吹っ飛ぶだろう。

 刃物だけを取り上げる事だって難しい事じゃない。


 でも、俺はそうして良いんだろうか、と言う疑念が足の裏にベッタリこびり付いて動けない。


「百……」


 それで百の気が晴れるなら。

 あの日の臆病が清算出来るなら。

 紀乃屋が言う通り、お前に殺されるなら本望だ。

 でも、そのせいで百は一生人殺しの枷に繋がれるのか?

 それは、ダメだろ。俺、死んじゃダメだ。

 この体から一滴残らず血が抜けようとも、俺は死んではいけない。


「こうちゃんを……たすけ……て……。おとうさんのとこ、つれていかないで……」

「……はい?」


 百は虚ろな眸のまま、俺を助けてくれと俺に向かって懇願し始めた。


「こうちゃん、わるくないの……。こうちゃん……これいじょ……きずつけないで……こうちゃんまでいなくなったら……」

「百……?」

「なんで……わたし……なんかまもっ……ばかぁ……」

「え?」

「どうして……こうちゃんわるくないよ。おとうさんのとこ……いかないで……」


 大声を上げて泣き出した百は、しゃくり上げながら自分のせいで俺が記憶を失くした事を悔いる様な事を繰り返し喚く。


「大丈夫。何処にも行かない。百を置いて何処にも行けないよ」


 辿り着いた俺の腕の中に飛び込んで来て、生温い寂寥せきりょうと大粒の悔恨を惜しげもなく零しながら泣きじゃくる。

 薬とハーブに混ざる、あの記憶の隅を掠る甘い香り。

 僅かな眩暈に、俺は何度も瞬きを繰り返した。

 零れそうになる何かを、誤魔化す様に。


「わたしのせい……こうちゃん……あのね……」

「うん? どうした?」

「いっぱいこわかったね……ごめん……ね。おもいだせないくらいこわかったの、わたしのせい……ごめんね……」


 まさかの発言に、涙腺が熱を帯びる。

 嘘だろ。お前、そんな事思ってたのか? 自分のせいで、俺が怖い思いしたって?

 

 度肝抜くのは犯人だけにしとけばいいだろうが。

 俺の度肝抜いてどうする。


 自分がクローゼットの中に入ろうって言ったから。自分が一緒にいたから。

 だから、俺が逃げられなかったって……この小さなお姫様はずっと悔やんでた。

 俺はただ、自分の不甲斐なさから逃げて、逃げて、見なかった事にしただけなのに……。


「気色悪い女……」


 花月の低音ボイスが耳を掠めて行った。

 

 小さな姫は十三年間噛み殺して来た怯えと不安を口から吐き出す様にして泣きじゃくる。


「あんたみたいな自己愛塗れの虚弱体質は考えた事もないだろうな」

「使えないわね。せっかく良い演出だと思ったのに……」

「俺、あんたの事調べて貰ったんだよ。あんたの過去は確かに同情に値するかもしれないが、それと百が良い女なのは同じ物差しじゃ測れないって事だ」


 紀乃屋が俺の為に特別に用意したと言ったあの部屋で、記憶の中にいた雨合羽の木乃伊みいらの正体が分かった時、俺は一つのアナグラムに気付いた。

 花月志織は知能犯であると同時に、幼稚だ。

 花月をフラワームーンと言う安直なネーミングにする程度には、単純な所がある。

 残酷な子供は大人をからかう。純粋に、本気で、楽しく大人を弄ぶのだ。

 

 聖夜と晴乃に調べて貰った内容の一つは1963年の事件だった。

 イクロウサンのハンドルネームはこの西暦、1963イクロウサンから取られたものだ。

 五十四年も前の事件。

 でもその事件がサラトガをシリアルキラーと呼ばしめた理由を簡単に教えてくれた。

 五十四年前に、既にシリアルキラー・サラトガが実在していたからだ。


 その男の名は花月誠。

 一方的な恋情を拗らせ監禁状態の女性に子供を孕ませ、産ませた子が花月志織だった。母親は志織を愛する事もなく、我が子を悪魔と呼び半狂乱、父親である花月誠はいつまでも自分に靡かないその女を愛し続けた。


 花月誠は愛欲を拗らせ遂に母親を殺害、その後、殺害の悦楽を知った花月誠は半年の間に連続して十五人の女性を殺害している。

 その犯行は残虐非道で両の目を刳り貫くと言う共通点があったと言う。

 そして、花月志織が四歳の時に逮捕されている。

 殺害現場に白薔薇を残した事でシリアルキラー・サラトガと呼ばれていたのは花月志織の父親だったのだ。

 十五人も殺害するに至るまで彼が逮捕されなかったのは、彼が現役の刑事だったからだと言われている。

 今より正義の味方であった警察官が、猟奇的殺人を犯す等とはだれも考えない時代だった。

 そしてその不名誉なサラトガ事件は警察の権威の陰にひっそりと匿われ、十三年前の事件の容疑者をシリアルキラー・サラトガと言い出したのは晴乃が言っていた通り警察の人間から漏れた異名だった。

 逮捕後、花月誠は志織の母親への恋情を綴った遺書を残して獄中で自殺している。

 そしてその母親の名前は――仙田真理。


「父親が逮捕された後、親戚を盥回しにされたあんたは身内から性的虐待を受けて育った。世間からも犯罪者の娘として蔑まれ、異常な生活の中であんたは花月志織と言う人格の中にもう一人の人格・仙田真理を生み出してしまった」

「でも私は、人体解剖の術なんて持ってない。花屋も精神科医もメスは握らない」


 そう勝ち誇った様に言う花月は、バカにする様に俺を見下していた。


「人間を解体した事が無くても、豚や鳥を解体した事はあんだろ? ちゃんと調べは付いてんだよ。あんたは、精肉解体のバイトをしていた経歴がある」

「つまり、私の父が犯罪者で、精肉解体の経験があって、右利きで、貴方が私を見た。それだけで私を犯人にしようと言うの? 物的証拠は一つもない」


 花月志織は憎しみ、嫉妬し、父親に殺される程愛された母親・仙田真理を強烈に嫌悪した結果、それは裏を返せば羨望でもあったと言う事だ。

 父親に愛されたい、こっちを見て欲しい、ファザコン甚だしい花月はその懇願と他人に蔑まれる孤独の狭間で遂に仙田真理本人へと変貌を遂げてしまう。


 五十四年前の事件を知る人間は直ぐに花月誠を思い出しただろう。

 だが、娘である花月志織は高校卒業後疾走し、生きているかどうかも定かじゃ無いとされていた。

 誰もがやりたがらない精肉解体と言う仕事は、花月志織にとって人目に付かない格好の居場所だったはずだ。

 犯人が見付かる筈もなかったのだ。

 仙田真理と言う人の皮を被り、その内にひっそりと正体を隠していたのだから。


「あんたと箱田の親父さんの接点はあの花屋。あんたがどう言う経緯で親父さんに惚れたかは知らないが、白い薔薇の鉢植えを女に贈ると知って殺しに来たんだろ? 一本の薔薇は一目惚れ。あんたは親父さんが自分以外の人間を愛していると知って、許せなかった」

「想像力の豊かな事ね。流石クリエイターとでも褒めて欲しいのかしら? 第一、そんな不確かな情報で私を糾弾しようと言うの? そもそも接点があったかどうかなんて立証出来ないでしょう? 私は殺して無いわよ」

「あんたは仙田真理と接点の出来た俺を利用して兼城家へと潜り込んだ。それは目撃者である箱田百を殺害する為……」

「バカな事を……なら、数年もの間手を下さなかった理由が何処にあるって言うの?」

「仙田はEMDRで百の記憶を取り戻そうとしていた。だが、百の記憶からは事件の事は出て来なかったハズだ」


 仙田が心療内科医として兼城家に通っていたのは、そのEMDRと言う方法で記憶のトラウマを軽減する診療を施す為だった。

 左右に揺れる医師の指先を追って眼球運動させ、心の内に潜んでいる記憶を吐露させる。そうする事で患者のトラウマによるストレス軽減を促すと言う療法だ。

 だが、何も見ていない百からは事件の記憶が出て来ない。

 見ていないのだから、出てくるはずもない。


 それに診療の間、医師と患者以外の人間はそこにいてはならない。

 面識の浅い仙田と二人になる事を拒む百のお蔭で、その診療はそう捗ってはいなかった。パニックを起こす可能性がある以上、扉の外には必ず誰かが付いていたし、百が一人でいるなんて事はこの十三年間一度もない。


 今なら永遠子が監察医を辞めた理由が分かる。

 紀乃屋がそれを知らない振りをしたのも、百のせいだと言いたくなかったのだと。


 当時のマスコミが発表したのは末娘の百が一部始終を見ていた可能性がある、と言う報道だった。

 俺があの犯行現場にいた事を知っているのは、あの時クローゼットの中に一緒にいた百と、現場に駆け付けた双子、捜査に来た刑事達と多分、俺の両親。

 俺が記憶を喪失している事を気取らせない様に、そいつらは全員黙っていた。

 親が頼んだのか、それとも双子が頼んだのか、俺はあの現場にはいなかった事になっていた。

 勿論、警察も記憶の無い俺に事情を聴きに来るなんて事は無い。


 でも俺、本当は――ずっと知っていたんだ。

 あの部屋に俺が作って百にあげたパズルが散らばっていた事。

 なのに、それをどんな経緯で見たかを、すっかり忘れていた。

 紀乃屋が言っていたヒントと言うのはそれだったのだ。

 我楽多屋がらくたやから兼城家へと紀乃屋を車に乗せた時、あいつはこう言った。


「十三年前、あの現場に君のパズルが散らばっていた事が原因ですか?」と――。


 現場を見てないのに、そんな事を知っている筈もない。

 なのに、俺はその情報以外を自分の海馬から抹消していた。


「俺は医者じゃ無い。詳しい事は分からないが、俺の推測が当たっていれば花月志織は仙田真理の存在を認識しているが、仙田真理は花月志織の存在を知らないんじゃないのか? だから花月、あんたが持ち込んだ強い副作用のある薬を、仙田は捨てた。もしかして、自分じゃないかと恐れたからだ……」


 何の記憶も出て来ない百に懸念を抱いた花月は、仙田の振りをして兼城家に通い詰めた。そして、兼城永遠子を容疑者にすると言うシナリオを思い付く。

 尤もらしい条件が揃い過ぎている永遠子が、看病の末に養女である百を殺そうとした、そう言うシナリオの為にあの薬は持ち込まれたのだろう。

 そして仙田は、所々記憶の無い自分に気付いていた。

 薬を持ち込める可能性として、自分を無視出来なかった仙田はその薬を捨て、自分を擁護する様にタイムリーに容疑者として追われる羽目になった永遠子が犯人である可能性を論理的に俺に語って見せた。

 

「俺は、あんたを見たよ。あのクローゼットの扉の隙間から見えたのは花月志織、あんただ。そして、真の目撃者が俺だって事を花月に教えたのは紀乃屋、お前だな?」


 両腕に抱き留めた百が、俺の背中に回した腕をグッと握りしめた様に感じた。

 

「そろそろ、フィナーレですかね」


 相変わらず柔和な笑顔を、祭りで売っている安い面の様に張り付けた紀乃屋がメガネの弦を押し上げる。

 その言葉を待っていたかのように、大きく咳き込む様な声が倉庫内に響き渡った。


 花月の双眸が驚愕し、ゆっくりと見開かれて行く様が、スローで見えた。

 

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