第24話 白衣の詐欺師
翌日、永遠子との約束通り俺は永遠子に言われた兼城家の一階右奥の部屋の扉の前で立ち尽くしていた。
目の前で永遠子がその部屋の鍵を開ける。
通常、一階の右奥にはあまり足を踏み入れない。
永遠子の書斎の奥に一部屋あるのは知っていたが、用事もない上にその部屋にはいつも鍵が掛かっていた。
外から見ても常にカーテンが引かれていて、その部屋は使われていないとばかり思っていたが、どうやらそこは開かずの間と言うわけでは無かった様だ。
「入れ」
「あ、あぁ……」
中は木造のデスクに、学校の保健室にある様な質素な回転椅子。
その向かいには似合わない黒い革張りのリクライニングソファが置かれていて、永遠子の書斎にあるのと同じ様な格子の出窓が一つあるだけだ。
永遠子の書斎の半分にも満たない小さな部屋だが、薬品棚と思われる棚がある事や、僅かに匂う消毒液独特の匂い。
窓際に沿う様にして古い病院で見る様な白いパイプベッドや、屋内を仕切るカーテンレールから下がるクリーム色のカーテンがそこを診察室だと思わせる理由だった。
永遠子は扉の傍に在る鳶色のハンガーポールに掛かった白衣を着て、デスクの前の回転椅子に腰を下す。
「お前、本当に医者だったんだな……」
「何だ? 白衣を着た女医に興奮するのか?」
「バカか、ちげーよ」
「じゃあ何か? お医者さんごっこでもしたいのか?」
「……お前相手にそんな危ない事出来るかよ。ここは……診察室か?」
本気で嫌な顔を見せた俺にケラケラと笑う永遠子は、医者と言うより怪しい研究者と言われた方がすんなり納得出来る様な気がする。
「元々、祖父の時代にここで開業医をしていたのでね。祖父が他界した後、父はこの家を自分好みに改装したのだ。この部屋だけは父の思い出の場所らしくて、そのまま残してあった」
「って事は、ここは病院だったのか?」
「あぁ、こんな人気のない場所にある病院と言えば……聞かずとも分かるだろ?」
永遠子の祖父は従軍医師で、敗戦後も日本兵のトラウマ改善などに努めた人らしい。
所謂、昔で言う精神病院と言うヤツで、二階には入院患者もいたらしく、言われてみたら妙に広いエントランスも待合室だったのだと考えたらすんなり納得がいく。
永遠子が妙な事に詳しいのも、何となく分かるような気がした。
「さて、始めようか」
「俺は何をすればいい?」
「何もしなくて良い。ただ、私の指先を目で追って質問に答える。それだけだ」
「また何か薬を使うのか?」
「バカ言え。あのロッジで九十九さんの部屋を再現した時にブルグマンシアの薬を使ったのは、現場の状況を再現する為だ。キノが完全再現すると譲らなくてな……」
「あぁ……。あの時はメガネに投げ飛ばされたせいで頭クラクラしたからな」
「ははっ、それはご愁傷様だ。あの男は私が通ってた道場の息子だからな。腕は相当なもんだ」
「それを先に言っとけよ!」
やっぱりこの女には、事前に言っておくと言う機能が付いてないらしい。
革張りのソファに座る様言われて、大人しくそこに腰掛けた俺は永遠子に言われるまま椅子の背に体重を降ろし、深くその椅子に埋もれる。
「力を抜いて、リラックスして、私が左右に指を動かすからそれを目で追うんだ」
「分かった」
右、左、右、左、と脳内でカウントしながら永遠子の指先を追う。
繰り返すうちに目が回りそうな感覚があった。
何度かそれを繰り返し、少し睡魔に似た抗えない感覚に瞼が重くなる。
「聞えるか?」と言う声に頷いた。
声が耳の中に水が入った時の様にくぐもって聞こえ、その割に響いて来る。
「君は、あの日百ちゃんとクローゼットの中にいた。そうだね?」
優しい、声だった。
「うん……百が中に入りたがったから、一緒に入ってた」
「遊んでたの?」
「うん。百がお喋りしてたんだ。俺はそれを聞いてた」
「そっかぁ。秘密基地みたいで楽しそうだね。それから、どうしたかな?」
先生が優しく聞いてくれる。
「お喋りしてて、気付いたら寝てたんだ……」
「そう。疲れちゃったのかな。じゃあ起きたのはいつ?」
「分かんない……。でも、起きたらね、おじさんが電話してたんだよ。何だか、怒られてるみたいだった……永遠子って人に」
「そう。おじさんはその後どうした?」
「分かんない……おじさんのお腹が見えて……真っ赤になってて……。雨合羽を着た木乃伊みたいなヤツがいた」
あの惨劇が、脳内でまた繰り返される。
十二歳の俺は息が詰まる様な鈍い感覚に眉を顰め、両手を握り締めた。
意識がある事が自分で良く分からない様な感覚だが、声も聞かれている意味も理解は出来ていた。
その度に大丈夫、大丈夫よ、と遠くから聞こえてくる。
「じゃあ、その雨合羽の木乃伊は女の人だった?」
「うん……包帯グルグル巻きにして、その上をテープみたいな透明な物で巻いてあって気持ちが悪かった……。でも、声が女の人だった」
歯の根が震えるのが分かった。
抉られたおじさんの両目がビニール袋の中から俺を見ている。
赤い汁に染まり切らない白い眼球は、黒目だけがやけにハッキリと見えて俺を睨んでいた。
咽喉の奥が空気の塊を誤飲したかのように詰まって息苦しい。
「おじさんの目が……こっち見てるんだっ!! 俺、おじさんに……」
大丈夫、大丈夫よ。
先生は片方の手で俺の手を握って、上からもう片方の手でそれを包み込んだ。
「おじさんは君を責めたりしない。その木乃伊はどうやって出て行ったの?」
「く、黒い鞄……大きいヤツ、持ってて……それを窓から外に立て掛けて、それを踏み台にして多分……車で……どっかに行った」
多分、あの黒い鞄の中には底板が入っていて、それを部屋の外壁に立て掛けて踏み台にしていた。
外壁を掴んでいた様に見えたけれど、外は豪雨。
繊維の一つも残ってはいなかっただろう。
「車で?」
「エンジンの音がしたんだ……」
「そう、怖かったね……君は百ちゃんを守ったんだね」
「でも、おじさんが……」
「君が出て行けば、百ちゃんが危なかった。君は頑張った。おじさんも、許してくれるよ」
「本当……? おじさん、許してくれる……?」
「うん、本当だ。おじさんは百ちゃんを守ってくれた君に怒ったりしない。百ちゃんが生きてて良かったって、今頃感謝してる」
「本当かなぁ……俺、おじさんにずっと謝りたかった。謝らないと……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
何も出来なくてごめんなさい。
黙って見ててごめんなさい。
おじさんを助けようとしなかった俺を許して。
弱虫の俺を見ないで。
そんな目で俺を見ないで――。
*
「気分はどうだ?」
水から上がる様な気分の後に聞こえてきた声の方。
俺はゆっくりとそっちへ視線を向けた。
「少し、怠い……」
「泣き疲れたか?」
永遠子の手が額に触れて、前髪をそっと避けられた。
確かに瞼が重い。
大人になってから号泣するなんて事はないが、この感覚は泣いた後の感覚である事は間違いなさそうだった。
気恥ずかしい様な、どうでも良い様な、そんな気分だ。
でも、体は少し重いが気分的にはゆったりとした、楽になった感覚がある。
息が詰まる様なあの惨劇を思い出していたと言うのに、その楽になった感覚が何処から来たのか分からなくて胸元に手を置いて首を傾げた。
「九十九さんは、百とお前があのクローゼットの中にいた事を九十九さんは知っていたのかもしれないし、知らなかったかもしれない。でも、知っていたとしても、お前に助けて欲しいなんて思ってなかっただろうよ」
「そんなの……分からないだろ……」
リクライニングソファの横に回転椅子のキャスターをカラカラ言わせて近寄って来た永遠子は「分かるさ」とニヤついて見せた。
「どうして分かるんだよ……? 真実なんて確かめようがない」
親父さんはもう、帰ってこない。
「お前は、百がもし誰かに連れ去られて怪我でもさせられたらあの双子はどうすると思う?」
「そりゃ犯人を割り出し百を奪還しに行くだろう。相手は殺されても文句が言えん」
「そう言う事だ。私も九十九さんなら、クローゼットの中にお前がいると知っていても百が一緒にいるのに助けを求めたりはしないと思う」
「……そうか」
「納得したか?」
「どうだろ……詐欺師に騙されてる様な気分だ」
「真実なんてそんなもんだろう」
「どう言う意味……だよ?」
「真実ってのはどう考えるかによるって事だ」
やけに穏やかな永遠子の声だった。
いつもより、女らしいと言うか、優しいと言うか……。
腫れて重い瞼の隙間から見えるクソ女は、まるで魔女の様に悪戯な顔で笑っているのに、突っかかる気力もない。
昨日、俺が何かを考えている事を咄嗟に見抜いた時の顔と同じ顔をしている。
「なぁ、永遠子……」
「何だ? もう、諜報員を見付けたのか?」
回転椅子に腰かけたまま膝の上に肘をついて俺を見る。
「いや、それはまだだけど……気になっている事が二つある」
「ほぅ? 特別サービスに一つなら答えてやる」
「この際二つとも答えても良いんだぜ?」
「楽させるつもりは毛頭ない。言っただろ、お前は墓を掘り起こす様な真似をしていると」
「……じゃあ、一つだけ。俺は昨日お前が言った事の答えを見つけた時、それを双子に言えるのか?」
昨日、永遠子が薔薇の逸話を話している時に一つ引っ掛かる言葉があった。
俺の中で秘密って言うのは三種類あると思う。
一つは、露見した時に自分に分が悪いヤツ。
若い時の黒歴史とか、嘘とか。
二つ目は露見する事で他人が傷つくヤツ。
誰かの為に黙っている秘密と言うヤツは、バレればその誰かが傷つく事になる。
そして三つ目は、その両方を起こし得るヤツ。
もし、俺が気になっている言葉が何らかの形であの暗示暗号の答えに結びついていたとしたら――。
それは多分三つ目に属する秘密で、俺は多分、双子にそれを教える事が出来ない。
そしてこの白衣の詐欺師はそれが分かった上でゲームを始めたのではないか、と言う疑念だ。
「特質して目立つわけでもなく、勉強も特別出来るわけじゃない。だけど、お前はそう言う所に鼻が利く」
呆れた様に片眉を上げた永遠子は、短く息を吐いて笑った。
「な、何だよ……?」
「お前が良いと思った様にすれば良いさ」
「は?」
「紅葉、秘密ってのは秘密にするための理由があって、誰かが傷つき誰かが救われるのは変わらん。秘密って言うのは共有する人間が出来ると、誰かが救われたりもするもんさ」
「その諜報員ってのが救われるのか?」
「質問は一つだ」
「ケチな女だ」
「あぁ? ケチとは聞き捨てならんな。最初に条件は提示したはずだ」
「……」
「何て顔してんだい」
永遠子の手が頬に触れて眉間の皺を親指で伸ばされる。
自分だって同じ様に眉間に皺寄せたまま。
「言えなきゃ黙ってれば良いじゃないか」
眉尻を下げて、口角を上げて、そんな妙な笑い方をする永遠子は初めて見る。
その昔、愛の女神アフロディーテが不貞を働いた――――。
昨日、この白衣の詐欺師はそう言ったんだ。
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