第5話 百
「
真白な壁に真白な家具。部屋には一点の汚点もない。ベッドもシーツも純白に統一されたその世界は、兼城家の中でも特質な空気を漂わせる空間だ。
そしてその白を汚さない様に作った白いパズルボックスから加湿器の蒸気が絶え間なく吹き出している。ベッドサイドに置いてあるそれは、この部屋の中で唯一動く物で、それ以外の物は規則正しく静かに無機物が並べられている。
ベッドの上に百の姿は無く、俺は勝手知ったるその部屋のクローゼットの前に立った。外は曇天模様、陰りを帯びたその部屋の中で彼女が隠れる場所はここしかない。
「百……?」
俺の顔を見るなり抱き付いて来る。大きな黒い眸は涙に濡れていた。
抱き付かれた拍子に小脇に抱えていた木製パズルが派手な音を立てて床に落ちる。
俺はその瞬間に、ホッと安堵した。今日は大丈夫な様だ。
「こうちゃ……」
「うん? 何? 怖かったの?」
「かみ……なりが……」
か細い腕でしがみ付いた百は、そう言って震えていた。
「雷……?」
百のその言葉に俺は窓の外へと視線をやった。確かに曇ってはいるが、まだ雨も落ちて来てはいない。
長く伸び切った髪を梳くように撫ぜて、「大丈夫」と鼻先を埋めた。
薬とハーブが混ざった様な爽快な匂いがする。
あの事件以来、百は俺達と違う世界を見ている。
今の様に突然怯えてみたり、晴れているのに雨が降っていると言ってみたりする。それがどんな景色なのか俺には分からないけれど、こうして体温を感じられるだけでも今の俺には最高に幸せな時間だ。
「百、新しいパズル持って来たんだ。一緒にやろう?」
「うん……」
三度の飯よりパズルが好きな百は、パズルをやっている時だけは落ち着いている。熱中し過ぎて会話にならない時もあるけれど、それでも幼い時と同じ表情で黙々とパズルに向かっている百を見ているのは好きだ。
「こうちゃん……おにいちゃんは?」
「どっちの?」
「どっちも……」
「
「なら、よかった……」
百の会話には脈絡が無い事が多い。質問の意味がいまいち良く分からないのは今に始まった事では無いので、俺は「うん」と答えて床に木製パズルをぶちまけた。
百は当たり前の様に床に胡坐をかいた俺の膝の間、ぶちまけたパズルを前に座り込みジッとパーツを見つめ、その一つを手に取って組み立て始めた。
もうすぐ二十歳になると言っても、籠の中から出れないお姫様は行動が幼い。
俺はただ黙ってそれを見ている。ともすれば一日中そうやって過ごす事も珍しくない。この部屋には、百とパズル、それしかない。
「こうちゃん……」
「何?」
「やくそく……」
「約束?」
俺の方を振り返った百は病的に白いその肌にカーテンの陰を帯びて更に悲壮な顔をしていた。それはまるで、覚えてないのか? と追及する様な表情に見え、俺は一瞬困惑し、眉根を寄せた。
だが、次の瞬間、心臓を鈍器でブチ殴られた様な衝撃に目を見開いた。
「……百、お前、覚えてるのか?」
百とした約束と言ったらアレしかない。
アレしかないのだけれど、百はあの事件以前の事は虫に食われた様に記憶が抜け落ちている。勿論、事件の事も、それ以外の事も、口に出して言う事は無い。
子供、と言っても俺達は小学校高学年で、百は五つ年下だった。
その頃の五年の差と言うのは結構大きなもので、双子の兄は百を溺愛していたし、俺も百の事を本当の妹の様に可愛がっていた。
ある日、百が黒羽と結婚すると言い出した時、藍羽は「お兄ちゃん、泣くぞ」と百に泣きべそかいた振りをした。それを真に受けた百が、じゃあ藍羽と結婚すると言うので、今度は黒羽が「酷い」と拗ねた振りをする。
そうやって可愛い妹を苛めて遊ぶ双子の兄に向って「兄妹は結婚出来ないんだぞ」と正論をぶちかましたのは俺だった。
その時、百は「じゃあ、こうちゃんとけっこんする」と指切りしたのだ。
子供の戯言だった。確かにそうなのだけど、俺は結構本気だった。
最強の敵である双子の兄は結婚出来ない。こいつら以外なら敵じゃ無い。この可愛い女の子は自分の嫁になるんだと、その頃から割と本気で思っていたのだ。
だから俺は念を押した。
「二十歳になったら、お嫁さんになって」と――――。
「わすれてないよ?」
百はそう言って幼い顔で笑う。
何を今更。人の気も知らないで、百は平然とそんな顔をしていた。
不覚にも泣きそうになって、口の端が歪んでしまう。
もうすぐ自分の誕生日が近い事すら分かっているか定かじゃ無い。具合が悪ければ顔すら見る事が出来ない様な状態の百と結婚するなんて非現実的な話だ。
それに、それ以上に大きな問題が一つ残っている。
それでも、俺をちゃんと認識して、俺に約束を確認して来た百が、愛おしくて堪らなかった。
何だ、この愛しい塊は。
ちょこんと座ってパズルに夢中になっているだけで、別に俺にセックスアピールしてくるわけでも何でもないのに、抱き潰してしまいたくなる。薬で乾いた唇や、ひ弱な四肢、到底健康的とは言えないのに、昔と変わらず百には透明感がある。
儚げな空気、脆く崩れそうな危機感、その存在だけで自分はこの存在を守る為に生きていると思わされる。
「俺も、忘れてないよ」
一頻りパズルで遊ぶ百を眺めていると、ビィイイと言うインターフォンが聞こえて俺はカウンセラーが来たのだと窓の外を見下した。
「仙田先生が来たよ、百」
「……そう」
ゆらりと立ち上がった百は、一瞬にして恍惚とした表情を見せた。
ベッドでは無くクローゼットの中へと入ろうとするので、「ダメだよ」と腕を掴むと唐突にパニックを起こし始め酷く抵抗する。
「ちょ、百っ! 落ち着いて」
「いやっ!! いやぁあああああああああ!!」
「大丈夫、大丈夫だからっ!」
「さわらないでっ!! こっちにこないで!! あなた、だれなのっ!?」
全力で拒否られる。
それだけでもキツイものがあるが、調子が悪いとこうやって百の記憶から俺は、
――抹消される。
ギャン泣きする子供の様に手に負えなくなった百の声を聞いて、玄関先から二階に駆け上がって来たカウンセラーが部屋に飛び込んできた。
「せ、仙田先生……」
「相楽君!」
「さっきまで落ち着いてたんですけどっ……痛っ!! 噛み付くな、百っ!」
「鎮静剤を打つから、そのまま抑えてて!」
「あ、はいっ……」
「くるなっ!! さわるなぁああ!! おにいちゃんっおにいちゃんっ!!」
ジタバタと暴れる百は、鎮静剤を打たれてプッツリと意識を失う様に脱力した。
百は調子が悪くなっても双子の事だけは忘れない。俺の事だけ、忘れてしまうのだ。好きな女に、まるで敵と見なされた様に拒否られ、あんた誰? と何度も言われるこの辛さ。さっきまでのあのあどけない笑顔が幻の様に思える。
こうなると分かっているから、双子は調子の悪い時の百に俺を会わせないのだ。
「噛まれた所は大丈夫?」
「あ、はい。甘噛みみたいなものですから……」
甘噛みだと思いたい。右腕に食い込んだ歯型からじんわりと血が滲んでいるのを仙田に見られない様に隠した。
鎮静剤で眠ってしまった百の部屋に鍵をかけ、一階のリビングで仙田にお茶を淹れた俺は、ついさっきまで「約束」を覚えていた百の事を仙田に話した。
「そう、百ちゃん、断片的にでも記憶が戻っているのかしら?」
「そうだと良いんですけどね……」
「でも、記憶が戻ると言う事はあの事件の事を全て受け止めると言う事になるわ。そうすれば、彼女の自我は崩壊しかねない。私は、思い出す事が全てでは無いと思っているのよ」
数年前から百のカウンセラーとして兼城家に通っている仙田は、この辺りじゃ有名な精神科医だ。多分実年齢よりは相当若く見えるタイプなのだろう。所謂、美魔女と言うヤツで、歳は永遠子より上だと聞いている。
俺も、中学の時に世話になっていた事があるので知り合ってからは結構長い付き合いだった。
「でも先生、思い出せなければ百はずっとあのままなんでしょう?」
「あのまま、と言うと……?」
左肘をソファの肘置きについて、顎を乗せた仙田はつまらなさそうに俺を見た。
「その、体の……」
「記憶が全てでは無いと思うけど……そうね、それについては彼女自身の気持ちの問題が大きいのだと思うわ」
「そう……ですか……」
「もしかして君は、まだ百ちゃんの事が好きなの?」
「え?」
「現実的に考えて、無理じゃないかしら? 彼女は確かにもうすぐ二十歳になる。知的障害があるわけでもないし、多分記憶障害やパニックを克服出来たら生活する事に問題は無い。でも、セックスは無理じゃ無い?」
この人は、昔からそうだ。優しそうな顔をして、正論を淡々と突き付けて来る。
精神科医が皆、優しいと思ったら間違いだ。患者の感情に飲まれない様に、平常心を保ったまま淡々と質疑応答を繰り返す様は、どちらかと言うと尋問に近い。
優しくない訳じゃない。間違ってもない。受け止めなければいけない正しい事を、真っ直ぐに突き付けられる。
「七歳の体のあの子を、抱けるの?」
仙田のその言葉に、唇を噛み締めた。
百は、あの事件以来時間を止めてしまった。
身体の成長はそこで止まったまま、喋っている事は年相応の時もあると言うのに、胸は板のまま、元が小柄だった百の身長は百センチ程度しかない。
「別に、それが全てだと俺は思ってません」
「詭弁だわ」
「た、確かに理想論かも知れませんけど、気持ちだけで繋がっている夫婦がこの世に存在しない訳じゃないでしょう?」
そう言いながら、現実的じゃない事は自分でもよく分かっていた。
それが簡単じゃない事もセオリーから外れた道だと言う事も、頭では分かっているつもりだけど、実際経験した事のない世界で、単純に絵空事でしかない。
でも、百が好きでしょうがないんだ。
「相楽くん、あの子があんな風になってしまったのは君のせいじゃないのよ? 勿論、あの子が回復してくれることを私も望んでいる。でもね、君の幸せも望んでいる。罪悪感だけで彼女に執着するのは、君にとって良くない事よ?」
「……違います。罪悪感とかじゃないです……」
「それだって、思い込みかも知れない。まだ、犯人を追って危ない事をしているのでしょう?」
「それは……」
「っとに、
「それも分かってますけど……」
永遠子を相手にする様に、煩いと反論出来ないのは、相手が中学の時に弱い所を全部曝け出した仙田だからなのかも知れない。
無遠慮に物を言って来る年長者の中で、仙田は特に苦手だ。
弱点を知られ過ぎていて戦意喪失してしまう、そんな感覚がある。
「相楽君は最近、ちゃんと眠れているの?」
「あ、はい。俺は何ともない……」
「そう、なら良かった」
中学に上がって、箱田兄妹の居場所を知った俺が兼城家の屋敷に来て見た物は、俺のメンタルを簡単に崩壊させるだけの威力があった。
見知らぬ兼城と言う女の屋敷の一角に閉じ込められる様にして、まるで世間から隔離され、真白な部屋に恍惚とした生気のない人形の様な、その眸に何も映さない、壊れてしまった百がいた。
愛くるしく甘ったれて膝の上に乗せろと強請る。
末っ子気質満載で不貞腐れれば思い通りになると無意識に知っている様な小悪魔的な所もあって、都合が悪くなるとクローゼットの中に入りたがるのは昔からの癖で、一緒に入れと駄々を捏ねられる事もしょっちゅうあった。
そんな愛おしい小さな女の子が変わり果てた姿になって目の前に現れた時、夜も上手く眠れない日々が幕を開けた。
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