第4話 リリスの泉
それから数日たった朝、ニュースキャスターの陰鬱な声に耳を疑った。
自殺したのは、〇〇在住の北村綾香さん、28歳――。
誰もいない質素なアパートで、思わず「あ?」と声を上げた俺は、画面に映った生気のない証明写真の様な北村を二度見した。
「殺されたのか……?」
咄嗟にそう思った。だが、北村に黒星の刺青は無かった。
俺や双子が追っている組織は「リリスの泉」と言う表向きは性犯罪に遭った女性や、そう言うトラウマを抱える女性を支援する会となっている。
だが、その女性だけの会に名を連ねている会員の自殺が、後を絶たないと言う事に気付いたのがちょうど一年程前。
結成されたのが十三年前と言うのも意味深ではあるのだが、この十三年で二十人近くの会員が原因不明の死亡、もしくは自殺している。
殺人ではないので警察が動く事は無かったが、自殺者である彼女達をリリスの泉と言う組織が一つの線で繋いでしまったのだ。
一見何の関連性も無い様に見えるその組織と、箱田兄妹の親父さんの事件と関連性があると言い出したのは、
リリスの泉の会員は全て女性で、死んでいるのも勿論女性だ。
男である箱田の親父さんは、勿論リリスの泉の会員では無い。
何の因果があるのか永遠子は教えてくれないので分からないままだが、リリスの泉の所謂「教祖様」と言うヤツを俺らは探している。
俺には、永遠子がサラトガだと言い切れない理由として、あいつ自身がこの事件をずっと追っている事にある。もし、箱田の親父さんを殺したのが永遠子だったら事件から離れようとするだろうし、そもそも息子や娘を引き取る事自体が理解に苦しむ所だ。
リリスの泉は十三年経った今、性犯罪の増える今日において女性のオアシスとまで呼ばれる様になった正体不明の組織だ。
だが、メディアには代表者の一人も顔を曝していない。
俺が疲れてビール一杯煽ってベッドにダイブしたいのを我慢して、好みじゃ無い女を宥めて賺してホテルに連れ込むのは、その教祖様を探す為だったりする。
スマホが着信を知らせて耳に宛がうなり、「今すぐ来い」と言う一言だけでブツリと切れた。
声の主は言わずもがな永遠子なのだが、あの女は俺を下僕だと思っている。
歳の割には若く見えるし、まぁ多分世間的に黙っていればモテるだろう。
黙っていれば、ここが重要だ。
初めて会った時は、無機物の様な女だと思った。白磁の様に白い肌の質感が人形の様で、出逢った頃は傍にいると得も言われぬ緊張を感じた。
そして、見た目にそぐわず性格が強烈過ぎる。
物言いは不躾だし、腕っぷしも強く、何よりあの女を例える言葉があるとすれば、何を考えているか分からない。これに尽きる。
兼城家に行く途中、街角にある小さな店の前で一度車を止めた。
【
藍羽はテーラーである
「ちわー……」
「いらっしゃ……何だ、あんたか」
いつも店番にいるのは近くの大学に通う若い男で、ピアスをジャラジャラつけ、アシンメトリーの前髪にはシルバーのメッシュも入っている。今時の若者らしさとリア充を全力で体現している割に、こんな流行らない店のバイトをするギャップがいまいち理解出来ない男だ。
いつ大学に行っているのか疑問に思う頻度でこの店のカウンターにいる。
「客に対してあんたとはご挨拶な店だな。つか、お前は学校行ってんのか?」
「それこそ余計なお世話だよ。あんたこそ、仕事してんの? そんで飽きもせずに今日もパズル買いに来たの?」
「心配するな、こう見えても社会人だ。……何か新しいの入ってるか?」
ぐるりと店内を見渡すが、相変わらず趣味は良いのにレイアウトが悲惨だ。
どこの国のものか分からない地球儀や、タペストリー、ジランドール、アクセサリーからただの石ころまで、この店全体が乱雑に放り込まれた玩具箱の様で、藍羽はいつもこれを「運命だ」等とほざく。
目につくかつかないか、それが客の運命なのだと。
昔から賭け事や勝負事に強い藍羽らしいコンセプトではあるが、この店はコア過ぎてそもそも客入りが悪い。
店の奥に引っ込んだ店番が戻って来てニヤリと笑った。
「藍さんがあんたが来たらこれを買わせろって言ってたよ」
店番が出して来たのは二万円の値札が付いた木製パズルだった。
「たけーな……」
「お姫様に献上するんでしょ? このくらいは出さないと」
若造の癖にこちらの足元を見てちゃっかり商売しやがる所は藍羽仕込みと言えるのかも知れないが、ここはまぁ買うしかない。
俺は財布からクレジットカードを抜いてカルトンに放り投げ、包装を待った。
ふと、扉が開く気配がして逆光の中に浮かぶ人影を双眸を細めて眺める。
「あぁ、間に合った」
そう言った男の声には聞き覚えがあった。
「モミジくん、お久しぶりですね」
「モミジ言うな、コウヨウだ。メガネ」
「メガネも酷いですよ」
「もしかしてまた、俺はアシに使われるのか?」
「察しが良くて助かります」
開いてるのか分からない程の細い眸、銀縁の眼鏡、アタッシュケースが異様に似合うその男は、
監察医務院ではなく、大学の法医学教室で助教授をしながら検案を終えた警察からの依頼を受け、司法解剖などに携わっている。
遺体を相手にしているからなのか、紀乃屋はいつも仏の様に微笑を張り付けている。どう言う関係かは知らないが永遠子の知り合いで、永遠子よりは年下で俺達よりは少し年上の様に見えた。
時々ここへタイミングよく現れるこいつを、俺は何故か兼城家の屋敷まで送る羽目になる。
「ところで
「あぁ、コレね。お蔭で寝不足も良い所だ」
店番が紀乃屋に差出したのは、厚めの黒いファイルだった。
「それはお疲れ様でしたね。お店閉めて帰ったら良いですよ」
「そうしよっかなぁ―……」
「いやこら、待て店番。ここ、お前の店じゃねぇだろうが」
「あんたも好い加減、オレの名前覚えたら? つーか、ここの営業時間はオレに任せるって藍さんから言われてんのよ。だから、帰りたい時に帰っていいの、オレ」
「あ、そう……」
永遠子も大概マイペースだが、藍羽の適当具合もなかなかのものだ。こんな若造に店を任せて大丈夫なのか、一抹の不安どころではない。
「お買い物は済みましたか? モミジくん」
「……お送りしますよ、メガネさん」
チッと舌を打ってお高い木製パズルを小脇に抱え店を出る。
「自分で作った物はもうあげないのですか? モミジくん」
「……まぁ、別に買った方が早いだろ」
俺は会話を遮る様に車のエンジンをかけて助手席に乗った紀乃屋がドアを閉めシートベルトを締めるのを煙草を咥えて待った。
「実は僕、モミジくんの新作、まだ完成してないんです」
「ははっ、頑張れメガネ」
「パズル作家
「……あんた、そう言う事言うの恥ずかしくないの?」
「好きなものを好きと言うのは、恥ずかしい事ですか?」
口から煙草が落ちそうになって、口の端に力を込めた。
俺は高校の頃からパズル作家で小銭を稼いでいた。
小さい頃からパズルが好きで、双子や百ともパズルで遊んだりしていて、百にお手製のパズルを作ってやったりもした。
百の喜ぶ顔が見たくて、絵を描いては切り刻んで、並べて遊んだ。
その内クロスワードの様な文字のパズルや数独にもハマったが、百は文字や数字が出てくるものより絵が完成する物の方を好んだから、絵を描いてそれをパーツにバラして百が小学校へ上がった年の誕生日にプレゼントした。
初めてちゃんと作った彼女の為だけの世界でたった一つのパズル――――。
それは自分にしか出来ない偉業とさえ錯覚する様な子供染みた、でも特別な物だった。
今はその収入で生活している。
空いた時間に依頼を受けたパズルを作成し、収入を得る。
事件を調べる為に時間の自由が欲しかった。
サラリーマンになれば、こう自由には動けなくなる。
高校の時にはもう、それが頭にあった様に思う。だから、大学も行かなかった。
だからと言って警察官になろうと思わなかったのは、警察がいつまでたっても犯人を逮捕出来ないでいる現状に反抗心があったからかも知れない。
高校を卒業してからは自宅で仕事をし、黒羽の店の改築を手伝い、それ以外の時間は事件を調べる事に費やして来た。
百の誕生日のすぐ後、あの事件は起こった。ゴールデンウィークも終わり、夏休みにはまだ早く、パズルをするにはもってこいの梅雨の時期だった。
何度も作って、それを壊した。
何度も百の為にと作っては、忽然と姿を消した箱田兄妹を思い出す。
中学に上がってあいつらの居所が分かるまでまでの半年とちょっと、そうやって孤独を埋めてはまた壊した。
あの頃と変わらず、百はパズルが好きだ。
作って持って行けば必ず完成させてくれる。それが分かっていても、自分が作った物を百の目の前に曝すのが怖くて仕方ないのだ。
「十三年前、あの現場に君のパズルが散らばっていた事が原因ですか?」
紀乃屋はこっちを見ずに分かっている事を敢えて聞いてくる。
「あんた、性格良いよな」
「まぁ、永遠子さんほどでは無いと思いますが」
箱田の親父さんの遺体があった現場には、俺が百にプレゼントしたパズルが散らばっていた。それはきっと、百が出来上がったパズルを親父さんに見て貰おうと思って持って行ったのだ。
そして、百は見なくて良い、見てはいけない物をそこで見てしまった。
七歳の少女が、褒めて貰おうと思って父親の元へ行くには十分な理由だったハズだ。俺が、あんなものを百にあげなければ、あいつはあの時あのタイミングで親父さんの部屋へ行く事は無かったかもしれない――――。
そう思うと、自分で作った物を百に与える事が出来なくなっていた。
「もう九十九さんはこの世にいません。パズルが完成したとしても、百さんがその事で悲しい目に遭う事は無いと思われますが……?」
「良いんだよ、別に。俺が作ろうが他のヤツが作ろうが、百が楽しけりゃそれで良いだろ。それに、あんたには全く関係のない事だ」
「そうですね、全く関係ないですね」
俺は吸っていた煙草を灰皿に押し付けて苦い唾液を嚥下した。
「あんたは今日、永遠子に何の用事があるんだ?」
「永遠子さんに呼ばれてましてね。いい加減、人使いが荒くてムカつきます」
「あーね。メガネでもムカつく事あんだな」
「永遠子さんに関して言えば、一時間同じ空気が吸えたら僕は自分を褒めますよ」
「って言うか、あんたと永遠子はどう言う関係なわけ? お堅い監察医とあの自由奔放な永遠子の接点って想像つかないんだけど?」
「モミジくんは知らないんですか?」
「何を?」
視界に兼城家の外門の黒い鉄柵が見える頃、紀乃屋は相変わらず微笑を浮かべたまま「彼女は僕の先輩だった人ですよ」と答えた。
「先輩? 大学ん時の?」
「まぁ、学生時代から知ってはいましたが永遠子さんは私の上司でした。僕は昔からあの人の奴隷になっていた可哀想な若者だったと言う事です」
「どんまい、メガネ……」
「退職してくれてやっと離れられると思ったのですが……」
「そうは問屋が卸さなかった、と」
「そう言う事ですね」
あの永遠子が監察医だったと言う事を始めて知った俺は、永遠子の元で研修生をしていたメガネに最大の賛辞を贈ってやりたい気持ちになる。
あんな上司がいたら、俺なんか毎日投げ飛ばされている事だろう。
紀乃屋が永遠子に投げられているのは見た事無いが、流石に永遠子も職場の人間にはそんな事しないって事なんだろうか。
しっかし、あのガサツそうな永遠子が監察医だとは。人は見かけによらないとはこの事だ。だがまぁ、淡々と人体を掻っ捌いていてもあの女ならやりそうな気もする。
「彼女の父親は監察医の中では有名でしたから、彼女はその名声を背負っていた様に思います。淡々と仕事をこなし、冷静沈着で堅実な仕事には敬意を表しますが……」
「へぇ……何で辞めちまったんだよ?」
「……それは、私にも分かりません」
紀乃屋が珍しく言葉を濁した。
紀乃屋は永遠子とは違った意味で何を考えているか分からない質だ。それは、感情が読めないと言う類のもので、思考が読めない永遠子とは全く違うのだが、いつも物言いがハッキリしている上に遠慮が無いのは永遠子といい勝負だ。
言い辛い、と言う間を感じさせる事自体が珍しい故に、俺はそれ以上詮索するのを止めた。
ビィイイと言う耳障りなインターフォンを鳴らすと、「遅い!」と永遠子が二階の出窓から身を乗り出していた。
「永遠子さん、入りますよ」
流石、メガネ。そもそも、相手にしない完璧な塩対応だ。
エントランスから二階への階段を断りもなく当たり前の様に上がって行く紀乃屋は、ふと気づいたかの様に俺の方を振り返って「さっきの話はオフレコで」と声を落とした。
相変わらず笑ってはいたが、俺は一先ずコクリと相槌を打つ。
何で隠す必要があるのかは、永遠子が監察医を辞めた理由に繋がって来るのだろうと言う、根拠のない曖昧な確信があった。
「キノ、頼んでたヤツ持って来たか?」
二階の自室の扉の前で待ち構えていた永遠子は、獲物を早く差し出せと言わんばかりに右手を差し出した。
「手ぶらでここに来る程、僕は暇じゃないですよ」
「紀乃屋主任が忙しい? 世も末だな」
「嫌味を言う暇があったら、用件をさっさと仰って下さいますか?」
「まぁ、そう言うなキノ。楽しい事にお前も混ぜてやろうと思って呼んだんだ」
「利用の間違いでしょう? 壮絶に嫌な予感しかしませんね」
紀乃屋が差出したのは書類が入っていそうな茶封筒で、永遠子はそれを半ば紀乃屋の手から奪い取る様にして中身を確認している。
「
「……分厚いな」
あからさまに怪訝な顔を見せた永遠子に、紀乃屋は平然と微笑を浮かべたままだ。
「お蔭で聖夜くんは寝不足だそうですよ」
「心配するな、お蔭で今夜は私が寝不足だ。今度会ったらそう伝えておいてくれ」
「ご自分でお伝えになって下さい。僕は無駄な記憶は残さない主義です」
「相変わらず洒落の通じんつまらん男だ。女に嫌われるぞ」
「お構いなく。不自由はしておりません」
ああ言えばこう言う。この二人、多分交わる事のない人種だろう。
だが紀乃屋が嫌々ながらも頼まれた事を断らないと言う事は、やはり昔の先輩後輩の関係と言うのは今の関係にも影響しているのかも知れない。
俺はそんなどうでも良い様な事を考えながら、二人のやり取りを見て苦笑いを零した。堂々巡りの似た者同士、そんな感じだ。
「
「あ?」
突然呼ばれて間の抜けた返事を返した。
「私は今からキノと出て来る。その間、
「あ、あぁ……」
「そのつもりで、土産を買って来たのだろう?」
俺の小脇に抱えられたパズルを見て永遠子はふふん、と笑った。
「今日は……百に会えるのか?」
「さぁ、どうだろうな」
「そうか……」
二階の廊下の一番突き当りにある百の部屋へと視線を向けた。
百は何か理由が無い限り、あの部屋から出る事は無い。
先日、階段から落ちたと言うが、何をしに部屋から出たのかは分からない。
七歳だった百も、もうすぐ二十歳になる。
あの事件以来、外に出る事が出来なくなった百は部屋に籠ってパズル三昧。
調子の良い時は会えるが、調子が悪い時は会う事すら出来ない。
十三年経っているのに、百だけがあの日から動けないでいる。
「行ってみると良い。一九六三年の六月……おいキノ、この遺体は
「えぇ、死後三日は経過していると思われます」
永遠子はもう手の中にある書類の方に気を取られて、視線を落としたままそう言った。
「あぁ、そうだ、紅葉」
書類から顔を上げた永遠子は、最奥にある百の部屋へ行こうと通り過ぎる俺を見て呼び止めた。
「何だよ?」
「夕方、カウンセラーが来ると思うからよろしく頼むよ」
「仙田先生か。分かった」
扉の向こうに百がいる。
分かっているのに、何度この扉に手を掛けても微妙に震えてしまう。
俺にとってその部屋の扉を開けるのは一か八かの掛けの様な物だ。
二十五にもなってとんだビビリだと言われても、こればっかりは慣れない。
俺は意を決してドアノブを握り締めた。
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