第8話 ごめんねとありがとう
山奥の兼城家所有のロッジから引き返している途中、まるでどこかで見ていたかのように連絡して来たのは
山林の脇に車を止めてスマホを取った。
『っ!
珍しく慌てた藍羽の声に、もう既に罪悪感が湧いてしまう。
「あぁ、どうした?」
藍羽はニュースを見たか、永遠子の居場所を知らないか、と予想通りの質問をした。
「ニュースは見た。けど、俺が永遠子の行先なんて知るわけないだろ……」
そう答え、手が震える。
あいつらに嘘を吐くなんて事、今までも無かった訳じゃない。
騙そうとか、驚かそうとか、悪戯に何度も嘘を吐いて来た。
だけど、今回のは違う。根本的に何かが違うのだ。
俺はあいつらを傷つけたいなんて思った事は、一度もない。
でもこの嘘は、バレれば双子を容易に傷つける。それだけの威力を持っている。
恨むぜ、永遠子。何て事させやがんだ、あのクソ女。
『永遠子いねぇし、外のマスコミが喧しいから、百が不安定になってるんだ。もし、お前が良けりゃ、仙田先生を連れて来てくれないか?』
俺はここから出れそうにない、と言葉尻が小さくなる。
こんなに疲れた藍羽の声を聞いたのは、いつ振りだろうか。
あの事件が起こって、百の成長が止まっていると言う事を知らされた時以来かも知れない。
元々、陽気な質だ。分かりやすく落ち込む様な奴じゃ無い。
「分かった」
短くそう返して、俺は仙田の病院へと向かった。
兼城家から車で二十分程の所にある、仙田心療内科では準備万端の仙田が俺の到着を待っていた。
「マスコミが殺到しているみたいだから、裏道から行きましょう」
「あ、はい……」
大きなドクターズバッグを左手に持って、白衣を着た美魔女はそう言って助手席に乗り込む。
「藍羽から連絡あったんですか?」
「えぇ、まだパニックは起こして無いけど、クローゼットから出て来ないらしいわ」
「そう、ですか……」
「無理にこじ開けようとして、余計に百ちゃんの機嫌を損ねちゃったみたいね」
兼城家の裏手に入るには、これまた山道を行かねばならない。
今日は朝からアウトドア三昧だ。ガソリン入れといて良かった。
そんなどうでも良い事を考えながら、隣で兼城家に電話をしている仙田をチラリと見る。
「もうすぐ着くわ」
仙田は辺りを警戒する様に見渡して、「大丈夫」と答える。
スマホをポケットに直した仙田は、ふう、と息をついて窓辺に片肘をついた。
「何かあったんですか?」
「いいえ、何でもないわ。勝手口から入ってくれって」
「あぁ、はい。車あったらバレますかね?」
「少し手前に停めて、歩いて家の中に入りましょう」
「そっすね……」
出来るだけ木々に隠れて見えない所に車を停めて、兼城家への侵入を果たした俺達は、午前中だけで疲れ切った双子に唖然とした。
仕事に行こうとしていたのだろう。二人共Yシャツにスラックスを履いていたが、これから仕事と言うよりは、徹夜明け、と言った方が良い様な顔をしている。
固定電話の線が無造作に抜かれていた。マスコミからの問い合わせが朝から鳴りっぱなしで、対応に困った挙句、引っこ抜いたらしい。
「だ、大丈夫かよ……お前ら……」
「大丈夫なわけないでしょ、相楽君。無神経な事聞かないの」
仙田にそう一喝されて、俺は「すまん」と双子に謝った。
親父を殺したのが、養母だと言う今現状に即対応出来る訳もない。
それでも、こいつらはマスコミに不安を抱いていると言うよりは、永遠子を心配している様に見えた。
「別に紅葉が謝る事じゃない。大丈夫だよ」
仕事に行きたくても家の前があの状態じゃ、二人共仕事にも出れなかったらしい。
「起きたら既に永遠子さんはいなかった。と言うか、昨日帰って来たかどうかすら定かじゃ無い」
「って事は、昨日仕事に出て以来、お前達は一度も永遠子の姿を見てないのか?」
「そう言う事だ。そして起きたら、この様だ。百は泣いて立て籠もったままだし、兎に角、最後に永遠子と一緒だった
藍羽は不貞腐れた様にそう言って、ソファへと項垂れた。
「私は百ちゃんの部屋へ行って来るわ」
「あ、はい。俺も一緒に行きます」
仙田の後を追って立ち上がった黒羽が俺をチラリと見る。
来るか? と言っているのだと分かった。
だが今、不調だと言う百に会うには、俺のメンタルも相当疲弊している。
左右に首を振ってやんわり断った。
「メガネに連絡着かないのか? 藍羽」
「何度も連絡しているんだが、夜勤明けで寝ているのか全然繋がらない」
紀乃屋は唯一永遠子の居場所を知っている。
敢えて、藍羽からの着信をシカトしている可能性もある。
「お、俺が直接行ってこようか……?」
本当は、ここから少し離れたかった。
実際、俺はあまり嘘を吐くのは上手くない。
この隠し事がバレたら、こいつらにどんな顔して謝れば良いのか分からない。
しかも、永遠子の言った最後の言葉が未だに脳裏をグルグルと回っていた。
――何故、私が逃げなければならない?
ホントに、どうして、逃げなければならないのか。
その答えを紀乃屋なら知っているかも知れないと言う気がして、俺は紀乃屋に会いに行けば、エンドレスにグルグルと回り続ける思考回路を止められるかもしれないと思ったのだ。
「いや、それなら俺が行く。紅葉、お前車で来たんだろ? 車、貸してくれ」
「いやでも……」
「俺の車は玄関前に停めてあるから、使えねぇんだよ!
「まさか、店まで張られてるって言うのか?」
「永遠子が行きそうなところは大体見張られているだろうよ。聖夜が警察に尋問されても、何も知らないと言い張ればそれ以上追求される事もないだろうが、あいつは未成年なんだ。雇い主の俺に、責任もある」
「そうか……そうだな」
捲し立てるようにそう言った藍羽の顔からは、いつもの人をおちょくった様な余裕が消えている。
二階から黒羽が、「紅葉、来てくれ!!」と叫ぶ声が聞こえた。
普段から落ち着いている黒羽の慌てた声に、俺達は驚いて部屋を飛び出す。
「ど、どうしたんだ?」
「百が、お前を呼んでる!! 早く来て!!」
「お、おう……?」
調子が悪い時に俺を覚えているなんて、稀な事だ。
その上、双子のどちらかではなく俺を呼ぶなんてもっと稀だ。
俺は不謹慎にも嬉しくなりそうな自分の心がバレない様に二階へと駆け上がる。
藍羽もその後を追ってついて来た。
百の部屋へ入ると、クローゼットの前で仙田と黒羽がお手上げ状態になっている。
「こうちゃんじゃないと、嫌だってさ……」
黒羽は、更に打ちのめされている。
「相楽くん、百ちゃんをここから出して。そうしないと、どうしようもないから」
呆れた様に両手を広げて肩を竦めて見せた仙田は、一階で待ってるから、と双子を連れて部屋を出て行った。
「あ、はい……」
俺はポケットに入れていた車の鍵を藍羽目掛けて「使えよ」と放り投げた。
誰もいなくなった百の部屋には、玄関先に集うマスコミのフラッシュが眩しい位に反射して、レポーター達の声も僅かに聞こえてくる。
これを聞いていつもと違う事を察し、いつまでたっても現れない永遠子に不安になって、クローゼットに籠った。そんな所だろうか。
「百、俺だよ……開けて?」
ゆっくりと開かれた観音開きのクローゼットの扉の隙間から、百が泣きっ面を見せる。止まらない涙は、瞼を赤く腫らしてへの字に曲がった可愛らしい唇が、こうちゃん、とたどたどしく動いた。
「うん、出て来ないの? おいで、抱っこしてあげる」
「いっしょに、いる?」
「いるよ」
そう言いながらも出てくる気配が無い。
「出て来ないの?」
「ここがいい……おそと、こわい……」
「そっか。じゃあ、入れてくれる?」
まぁ、何も入ってないクローゼットとは言え、成人男性と七歳の女の子が入るにはいっぱいいっぱいのその狭いクローゼットに俺は足を踏み入れ、百を抱きかかえるようにして扉を閉めた。
無駄に伸びた身長がこの時ばかりは少し恨めしかった。体育座りで横向きに入ったものの、足がつっかえて体制がキツイ。百は俺の腹に跨る様にして縋り付いている。
「とわこ、いない……ピカピカして、こわい……」
絞り出す様にしてまた、涙が零れる。何が起こっているのか、分かっているのか定かじゃないが、永遠子がいない事だけは分かっている様だった。
「あぁ、うん……すぐ帰って来るよ。それまで、俺と一緒に待ってようよ」
「こうちゃん、いいにおい」
まるで、猫の様に項の辺りに鼻を突けて来た百は、狭いクローゼットの中で俺に前から抱きつく様にして耳元をふんふん、と嗅ぐ。
「ちょ、百。くすぐったいから、止めてっ……」
据え膳、というよりこれは拷問だ。
好きな子が自分から寄って来て、大胆にもこんな体勢で迫って来るのだ。
男なら、誰でも期待してしまうだろう。
頑張れ、俺の股間。こんな所で反応しようものなら、変態呼ばわり確定だ。
あの双子の兄にそんな事がバレでもしたら、俺は出禁食らって一生百に会わせては貰えないかもしれない。
と言うか、百に拒絶されたら俺、即死する……。
「とわこのにおい……する、こうちゃん」
「え? 永遠子の匂い?」
そう言えば、あの女香水付けてやがった、と今更気付いた。
永遠子はいつも薔薇の香りのする香水をつけている。
百が移り香に気付いたって事は、双子や仙田はどうなんだ?
さっきまで永遠子と一緒だった事がバレてないかと、ヒヤリとしたものが背筋を落ちて行く。
「いいにおい……」
「ちょ、百!?」
頬を摺り寄せ、体ごと迫って来る百に俺の理性はぶっ飛びそうだ。
鼓動が早くなるのが自分でも分かる程度には、この状況に興奮している。
下腹部に溜まる熱が吐精の感覚を期待し、眠ったものを呼び起こしてしまいそうで、余計に気が焦る。
七歳の体に欲情するなんて、俺ってホント変態かもしれない。
胸も板だし、枝の様に細い腕とか、無防備に開かれる足、とか……。
双子の趣味か、白しか着ない百のネグリジェはいつもレースやフリルで飾られた白いものだ。
その捲れたネグリジェの裾に手が触れて、滑らかな肌の感触に固唾を飲んだ。
何処をどう見ても子供なのに、百って言うだけでそれはどうでも良い事に成り下がる。
二十五の男が七歳の子供にこんな事してたら、世間じゃそれを猥褻行為と呼ぶだろう。
でも、百は二十歳なんだ。
本当は今頃、花の大学生とかピチピチのOLとかやってるハズなんだ。
それもこれも、全部サラトガのせいだ。
「百……」
自分を抑える様に、その肢体を強く抱きしめた。
「いたい……こうちゃ、いたい……」
「あ、ごめん……」
「んふふ、いいよ、こうちゃん」
薄暗いクローゼットの中で、気付いてしまった事がある。
ここは、百の部屋で、しかもクローゼットの中で、つまり、誰も見ていない。
百と俺以外は、ここで何が起ころうとも見ていない訳だ。
「いいって……何が?」
顔を上げた俺は、直ぐ近くにある百の顔がおぼろげに見える事を確認した。
目が慣れて来て、百がこっちを見ているのも良く見える。
そう言えば、このクローゼットの中には外にいるマスコミの声も届かない。
百がここから出たくないと言った理由が何となく分かった気がした。
「いたいの、ゆるす……へへっ」
「じゃあ、ごめんねってしていい?」
「ごめんね……?」
意味が分かってない。そりゃそうだ、俺も何言ってんだか分かってねぇ。
ただ、これはチャンスだ、と言う男の狡い思考回路が発動した事だけは分かった。
それでも、そこで自分を自制出来るほど俺は人間が出来てない。
「こうするんだよ」
百の狭い額に掛かる髪を片手で避けて口付け、ごめん、と呟いた。
「ふん? ごめん……?」
今度は百が意味も分からずに俺の額に唇を押し付ける。
「何でお前が謝ってんの? はは、ありがと……」
「ありがと……?」
キョトンとした百は、そう言って俺の方をガン見している。
小さく尖った薄い唇が、目の前に差出された様に思えてならなかった。
永遠子が大変な時に、双子が大変な時に、俺こんな事してる場合じゃないのに。
――でも、それでも俺は、衝動を止めるには百に飢え過ぎていた。
ちょっとだけ。ほんの少し。本当にちょっとだけなら……良いよな……?
「うん、ありがとうってこうするんだ」
嘘ばっかりだ。
百の唇に自分の唇を押し当てて、罪悪感と高揚感を一度に味わった。
小さな唇は渇いていて触れた感覚が余り無い。
可愛いそれを啄む様に挟んで濡らして、俺はもう一度唇を押し当てた。
「んっ……んっ……こうちゃ、くるしいぃ……」
「おっと、ごめん……」
キスなんてした事無いんだから、息も継げないか。そりゃそうだ。
ヤバい。可愛すぎる。
舌なんか入れたら吃驚して泣き出すかも知れないな。
「おにいちゃん……」
「へっ!?」
「おにいちゃん、おこってる……?」
「な、何で?」
びびびびび、びっくりした……。
このタイミングで兄を呼ばれたら、いくらなんでも俺の心臓もたねぇ。
すまん、双子。俺は欲望に負けた……。
「さっき、いやって……いった……」
「あぁ、怒ってないと思うよ? ちょっと、悲しい顔してたけど」
「おそと、ピカピカしていやなの……かみなり、みたい……」
「あぁ、そっか」
マスコミのカメラのフラッシュが窓ガラスに反射するのが、雷の様で怖かったと言う事なのだろう。
「でも、俺一緒にいるからもう怖くないだろ? ご飯も食べないと、お腹空いたろ?」
「うん……ごはん、たべる……」
「じゃあ、ここから出る?」
百はコクリと頷いてしがみ付いて来た。
腹が減ったのか。超絶に可愛いな。
いつもこうやって俺にベッタリだと良いんだが。
この甘い時間と、あの記憶から抹消されるブリザードの様な時間の差が、俺の心をジワジワと病ませる原因でもある。
抱きかかえたままクローゼットの中から出て、ベッドに座らせポケットに入れていたスマホで一階の黒羽に食事を持って来る様に連絡した。
外の様子が気になってしまう百は俺から離れたがらないので、手を繋いだまま床に腰を下して黒羽が来るのを待った。
「凄い時間かかったから、心配したよ。ほら、百、ご飯だよ」
黒羽はさっきより幾分か落ち着いた声で、トレイに食事を乗せて部屋へと入って来る。
最初の一言は、俺に対する嫌味だろう。
この男は、こうやって静かに怒って、自然に聞き流す程度にそれをぶつけて来る。
「す、すまんな、黒羽。どうやら、フラッシュが雷みたいに見えて怖かったみたいだ。それまで、ずっとクローゼットに籠っててよ……」
「ずっとクローゼットに? 二人で?」
「あ、えっと……うん。外出たくないって言うからさ……」
「ふぅん……」
何か言われているわけでもないのに、凝視されている様な気がして後ろめたい俺は黒羽から視線を外した。
「おにいちゃん……」
「うん? どうした、百?」
「ごめんね……」
百は自分の方へと屈んだ黒羽の額にちゅ、と口付けた。
……やべぇ。
百は二十歳だが、七歳だと言う事を甘く見ていたかもしれない。
覚えた事は何でもやってみたいお年頃を、早速発揮している!!
「紅葉、ちょっと……」
「あ、え? 俺?」
「お前か? 妹にこんな破廉恥な事刷り込んだのは」
「あ、や、ちょ、違うって……」
「何が違うんだ?」
「こうちゃん……」
「あ、はいっ? 何? 百……」
「ちがう……?」
「ち、違わない……」
いや、うん。もう、黒羽が完全にキレてこっち見てるのが、こえぇ。
「はぁ……ったく、紅葉。俺はお前が百を好いてくれている事を咎めるつもりはないけど、時と場合を考えてくれ。今は、永遠子さんの事で俺達も気が動転してる。その上、百に何かあったらって思ったら……堪らんよ」
「すまん……」
「パニックにならずに済んで良かったけど、下手な事しないでくれよ」
「ごめん……」
「俺と藍羽は紀乃屋監察医の所へ行ってこようと思っている。その間、お前に百を頼もうかと思ってたけど、あんま変な事する様だったら、お前この家から出てって」
「いや、ごめん……ホント、大丈夫だから。何もしないから……」
黒羽から口に出して責められて、分かっていた事をやらかしてしまって、急に気持ちが沈んで行くのを感じた。
少し湿った自分の唇に残る百の柔らかな感触に恥ずかしくなって、片腕でそれを隠した。
「百、こうちゃんとお留守番出来る?」
「ふん?」
「お兄ちゃんたち、ちょっとお出掛けして来るから、良い子にして待ってて」
「うん……」
「こうちゃんが嫌になったら、おにいちゃんがぶっ飛ばしてあげるからね」
「うん!」
百ちゃん、凄い、笑顔なんですけど……。
意味分かってないと、思いたい。
「仙田先生はいてくれるらしいから、頼むよ、親友」
「分かった、任せとけ」
「さっきは言い過ぎた。ちょっと、俺も焦ってんだ」
黒羽はそう言って、俺の肩に手を置き部屋を出て行く。
つい、永遠子はあの山の中のロッジにいると、無事だと、口から出そうになる。
永遠子は何で逃げるのか。
証言出来ない、立証出来ない理由があったとして、それが出来るのはいつなのか。
このまま姿を眩ましたところで、見つかるのは時間の問題だろう。
それまで箱田兄妹が、正気を保っていられるかどうか、そんな事ばかりが胸に重く沈殿して膿の様に溜まって行く。
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