第7話 永遠子

 深夜自宅に帰って、ズボンのポケットにダストボックスで拾った薬を入れっぱなしにして持って帰って来た事に気付いた。


「あちゃ、持って帰って来ちまった……」


 俺は薬を拾った事と、持って帰って来てしまった事を永遠子とわこにラインし、スマホをテーブルの上に置いた。

 すぐにブブブとスマホが震えたので画面を確認すると、


 >お前はアホか。


 そう一言だけ返って来た。


 >明日持って行く。すまん。


 すぐに既読が付いたが、それ以降永遠子からの返事は無かった。

 黒羽では無く永遠子に連絡したのは、後で知られてまた投げ飛ばされるのを回避したかったからだ。正直に言っておいた方が、俺の命は安全だ。


 狭い仕事部屋には、仕事道具以外は殆ど置いてない。

 女々しくも幼い頃、双子とももと四人で撮った写真をデスクの上に置いてはいるが、それは自分にとっての戒めだった。

 百に忘れられると、心が折れそうになる。

 いい加減慣れもしたが、慣れても拒絶される度に地味にひびが広がって行く。

 時間を掛けてゆっくりと裂かれて行く様で、この十三年ずっと破れては繕って、この写真はその為の針と糸の様な物だった。


 実家は近所にあるのだが、仕事を理由に高校卒業して一人暮らしを始めた。

 両親共に健在だが、あの事件以来心療内科にかかっていた俺に過保護になりすぎる親からの逃避。それが一番の理由だった。

 俺が夜眠れなくなったのは、事件のせいと言うよりは親友と好きな子を一気に喪失した事が原因だ。

 元々そんなに社交的じゃ無い俺は、常に箱田兄妹と一緒にいたのだ。

 十二歳の俺には全てと言っても過言じゃ無い。

 なのに、それが一気に何も言わずに姿を消して、絶望的な孤独を味わった。

 その上、やっと見つけたと思った歓喜の前に姿を現したのは、あの変わり果てた百だったのだ。


「仕事、片付けとくか……」


 パソコンの前に座って、もう深夜だと言うにも関わらず仕事を始めた。

 眠れない訳じゃない。

 ただ、眠くなるまでは起きているだけだ。限界が来たらちゃんと眠れる。

 俺の私生活はそんな感じなので、大抵昼くらいから行動開始し、寝るのは朝方だ。

 昨日の様に寝ていると分かっているのに、今すぐ来い等と永遠子が連絡してこない限りは、昼頃起きて動き出す。

 大抵、午前中に出掛ける用事が出来ると呼び出されるのだが、前日の内に言っておくと言う技をあの女は持っていない。


「……寝よ」


 何だか、嫌な予感がしたのだ。

 朝っぱらからまた呼び出されたら、睡眠不足で事故るかもしれん。

 忘れない様にテーブルの上に持って帰って来てしまった薬と、せめてもの詫び、いや暴力回避策に買い置きしてあったスルメも一緒に持って行こうと揃えて置いた。

 シャワーを浴びて缶ビールを煽り、そのままパンイチでベッドにダイブする。


 翌朝、期待を裏切らない永遠子は、期待を裏切らずに予想もしない展開を見せた。


 しつこく鳴るスマホに、多少イラついて目が覚める。

 イラついたままスマホを耳に宛がったが、咽喉が張り付いて声が出なかった。


「おい、青瓢箪、起きろ! おい!」


 永遠子の声だ。それは認識出来たが、意識が朦朧としていて口が開かなかった。


「鍵を開けろ」

「……か、ぎぃ……?」

「お前の家の鍵だ。玄関の鍵を開けろ。すぐだ、すぐ開けなければ」

「俺の……家の……?」


 慌てて飛び起きて、宛がっていたスマホを二度見した。


「お前、今何処にいんだよっ!?」

「お前の自宅の前だ」

「なっ!? 何してんだ!?」

「鍵を開けろと要求している。早くしろ、私は待つのが嫌いだ」


 古いアパートの鉄扉がガンッ!! と言う衝撃音を上げる。


「ちょ、ちょちょ、待て!! 開けるから、玄関壊すなよっ!?」

「お前が早く開ければいいだけの話だ」


 もう一度ガンッ!! と、多分これは蹴られている音だ。


「近所迷惑だから、ヤメロッ!!」


 玄関を開けて叫んだ。

 パンイチで寝ていた俺は、そのまま玄関へと走ったお蔭で永遠子の目の前でその姿を晒す事になる。


「なかなか良い身体に育ったな、紅葉こうよう。邪魔するぞ」

「はっ!? ちょ、待て。勝手に入るな!!」


 玄関から入ってすぐの仕事部屋のドアが開いていた。

 永遠子はそこで一瞬だけ足を止めて、ふん、と鼻を鳴らして奥の寝室へと入って行く。


「お、スルメじゃないか。気が利くな、これでさっき待たされたことは許してやろう」


 昨日テーブルの上に用意しておいたスルメの袋を開けて、勝手に食べ始めた永遠子は「部屋がお前そのものみたいだな」と呆れた顔をする。

 つまりそれは何か? 地味、とでも言いたいのか?


「つか、何しに来たんだよ……。俺、薬持って行くって言ったよな?」


 何か着ようと思って、昨日脱ぎ散らかしたシャツをベッドの上から掴み取った。


「それがこれか?」

「あぁ、薬袋は汚れてたから捨てちまったけど、中身はそれで全部だ。間違えて捨てるとか、気を付けろよな……」


 テーブルの上に置いておいた薬を手に取った永遠子は、チッと舌打ちしてポケットに入れる。


「何で舌打ちなんだよ? て言うか、用事が済んだならさっさと帰れ」

「まぁ、そう邪険にするな。お前のその跳ね上がった欲望を慰めてやっても良いぞ? こんな機会早々ないからなぁ」

「は? 何言って……」


 朝の生理現象をマジマジと見られている事に気付いた俺は、その永遠子の視線に居た堪れなくなり羽織ったシャツの裾で前を隠した。


「お前、バッカじゃねぇのか!? こっち見んな、痴女が!!」

「今更、照れるな」

「照れてねぇ!! 軽蔑してんだ!!」

「顔真っ赤にして説得力が無いぞ」

「こっち来るな、近づくな……」


 口の端から食べているスルメが食み出している。

 色気なんて到底あるわけないのに、この女が何をするか分からないと言う漠然とした恐怖は、この女なら中坊の頃から俺を知っていてもやり兼ねん、そう思える根拠になりえる。

 永遠子はにんまりと笑ってじわじわとこっちへ近づいて来ていた。


「た、ただの朝勃ちだ……こんなの、すぐに……」

「そんな事は知っている。何を焦っている?」

「べ、別に焦ってない……けど……」


 永遠子から逃れる様に後ろへと後ずさっていると、壁に阻まれ行き場を失くした。


「ちょ、マジで勘弁して下さい……」

「まだ何もしていない」

「触ってんじゃねぇかよ! その手をどけろって!」


 俺がシャツの裾を使って覆い隠している息子に、永遠子はゆっくりと手を宛がい下から俺を仰ぎ見た。


 食っていたスルメを完全に口の中に収めた永遠子は、ふふんと笑って顔を近づけて来る。長い髪から、薔薇の香りがした。永遠子はいつも同じ香水をつけている。


「待て待て待て待て!! ホントにちょっと待って!!」

「その欲を宥めてやろうと言っているだけだ」

「そう言う事じゃねぇだろ、お前、ホント何なんだよ!!」


 友達の母親、好きな子の母親、そう言うポジションにいるのがこの永遠子だ。

 そいつとエロい事するとか、あり得ねぇだろうが。

 何でこの女は乗り気なんだ? もしかして俺の事が好き、だったりするのか?

 その割には、投げたり蹴ったり、散々な扱いを受けている。


「お前、もしかして俺の事……」

「もしかして、何だ?」


 永遠子は態度はデカイが身長は低く、上目使いに不覚にもドキッとさせられた。

 自分の即物的な不甲斐なさに脱力しそうだった。ごめん、百……。

 身体の力が抜けた瞬間を狙われたのだと、気付いた時には下半身が宙に浮いていた。

 永遠子を退けようと差し出した右手を一瞬にして取られ、向かいにあるベッドに背負い投げ。

 肺は背中から落ちた衝撃に一瞬呼吸を忘れた。長い足が壁に直撃し、激痛。


「いってぇ……この、クソ女……ひっ!!」


 目を開けた瞬間、右目の横を掠って正拳突きが布団に向かってぶち抜かれた。


「どうだ? これで、俗な欲も冷めただろう?」


 馬乗りになった永遠子は、俺の腹を跨いだまま殺気立った顔で俺を見ていた。

 ほぼ半裸の男の上に、こんな面で乗っかる女はこいつくらいだろう。

 お蔭ですっかり目が覚め、息子は萎えた。


「……はぃ、すいません」

「私がお前とどうこうなろうなんて、天地が引っ繰り返ってもあり得ない」


 満足した、とばかりに眩しい顔で笑う永遠子は俺の上から身体を起こすと「みっともないから服を着ろ」と一蹴した。


「紛らわしい言い方しやがって……」

「お前のソレをしゃぶるくらいなら、スルメを食っている方がよっぽどウマい」

「言い方……お前には恥じらいってもんがねぇのか!!」

「そんな物持っていて、金になるわけでもあるまい」

「金の話なんかしてねぇよ、俺は。常識の話をしてんだ」

「親友の養母と、なんてあらぬ妄想を一瞬でもしたお前に、常識なんて科白は似合わんぞ」

「ぐっ……」

「まぁ、良い。服を着たら付き合え」

「何処にだよ……俺はまだ眠……」


 永遠子は俺の科白を最後まで聞く前に、テレビの電源を入れ遮った。

 画面にはシリアルキラー・サラトガ再び、と大々的に銘打ってあのファンタジックな兼城家が映し出されていた。


「な……んだよ、これ……」


 現場にいるレポーターは、匿名でタレこまれた容疑者である兼城永遠子が今朝から行方を眩ましている、と報じている。


「先手を打たれた。私は今、追われている」

「先手ってどう言う事だ? こんな、百は? 百は大丈夫なのかっ!?」

「心配するな、家には双子がいる。お前はこれから言う場所へ、私を逃がしてくれたらそれで良い」


 何で、などと考えている暇は無かった。

 慌てて服を着て、自分の車に永遠子を乗せ家を出る。


「タレこみって、何で警察はこんなあり得ない事を発表したんだ!?」

「あり得ない事?」

「お前が容疑者だなんて、どんな根拠があって警察はそれを認めたんだよ」

「さてなぁ、私が元監察医だからじゃないか?」


 案外、アッサリと永遠子は監察医だった事を明かした。


「そう言えば、あんた相当有名な監察医の娘なんだってな……」

「何だ、知っていたのか。父はもう引退したがな」

「でも、容疑者が殺した男の子供を三人も引き取って育てているなんておかしな話だろうが」

「罪滅ぼし、だそうだ」

「罪滅ぼし……?」

「父親を殺した罪滅ぼしで、私はあの子達を育てていると言う事になっているらしい。事実は小説より奇なり、私は人体を解剖する技を持ち、九十九さんと仕事柄面識もあった。私と九十九さんが友達だった事は、キノやそれ以外の関係者からすれば周知の事実だ。あの事件の動機は痴情の縺れ、つまり怨恨だ。私が該当してもおかしくない」

「でも、お前は殺してない」


 その一言に、驚いた顔をして見せた永遠子は、ふっと笑って車窓の外へと視線を逃がした。


「どうしてそう言える? お前はサラトガが私ではないと立証出来るのか?」

「何言ってんだ。だって、お前は殺して無いんだろ? 目の前で証言させる事が出来るのに、立証する必要が何処にあんだよ?」

「お前は……本当に、アホだな」


 その言葉を境に黙りこくってしまった永遠子は、俺の部屋から持ち出して来たスルメを抱えてただ呆然と流れる景色を見ている様だった。


「ここから入るのか?」


 言われた通り車を走らせて辿り着いたのは、鬱蒼とした獣道の入口だった。

 ただ、頷くだけで返事を返して来た永遠子は、腹に抱えたスルメに飽きたのか食べもせずに半ば項垂れる様にして助手席に座っていた。

 明らかに人道では無いその道を、俺の車は街乗りの普通車だと言う事を説明するべきかと迷ったが、黙りこくってしまった永遠子に何を言っても引き返す事が無い事位は分かっていた。


「俺と心中でもするつもりかよ……」


 そうぼやいて意を決してその獣道へと車を右折し、俺が言った独り言に呟く様に「それも悪くない」と言った永遠子に、耳を疑った。


 見えて来たのは小さなロッジだ。

 別荘、と言うには余りにも小さく山小屋と言う方がシックリ来る。

 積まれた薪、小さな格子窓、庭には小さな手作りブランコまであった。

 アイビーの絡まる丸太を組んだその小屋は、それこそ、中で小人が働いてやしないか疑いたくなる様な雰囲気だ。


「自宅もここも、父の趣味でな。あの人はファンタジーが好きなんだ」

「へぇ……」

「ここで良い。あの家には暫くマスコミが集るだろうから、お前も大人しく家で仕事でもしてろ。お前は何も知らない、誰にもこの事を言わない」

「ちょっと待てよ、双子にはどう説明するんだ? あいつらはお前がここにいるって知ってんのか?」

「知らせてはいないが、知ればあいつらはここに来るだろうから、言うなと言っている」

「何でだよ? あいつらだって、心配するに決まってんだろ?」

「だからだよ。何の為にお前をアシにしたと思っている? 双子は私が目の届かない所へ行くのを嫌がる。それが分かっているから、お前にここまで連れて来て貰ったんだ。もし、双子がここへ来れば居場所が漏れて私は警察に捕まる羽目になるだろう」


 容疑者として目を付けられた永遠子の居場所を特定する為に、黒羽くろう藍羽あおばも警察に尾行される恐れがあると言う事か。


「……でも」

「そんな顔するな、紅葉。大丈夫、私がここにいる事をキノは知っている。当面の面倒はキノに見て貰うから、心配しなくて良い」


 永遠子がメガネ監察医をそこまで信用している事に、少し驚いた。


「わ、分かった……」

「紅葉」

「な、何だ?」

「お前はパズル作家だ。作った物を壊す事が出来れば、壊れた物を並べて修復し、元に戻す。それは、お前の得意とする所だろう?」

「だ、だから何だ?」

「ふっ、期待していると言う事だ。くれぐれも、ここを口外するんじゃないぞ」

「何だよ、意味わかんねぇ事ばっかり言いやがって。誰にも言わなきゃいいんだろ」

「良い子だ、ご褒美に一つヒントをやろう」

「ヒント?」


 車を降りて開いたドアから覗き込む様に俺を見た永遠子は、やんわりと笑ってこう言った。


「何故、私が逃げなければならん?」


 永遠子はそう言って俺の頬に手を当て、撫でる。

 その一言を理解するのに多少の時間を要した俺は呆然と永遠子の顔を見た。

 何も言えずにいるうちに、パタリと車のドアを閉め、小屋へと吸い込まれる様に姿を消す永遠子の背中を目で追った。 


 確かにそうだ。

 永遠子がやっていないのなら、警察に出頭して無実を証明すれば良い。

 証明出来ない、もしくは証明するのには時間が必要なのか?

 それとも、本当は永遠子が……。

 そこまで考えて、俺は頭を左右に振った。


「あいつが、サラトガだなんて事あってたまるかよ……」


 あり得ない。そんな事は、あってはならない事だ。

 双子は俺と似た者同士で、あまり他人を寄せ付けない。

 あの適当と書かれた札を額からぶら下げている様な藍羽でさえ、上辺だけで本心から他人を信用したりはしてない。だから、俺達は一緒にいて居心地が良かった。

 以心伝心とまでは言わないが、何となく相手がどう思っているのかが分かるから。


 その双子が、血の通わない永遠子を母親として認めている事は、それだけ信頼していると言って良い。

 あいつらの母親は俺達が小学校一年生に上がった、百が産まれてすぐの夏、病気で逝った。


 いつも元気で、笑顔の絶えない綺麗な人。双子の母親の印象はそんな感じだった。

 母親の記憶が無いのは百だけで、双子の中にはちゃんと産みの母の記憶はある筈だ。

 唐突に現れた永遠子を母とは呼ばないが、その戸籍に入り、養母となって貰う事を双子は二人で決めたと言っていた。


 なのに、その永遠子が父親を殺した犯人だなんて事、絶対にあってはならない。

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