第14話 メガネの本気
目が覚めた時、そこは真っ暗なとても狭い場所だと言う事は分かった。
足が折れて窮屈だったからだ。
「ここは……どこだ……?」
頭が重く、気怠い感じが抜けなくて体を起こすのもやっとだった。
何にせよ狭くて身動きがとりずらい。
でも、横になっていると言うよりは体育座りで箱のような物に入っている、といった感覚だった。
その感覚には身に覚えがある。百が好きなクローゼットの中は、こんな感じだ。
訳も分からず、拘束されているわけでもないので左右の壁を押してみる。
どっちかが扉であれば、開くかもしれないと思ったからだ。
「開かねぇのかよ……はっ! って言うか、百っ!」
さらに激しく左右の壁に体当たりしてみたが、ビクともしない。
百の記憶を無理に掘り返す為に、俺が邪魔だったって言うのは分からなくもない。
双子があの提案に乗ったのは意外だったけれど、そこそこ腕の立つ俺が邪魔だったとしても、何でこんな所に閉じ込められる必要があるのか、サッパリ分からない。
「百……」
永遠子は死んだ。
あの永遠子が、死んでしまった――。
俺が拾った薬を態々取りに来た時点で気付くべきだった。
スルメを噛むのも面倒臭がる永遠子が、態々出向いて来た理由をちゃんと考えるべきだったのだ。
百が苦しい想いをして、そのせいで双子も苦しんで、でももうあいつらの家族になった永遠子は戻らない。
永遠子の人権を守る事は俺も願う所だが、生きてる人間がそれで苦しむのは本末転倒じゃないのか。
紀乃屋は、監察医の世間体を守りたいようだったが、そんなもの俺に取っちゃ鼻糞みたいなもんだ。
百のこれからの人生と秤に掛けられる様なもんじゃない。
「クソッたれが!!」
思いっきり前の壁を蹴りつけたら、途端に視界が開けた。
どうやら、出口は前にあった様だ。
いつも百とクローゼットに入る時に、横向きに入る癖で、右か左に扉があると思い込んでいた。
「おや、目が覚めた様ですね」
突然の眩しさに双眸を細め、視線の先には半窓に沿う様にしてベッドが置かれ、そのベッドの縁に腰掛けた紀乃屋の姿が見える。
何となく、見覚えのあるその光景に、俺は自分の記憶を辿ってみたが思い出せなかった。
「ここ、どこだよ……。って言うか、百の所へ……」
「百ちゃんは大丈夫ですよ。二人のお兄ちゃんが一緒ですから」
「ここは、あんたの部屋なのか?」
「いいえ、貴方の為に用意した特別な部屋です」
「俺の為?」
「ったく、こんなに長く掛かるとは思いませんでしたよ。でもまぁ、これで終わるでしょう」
そう言った紀乃屋はいつもと同じ様に仏の様な微笑を俺に向けて、立ち上がる。
俺は良く飲み込めない状況に、一歩後退り、後ろにあるのが見覚えのあるクローゼットだと言う事に気付いた。
「懐かしいですか?」
「これ……箱田の親父さんの……」
親父さんの部屋のクローゼットは俺と百の秘密基地だった。
と言うか、双子の邪魔をされずに百を独り占め出来る場所がそこだっただけの話だが。
古い蝶番、錆色の取っ手、何処かで見た事ある様な観音開きのクローゼット。
でも、今じゃスライドドアの埋め込まれた様なクローゼットや、デザインも豊富になって、こんな昭和の匂いのするクローゼットはあまりお見かけしない。
親父さんは、結婚した時に自分の祖母から譲って貰ったと言うこのクローゼットを捨てる事が出来なかった、と聞いたのは親父さんの事件の後だった。
嫁を貰うんであって、嫁に行くわけじゃないって何度も断ったのに、断り切れなかったんだって、親父らしいって、双子は笑っていた。
「えぇ、探すのに苦労しました。でも、完璧じゃないと意味が無い。こうなったのは君のせいでもあるんですよ? 僕はヒントを与えてあげたのに……」
語尾を有耶無耶にした紀乃屋は、フッと笑って俺を見た。
「ヒント……って何だ……?」
「さぁ、最後のゲームを始めましょうか、
紀乃屋のその科白を聞いて、俺はこの男を投げ飛ばしてこの部屋から一刻も早く出なければならない、と言う危機感に苛まれた。
なのに、逃げなきゃいけないと思うのに、何故かその場から足が動かない。
いつもモミジくん、と揶揄した呼び方をする癖に、態とコウヨウと呼ぶ紀乃屋に、妙な畏怖を感じる。
「逃げたいですか?」
「ち、近寄るな……」
背後に立っている紀乃屋から一歩距離を取るのが精一杯で、衝動をどうにもする事が出来ないまま、焦燥感だけが募って行くのを、ジワリと蟀谷から落ちる汗と一緒に感じた。
何でこんなに体の自由が効かないのか、薬でも盛られたのか。
気付けば部屋の中に少し甘い香りが漂っている。
その香りは記憶の中に僅かに掠る程度に覚えのある匂いだった。
ただ、それが何処の、誰の、匂いだったか思い出せない。
そもそも、拘束すらせずに何で紀乃屋はこんなに余裕なんだ? 俺が永遠子に格闘術を習っていた事位は知っているはずだ。
「何で、そんなに余裕なんだ? と思っていますか?」
「何だって……?」
「そんな顔をしています」
君は分かりやすいですから、と付け加えた紀乃屋はスッと右手を出して俺の右手首を掴むと、自分の方へ引き寄せ押し戻し、その反動にバランスを崩した俺の足をサラッと払って俺は背中から床に落ちた。
「ぐっ……!!」
「言ったでしょう? 僕はあの女と旧知の仲だったと。若いと言う解釈に語弊があったかもしれませんが、私はあの女と幼少期からの付き合いでしてね。あの女が出来る程度の事は、僕にも出来ます。勿論、君に後れを取る様な事もありません」
紀乃屋の手際の良さに、呆気に取られた。
ちゃんと紀乃屋の手の動きは見えていたはずなのに、払う事が出来なかった。
「何が目的なんだ! 百の記憶を取り戻すのに、俺が邪魔だったんだろう? なら態々こんな手の込んだことしなくても……」
「言ったでしょう? これは最後のゲームです。僕はもう終わりにしたいんですよ。なので、手を抜くつもりはありません」
仰向けに転がされてしまった俺の胸倉を掴んだ紀乃屋は、そう言ってゆっくりといつもより口角を上げて信じ難い科白を吐いた。
「永遠子さんを殺したのは僕です」
何故、どうして、そう口にしたいのに痺れた様に体は動かなくなってしまった。
*
意識を取り戻した時、既に紀乃屋は居なくなっていた。
床に仰向けに倒れたまま天井をぐるりと見渡して、その部屋は箱田の親父さんの当時の部屋を再現してあるのだと、突然思い出した。
見覚えのある古いクローゼット、扉を挟んで反対側には同じ時代を過ごして来た様な、見覚えのある振り子時計が柱に打ち付けてあった。
振り子が左右に揺れるのを、右、左、と指差して百と遊んだ。
こっちが右で、こっちが左、そんな事を兄貴ぶって教える度に、百は喜んで時計の前に座って振り子を指して俺に教えてくれるのだ。
「こうちゃん、こっちがみぎ!」
「うんそう」
「ひだりっ!」
「うん、右、左」
右、左、右、左、テンポよく振り子を指で追って、百は楽しそうに笑う。
俺はその深爪気味で、小さな桜貝の様な可愛い指先が好きだった。
指先で鳴らしている様なカチ、コチ、と言う穏やかな心音に似た振り子の音はノスタルジックに蘇ってくる。
親父さんの部屋の古いクローゼットがお気に入りの百はいつもそこに入りたがって、でも暗いのが怖くて一人じゃ入れなくて、いつも俺はその秘密基地にお供仕る役目だった。
「百、それ、持って入るの?」
「うんっ」
「中、暗くて出来ないよ?」
「おにいちゃんがつくっちゃったら、もも、たのしくないもん」
「あぁ、そう……」
「これはもものだもん」
「そうだな、それは百だけのもんだ」
俺が数日前に誕生日プレゼントに作ってやったパズルだ。
すぐさま作るかと思いきや、百はそれを箱に入れたまま数日持ち歩いていた。
完成してしまったら楽しくなくなるから、と好きな物は最後に取っとく主義の百らしい発想だった。
クローゼットの中では主にお喋りが多い。
その頃まだ小六だった俺と、小学校に上がったばかりの百は並んで座ってクローゼットの中で秘密のお喋りをするのだ。内気で人見知りの激しい百は四月に入学したばかりだったが、まだ友達が上手く出来ない様だった。
薄暗い中で、百は双子の兄のどっちが好きかを教えてくれたりする。
それは大概その前に百を喜ばせた方の兄が選ばれている事が多い。
でもその兄の溺愛虚しくお父さんが一番好きだとか、良く動く唇は「こうちゃんもすきだよ」とリップサービスも忘れない。
「こうちゃん。おとうさん、もものことすきかな……」
「あったりまえじゃんか! 多分、おじさんの事だから百より好きな人はこの世にいないと思うぜ?」
「そっかな……」
「どうしたんだ?」
「おとうさん、おはなかってた」
「お花?」
「うん。でも、おかあさんにはあげてない」
百が言うお母さんは、おばさんの仏壇の事だ。
おじさんや双子がそれをお母さんと呼ぶので、百の中ではその黒い仏壇の名前がお母さんだと思っている様だった。
でも、それがお父さんの大事な物だと言う事は理解していた。
双子が好きな物は百も大抵好きだ。
皆がそれを大事にしているから自分にとっても大事な物、そんな感じだった。
「そうなのか……大きいお母さんにあげたんじゃない?」
「あげてない……。くろちゃんがちがうっていった……」
「あぁ、じゃあ、藍ちゃんにも……」
「あおちゃ、しらないって……」
大きいお母さんは自宅から一番近い寺院にある墓の事だ。
お盆になると大きいお母さんに会いに行こうと言われるので、墓石は大きいお母さんなのだ。
「もも、もらってないぃ……」
「わ、ちょ……泣かないでっ!」
お母さんも大きいお母さんも貰ってないのに、自分も貰ってない。
一体あの花は何処へ行ったのか? 多分この可愛い姫君はそう言いたいのだ。
隣にいる百を抱っこしてよしよしと頭を撫でてやる。
甘いシャンプーと、柔軟剤の匂い。
手触りの良い細く柔らかい髪を触るのが俺はこの頃から好きだった。
「お、俺がお花あげるから! な? 泣くなって!」
「うっ……。こうちゃんが? くれるの?」
「お、おう!」
「おとうさんがかったやつがいい……」
「え、じゃあ、おじさんに聞いてみないとな」
「しろいやつ……」
「そっか、分かった」
「おとうさんのがいいけど……」
「うっ……そんな事言うなよ」
泣いた烏はそう言ってケラケラ笑ったりする。
生意気で、我儘で、それでも愛らし過ぎて憎めない。
天性の妹気質に振り回される二人の兄と俺は、それでも毎日が楽し過ぎてあんな事が現実に起こるなんて微塵も思ってなかった。
だから、二人して眠ってしまったんだ。
何時もの何の変哲もない日常が、続くと思っていたから。
そして圧倒的に不変である事がどれだけ尊いかを思い知る事になる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます