第15話 雨合羽の木乃伊 

 気付いたら扉の外で話し声が聞こえた。

 おじさんが電話しているのだと分かった。


「いや、だから……そう怒らないでくれよ」


 何か、喧嘩しているのか? 一生懸命、電話の相手に謝っている。

 寄り添う様に眠ってしまった百は、寝ているからちょっと重くて、抱える様にして座り直し、そっとクローゼットの扉をちょっとだけ開けて覗いた。


「ちょ、待て待て待て待て!! 永遠子!? 電話切るなよ?」


 永遠子? 誰だっけ?


「まだ子供達にもちゃんと言ってないんだが、いや、話すつもりだったんだって! でも昨日帰れなくなっちまって……徹夜明けで今、風呂に入ったばかりなんだよ! 今日お前が来てからちゃんと話す。七時くらいには来れそうか? 子供達に話してあいつらが良いって言ってくれたら、残りの百七本を持って行く。長く待たせて済まないな。でもお前は本当に良いのか?」


 残り百七本。花か?


くどいってお前……そりゃ諄くもなるだろ……。お前、子持ちになるんだぞ? それも三人もいるんだぞ……」


 子持ちになる? もしかして、おじさん再婚するのか?

 あぁ、それで花なのか。何となく読めて来たぞ。

 百が貰えなかった白い花は電話の相手にあげたのか。


「しつこいって、あーもう、分かった。いつもの様に玄関の鍵は開けておくから、勝手に入って来てくれ。俺の部屋は玄関から入ってすぐ左の部屋だ。俺は今から仮眠取るから、起きる自信が無い……いや、起きるけども……多分」


 新しいお母さんが出来るのか……。百、良かったな。良い人だと良いな。

 大人しく寝息を立てている百は、癖で俺の服の裾を握り締めてしかめっ面で引っ張りやがる。

 何だ、ちょっと気に入らないのか?


「期待してないって、お前酷いな。一応起きる気はあるよ……だが、寝てないんだって! この前の休みも運動会だったんだ、お父さんちょっとお疲れなのよ……。でも、この豪雨の中お前を閉め出す方が俺の命に関わる……。それに、その時間帯なら子供達はリビングで揃って飯食ってる時間だから、お前が勝手に入って来ても鉢合わせる事もねぇよ」


 ぷ。おじさん、怒られてら。


「何? 起きたら豪雨が酷くなるから黙って寝てろだと!? 絶対起きて出迎えてやるからな!」


 おじさん、尻に敷かれてるな。つか、花とかあげるんだな、やるな、おじさん。

 

 でも、その奇跡は起こらなかった――――。



 ただ、百を守らなければならないと思ったんだ。 


 その隙間から見えたのは、横たわるおじさんの腹と、血に塗れた手、振り翳される度に赤い飛沫が飛んで、カッと眩しい雷が光る度に花火の様に見えた。


 雷鳴、雷光、その中で動く黒い影。

 耳をつんざく様な空が割れる音に混じる、豪雨の泣き声。

 さっきまで電話で喋っていたのに、いつの間に横になったのか分からなかった。

 でも、その異常な光景を百に見せるわけにはいかない。

 だって、あの赤い肉の塊は……。


 百がこの世で一番好きなおじさんだ――――。


 呼吸の仕方も唾液の飲み方も、忘れた様な息苦しさがあった。

 その息苦しさの中で鼻腔に溜まる様な甘い香りに嘔気が胃から駆け上がって来る。

 充満する鉄の匂いに混ざるその甘い匂いに、俺は片手を宛がって競り上がって来るものを堪えた。

 百を抱いた左腕が震えて、その震えを止めたくて俺は右手で左手を抑えて、百を囲う様に抱きしめ縋る。


 泥濘を何度も踏み荒らす様な耳につく音が繰り返し鼓膜に響いて、果肉に無作法に爪を立てる様な、膿んだ傷を乱暴に穿る様な音に熱を失った唇が震える。

 自分の呼吸でさえ鼓膜の内側に響く様で、目からは生理的な恐怖が溢れ出していた。

 滲んでしまうその隙間の景色が恐ろしくて、俺は必死に瞬きを繰り返す。

 シャッターを切る様に、瞼を開く度新しい映像が記憶に焼き付けられた。


 何度も刃物を振り下ろしているその黒い影は、雨合羽の様な物を着ているのだと分かった。

 フードに隠れて顔は見えないけど、手に持った赤い肉の塊を大事に撫で、大きな黒い鞄からビニール袋を出してそれを入れている。

 ビニールに入れられた刳り貫かれた親父さんの眼球と目が合う。

 何で、どうして、そんな所で黙って見ているのかと責めるその目に、俺は訳も分からないまま頭を左右に振り続けた。


 暫く同じ行動を繰り返していた雨合羽は、鞄から一輪の白い花を出しておじさんに握らせ、恭しく胸のあたりにそれを置いた。


「あぁ……こうするしか無かったのは、貴方のせいよ……」


 雨合羽は散らばった物を綺麗に並べたりして、どの位時間が立ったか分からないけど、二階でゲームをしていたはずの双子の事が気になりだしたのはその位からだった。

 こいつが何処から入って来たのか、そんな事を考えて、俺はしてはいけない妄想を始めてしまったのだ。


「これでやっと私だけのものよ……」


 雨合羽はそう言うと血に塗れた手で白い花を握って赤く染めた。

 身体を起こして大きな黒い鞄、多分百一人なら入ってしまいそうな大きな鞄を窓の外に投げ、俺の方を一度振り返る。


 メガネ。最初に視界に入ったのはソレだった。


 こっちに来るな、こっちを見るな、気付かないでくれ――――。


 ジッと目が合った様な気がして、俺はつい仰け反る様に扉から離れる。

 俺はその顔を一生忘れないだろう。その時は明確にそう思った。

 鮮血の付いた唇や、死んだ魚の様な目、体中に巻かれた包帯。

 その上から艶のある何かを捲いている様に見える。

 あれは、サランラップかビニールテープの様な……。

 出ているのは目と口と指先だけだった。

 顔面にも手の甲にも包帯が巻いてあるのが見て取れて、その包帯はおじさんの血で真っ赤に染まってしまっている。


 心臓を握り潰される様な長い長い数秒を、瞼を瞑って耐えた。

 瞑った瞼から血が滲み出るんじゃないかと言う位強く目を瞑ったら、蟀谷に鈍痛が走った。

 雨合羽の木乃伊みいらの様なそいつは、窓枠にその大きな黒い鞄を掛け、踏み台にして窓枠を跨ぎ部屋から出て、暴風吹き荒れる豪雨の中へと消える。

 車のエンジン音が聞こえた様な気がした。


 血飛沫で赤く染まり、はためいているカーテンがバタバタと煩かった。

 負けじとガタガタと騒ぐガラス窓。

 原形を留めない動かない赤い塊がベッドの上に横たわっている。

 噎せ返る様な鉄の匂いは窓の外に攫われて、代わりに降り込む雨に薄いストライプ柄だったおじさんのベッドの上はジワジワと赤が浸食して行く様だった。


「おじさん……ごめん……おじさん……俺……」


 奥歯が自分の意志とは関係なく震えるのを止められなかった。

 何で出て行けなかった。

 固まった様にこんな所で見ていた俺は、双子や百に何て言って謝るつもりなんだ。


 動けなかったんだ、百がいたんだ、怖かったんだ、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい!

 だって、何が起こったか分からなかったんだ――――。


「ウワァアアアアアアッ!!」


 おかしくなってしまえ。狂ってしまえ。

 何も見なかった、何も知らない。

 何も知らない事にしてしまえば良い。


「こうちゃ……ん?」

「アァ……ァ?」


 涙も鼻水も止まらない。

 凍える程冷たい汗が皮膚の汗腺と言う汗腺から吹き出して、身体は濡れているのに、体内は渇いてしょうがない。

 多分この時の俺は、外の豪雨の中を走り回って来た様な顔面を曝していただろう。

 吐き出すばかりの短い呼吸が息苦しさを拭えなくて、深く息を吸いたいのに上手く吸えなかった。

 怯える様な百の声に少し理性が戻った気がしたが、それも気のせいだったかもしれない。


「み、見るな、百。見るんじゃない。絶対見たらダメだぞ。誰かがここに来るまで、俺が良いって言うまで、こうしてるんだ。何も見たらダメだ……」


 百の頭を抱く様にして、いつ、意識を手放したかはもう覚えて無い。


 次に瞼を開いた時、百がクローゼットの中に持って入ったパズルが零れる様に散らばっているのが視界に入った。


「……よう! 紅葉こうよう! おいっ!!」


 何だよ、そんなに必死になって。お前、いつもそんなんじゃないだろ。

 瞼を開けても、少しボンヤリとした視界はなかなかクリアになってくれなくて、声だけで双子のどっちかを言い当てるのは俺の特技の一つだったから、間違わずに済んだ。


「あお……ば? もも……は?」

「……ごめん、ごめんな……妹、守ってくれてありがとう」

「……何、泣いてんだ」


 謝るのは俺だったハズなのに、何で謝らなければならないのか思い出せなかった。

 何があったっけ、何か凄く疲れて眠くてしょうがないんだ。




                *




 寝過ぎて背骨が痛いくらいだった。

 薄暗くて、少し前の記憶が、寝る前の記憶が無い事に少し不安になって電気を点けたら向かいに住んでる双子が飛んで来たのを覚えている。


 もう平気か、痛い所はないか、具合は悪くないのか、二人が同時に喋るから寝起きの俺は何を言われてるか分からなくて両手でそれぞれの脳天に、同時にチョップを食らわした。


「喧しい。ちょっと落ち着け」


 良かった、と涙目になる黒羽に俺は目を丸くしただろう。

 いや、だって、黒羽がそんな風に泣いた所を見た事が無かったんだ。


 双子が帰った後、双子の家に掛かっている鯨幕を見て両親に何事かと詰め寄ったら、おじさんが逝ってしまったのだと知ってさらに混乱を極めた。

 何でそんな時に、俺の事なんか心配して飛んで来たのか、どうせ風邪で寝込んでいた程度の事だろうに、と俺は翌朝両親と一緒に弔問に行った。

 百がどんな様子か心配だったけど、今はとても会わせられないと双子が言うので会う事を諦め帰ろうとしたその時、玄関先で「永遠子さん」と言う名前が耳に掠る。


「永遠子さん……?」


 喪服を着たその人は、俺に呼ばれて振り返ったけど返事は無かった。

 長い髪を綺麗に上げ、細くて白くて小柄なその人は作り物の様で、生気の無い無機質な雰囲気が少し怖い位だった。

 俺はペコリと頭を下げてその場を足早に立ち去る。

 何でその名前に反応したかすら、自分でも良く分からない。

 ただ、聞いた事があると思ってしまったんだ。

 でも、俺は永遠子さんを知らなかった。


 そしてそれから初七日を終えて翌日、百に会う事すら叶わずに向かいの箱田家は空になった――――。 

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