第19話 ロレンソの希望
埃臭い倉庫内に響いたその咳を待っていた、と言う素振りで紀乃屋は栗梅色のソファへと静かに歩いて行った。
「とっくに目は覚めている筈ですが?」
「あ”ぁ”……良く死んだわ――……」
酒焼けした様なガラガラと掠れた声でシーチングを思い切りよく剥ぐって現れたのは、永遠子の亡霊だった。
「あの遺体を見て……ここまで半信半疑だったけど、本当に茶番だったんだな」
俺は自分の中に立てた「永遠子が逃げて、その永遠子を紀乃屋が殺した」と言うシナリオを遂行する為には、不可能を可能にするワンピースが必要だと気付いた。
ただ、知識のない俺にはそのワンピースを作り出す事が可能かどうかも分からなかったので、現役薬学部に在籍している聖夜に頼んで、そんな事が可能かどうかを調べて貰った。
聖夜から超長文と一緒にリンク付きで送られて来た情報の中にはその事も書かれていた。
「知らなかったのはお前だけだがな?
「クソ女がっ……」
「とわこっ!」
俺の腕の中に囚われていた百が、ソファの上で怠そうに起き上がった永遠子へと駆け寄って行く。
「百、上手に出来たな。良く頑張った」
「とわこっ……とわこっ……」
膝に縋りつく様にして百は永遠子の顔をマジマジと見る。
その百の頬を撫でて、永遠子はバツが悪そうに笑って見せた。
「怖かったか? もう大丈夫だ。ほら、ちゃんと動いてるだろ?」
「ん……」
ゆっくりとソファから立ち上がった永遠子は、隣で呆れた風に見ている紀乃屋に口を尖らせて「何だ?」と眉を寄せた。
「いつまで黙って聞いているのかと思ってましたよ?」
「いやー、僅かな時間とは言え流石に死んだのは初めてだからな。なかなか体温も上がらんし、そこの
「薬の配分量を間違えたのかと思ってひやひやしましたよ」
「終始楽しそうにしていた癖に、良く言うよ。それに、お前が配合をミスるなんて致命的な事するわけがない。だからお前に殺させた」
「いつも僕の扱いが酷過ぎますよ。一歩間違えば僕は犯罪者です」
「試してみたかったのだろう? 子供の頃からロレンソの薬を使ってみたいと言っていたではないか。この話を持ちかけた時のお前の希望に満ちた目を私は一生忘れてはやらんぞ」
「まぁ、楽しかったですけど……。ロレンソがジュリエットに渡した薬はアヘンを使った麻酔薬だと言う説があるそうなので、正確にはロレンソの薬では無いですけどね……」
「ロミジュリヲタクの事情はどうでも良いよ」
この二人の会話はいつだって周囲から逸脱している様に聞こえるのは、きっと俺だけじゃないはずだ。
「どういう事だ、紀乃屋!! 私を謀ったのか!?」
血が滲むのではないかと言う程下唇を噛み締めた花月が、癇癪を起こした子供の様に握り締めた拳を震わせている。
紀乃屋は多分、俺が目撃者であると言う情報を花月に漏らし、適当な理由を付けて懐に入った。
花月の信用を得る為に、永遠子を殺して見せ、その計略に花月はまんまと乗せられたと言う事だろう。
「謀った……でしょうか? 私は貴方に嘘は言ってません。あの事件の目撃者は百ちゃんでは無くここにいるモミジくんですし、ちゃんと貴方から言われた通り、永遠子さんの死体をお見せしたでしょう? 心肺は停止していましたし、文字通り死体でした」
生き返っちゃいましたけど。
と、あっけらかんと付け加えた紀乃屋を穴が開く程睨みつけた花月は、自分の掌の上で踊っていたはずの俺達に、完全に踊らされていたと言う事に腹を立てている様に見えた。
苛めていた子供が、掌を返したように苛められる側になった事を悟った時、まずその子供は僅かな怒りを見せる。
王様だった椅子からいつ蹴り落とされたのか、それに気付かなかった自分を陰で笑っているであろう家来達に最後の威厳を見せようとするのだ。
それが、もう効力のない物だと思い知るまでの僅かな間だが。
「植物毒に詳しい花月さんにはあまり説明は必要ないかも知れませんが、テトロドトキシンと言うフグ毒を使った仮死状態にする薬を使いました。本当に死んで見せないと懐には入れないと、永遠子さんが譲らないものですから。あ、でもテレビの取材の時には貴方に有利になる発言をしたつもりですよ?」
僕はこう見えて誠実なんです、と嘯きながら、紀乃屋は心の底から楽しそうに見える。
今思えば、あれは紀乃屋がサラトガに疑われない様にする演出だったのだろう。
「ジュリエットが仮死状態に陥った薬を、一度使ってみたかったんですよねぇ」
紀乃屋は理科の実験でもするかのような安易さで、そんな事を零した。
「まぁ、もう、あんたの悪戯は終わりって事だよ」
面倒臭そうに両手をポケットに突っ込んだ永遠子が、ゆるりと一歩前に出た。
「証拠もないのに、私を糾弾出来ると思っているのか?」
「んー、まぁ、そうだよね。一番欲しかったのは証拠だったけど、それが手に入らないから妥協する事にしたわけだ」
そう、それが永遠子が逃げて、紀乃屋が永遠子を殺した理由だ。
「あんたは、この世で一番邪魔に思っている九十九さんの恋人だと言われている私が容疑者として世間から追われている。これをチャンスだと思った。だろ?」
「……」
「そこからこのゲームは始まっていたんだよ。因みにタレ込んだ匿名希望者は紀乃屋だ。つまりあのタレこみは自作自演だったって事。あんたの有利な状況を作ってあんたが動く様に仕向けたのさ。まぁ、この青瓢箪が記憶を取り戻せるかどうかは賭けみたいなもんだったんだけどさ。どっちにしてもあんたの負け。ゲームオーバー。今頃、あんたの家には家宅捜索が入っている頃だ」
「なっ!? 何の罪状でそんな勝手な真似が出来ると言うのだ!」
「何の罪状……? そんなのはテメェの胸に聞きな。あ、因みにうちの双子は外で転がってなんかないよ? 流石に腕の立つキノでも、二人相手じゃ敵いっこない」
ポケットからハンカチに包んだ様な物を取り出した永遠子は、それを花月にも見える様に差し出した。
そのハンカチには俺がダストボックスで拾ってしまった錠剤が包まれている。
「それは……」
「薬袋のまま拾っていれば良いものを、中身を出して指紋ベタベタ付けやがって……」
そう悪態を吐いた永遠子は、俺を一睨みすると花月へと視線を戻した。
「ラボナにイソミタール、こんな物を無許可で一般人に譲渡していたんだ。うちの子らが見つけたマグノリアクリニックの女医を追求したらあんたの事を洗い浚い喋ったそうだよ? あんたの条件に見合う患者を紹介して、薬を横流ししていたって……」
「条件に見合う患者……?」
「
「それは……あの、素直になるお薬にも関係あんのか……?」
「お前は理屈も分からんのに、ホント勘だけは良いよな」
「うるせぇよ!」
「ブルグマンシアと言う植物から抽出されるスポコラミンと言う成分がある。この女はその毒性を利用してアロマオイルと言う形で、リリスの泉の会員に服毒していたのさ。洗脳するには効果覿面だからな」
「別名をエンジェルトランペット。その辺りのガーデニングでも見かける誰でも見た事がある様な花です。だがその毒性は侮れません」
紀乃屋はそう言ってスマホの画面を俺に向けた。
その画面には百合の花が頭を垂れた様な白い花の写真が写っている。
確かに、何処かで見た事がある様な花だった。
「自白剤の様な効果を発揮します。意識は朦朧とし、薬の調整を行えば相手を従順な奴隷にする事も可能です。九十九氏はこの薬のせいで素直にベッドに横になり、抗う事も無かったのでしょうね。ナチスが使用した【真実の血清】はベラドンナと言う植物が使われていたようですが、このブルグマンシアが有するスポコラミンは古くから無意識に抑圧されている深層心理に作用すると言われています。人を意のままに操りたい花月さんにはお誂え向きですよね」
紀乃屋は笑ってなかった。
聖夜に頼んで探して貰っていた仕掛けは、リビングのテーブルの下から見つかった。
小型の加湿器と雑貨屋なんかで見かける手乗りサイズの扇風機。
俺達が座っている風下に向かってその加湿器の蒸気が流れる様にセッティングされていたのだ。
勿論それを仕掛けたのは、紀乃屋に唆されている事に気付かず、紀乃屋の計略にまんまと嵌った花月だろう。
「だから、箱田の親父さんの部屋から加湿器が無くなっていたのか……」
永遠子が「何かが足りない」と言っていたのは加湿器の事だ。
あの日、視界をユラユラと煙に巻いていた加湿器の蒸気。
記憶の隅に掠る甘い匂いは、その蒸気の匂いだとずっと忘れていた。
あの、紀乃屋が用意した箱田の親父さんの部屋の窓が閉まっているのを見て、その痕跡を消す為に、換気の為に窓を開けたのだと気付くまでは。
「あの事件の証言者は全員子供。事件後すぐにあの現場を見て父親の部屋から何が無くなっているか、なんて真面に証言出来る状態じゃ無い。しかも現場は嵐に荒らされた有様だ。警察は加湿器があったかどうか、なんて考えも及ばなかった事だろう」
「加湿器を残していけばその残った成分を分析されてしまう……?」
「そう言う事だな。それで、こいつはその本体ごと持ち去った。自分が贈ったアロマオイルの箱と一緒に……。その箱に盗聴器でも仕掛けていたんだろう」
「何でそんな物があるって、永遠子は知ってたんだよ?」
「それは秘密だ」
そう言ってニヤリと笑った永遠子の隣に立っている紀乃屋のスマホがけたたましく鳴った。
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