第10話 一輪の薔薇
「入れ」
壁一面には本棚、ビターチョコの様な深みのある焦げ茶色のアンティークの家具は白い壁に良く似合っている。
曇った空からはいつの間にか雨が落ちて来て、窓ガラスを叩いて虚しく弾けた雨粒が豪奢なジャガード織のカーテンの隙間から流れているのが見えた。
その窓辺に一本の白い薔薇の鉢植えが置かれている。
その隣にウイスキーの角瓶が置いてあるところが、永遠子らしい。
大きな木造りの猫足の付いた机には、その部屋にはそぐわないパソコンが置かれて、その傍には鼈甲色のフレームの丸眼鏡も置かれていた。
「
「知らん」
「は? 知らねぇの?」
「仕事、してるのかさえ定かじゃ無い」
「そう、なのか……」
藍羽は窓辺へと歩いて、白薔薇の鉢植えを指した。
「これは親父が永遠子へと贈ったものだ」
「え?」
「俺達はあの事件の少し前に、親父と一緒に花屋でこれを買った。親父は人にあげるから、一緒に選んでくれって俺達を花屋へと連れて行ったんだ」
「それはつまり、永遠子が親父さんの……」
「それは分からん。俺達が、そう解釈していると言うだけの話だ」
「どう言う意味だ?」
「俺達が初めて永遠子に会ったのは、警察署内のある一室だった」
事件後、司法解剖へと回された親父さんの遺体の事を説明しに来たのが永遠子だったと言う。
何が起こったのか、呆然自失としていた双子に永遠子は「私が仇を討ってやる」と言ったそうだ。
「そん時、意味が良く分からなかったけど、葬儀が済んだ夜に永遠子が養子縁組の話をして来た時、流石にこの女は頭がおかしいんじゃないかって思った」
「ははっ、確かにな……」
「でも、その後すぐ永遠子は仕事辞めて本当に俺達を引き取る手続きをしに来た。
「そりゃ、容疑者が恋人だったって言われてたからじゃね……?」
「でも、子供の俺達は赤の他人が引き取る事の方がおかしいって思ってた。恋人だから、結婚するつもりだったから、とか言われた方がすんなり理解出来たと思う」
「まぁ、そうだな。それは確かに……」
理由が分からない事と言うのは、意外と強敵だ。
こうだから、と尤もらしい理由を言われた方が簡単にコクリと飲み込める事がある。たった一人の父親を殺されて、小さい妹を抱えて、二人の兄は選択を迫られた。
そりゃ、理由が欲しかっただろうことは容易に想像できる。
「黒羽が親父との関係を問い質した時、永遠子は黙ってたよ。だけど、仇を討ってやると言った時の永遠子は嘘を言っている様には見えなかった。ここに越して来て暫くして俺達はあの鉢植えを見付けた。親父はあの鉢植えを買った時、あれを契約の前金だって言ってたんだ」
「契約の前金?」
「お前知ってるか? 薔薇の本数って意味があるんだぜ?」
「は? 意味?」
「一本の薔薇は一目惚れなんだとよ」
「へぇ……って、永遠子に、一目惚れ!? 親父さん、気は確かだったのか……? 何か酔った弾みで間違い犯したとかか?」
「お前の中の永遠子ってどんなだよ? 確かに女っ気はないけど……」
いや、それ以外にも問題は大有りだろう。
まぁ、良い。この際、俺の永遠子への見解は一旦置いといてだな。
「つ、つまり、親父さんは告白したばかりで殺されたんじゃないかって事か?」
「まぁ、永遠子も満更じゃ無かったとは思うがね。そうじゃ無かったら、あの鉢植え、後生大事に育てながら俺達を引き取ったりはしないだろ」
「って事は、お前達は永遠子が犯人だとは微塵も思ってないんだな?」
「何言ってんだ? 永遠子は犯人じゃないって言ったのはお前だろ?」
「あぁ、まぁ……」
今更、自信が無いなんて言ったら藍羽は怒るかも知れないな。
俺は永遠子が双子を欺いてまで逃げなければならない理由を必死に探していた。
「お前は昔から、妙な所で勘が良い。誰も解けないような問題をアッサリ解いちまったり、俺達が一日がかりで完成させるパズルをほんの数十分で完成させたりする」
「それは……まぁ、得意だからな……」
「お前には俺達に見えない物が見えているって、黒羽がそう言ってたよ。だから俺はあん時、お前に聞いたんだ。永遠子が犯人かどうか、お前ならどう思うかって」
「見えない物? 何だよ、それ……」
「例えば、そうだな。我楽多屋にあるものの中で、同じ物に目を奪われる奴が三人いたとしてもおかしくは無い。だけど、お前は違う。あれだけの物が溢れている中で、誰も探しきれない様な物を見付けてしまうヤツなんだよ」
「でもまだ、永遠子が犯人じゃないって確証は俺の中にもない……」
「でも、お前こそ永遠子は犯人じゃ無いって思ってんだろ? そう顔に書いてあるぜ?」
「それは……希望的観測と言うか、ただの勘みたいなもんだ」
「それが一番、信用出来る」
藍羽はそう言ってニヤッと笑うと、内ポケットから煙草を取り出し火を点けた。
「スルメ噛みながら面倒くせぇとかほざく女だ。あんな面倒な事するとは思えん」
人殺しとスルメを同じ秤で量るのもどうかと思うが、藍羽が余りにもスパッと言い切ったのが、意外とすんなり納得出来た。
確かに、そう言われたらそんな気がしてしまうのだ。
「ただ、俺達は逃げてる理由が知りたい」
藍羽はそう言うと少しだけ悲しげな顔を見せた。
その瞬間、調子の芳しくない百に仙田が噛み付かれ、二階から助けを求める仙田の声に俺達は顔を見合わせ百の部屋へと走った。
右腕の内側に傷が残る程噛まれた仙田を百から引き剥し、鎮静剤を打ってその場を収めたが、百の状態が悪過ぎるとの理由で仙田が泊まり込む事になり、俺は一旦自宅へ戻って来た。
その自宅前に見知った顔のアタッシュケースを片手に持った男が立っている事に俺は遠慮なく眉根を寄せて訝しんで見せた。
「あぁ、お帰りなさい。モミジくん」
「メガネ……何しに来た? って言うか、何で家知ってんだよ?」
「藍羽くんに聞きました。取りあえず中へ入れて貰えませんか?」
「嫌なこった! 何でお前なんかを……?」
チラリと俺の肩越しに後方へと視線を向けた紀乃屋に、俺はその視線が意味のあるものだと言う事を無意識に悟った。
「公安が動いています。あまり目立たない方が賢明です」
声を落とした紀乃屋は、そう言っていつものように微笑を浮かべると了解を得る様に俺の肩に手を置いた。
「公安……」
言われた途端に視線を感じる気がした。
この辺りは大通りから中に入っている為、人通りはそう多くは無い。だけど、向かいのアパート、隣の家の庭、ただ歩いている通行人でさえ、こっちを見ている気がして渋々紀乃屋を中へと入れた。
「何で公安が俺を張ってんだ? つか、お前が張られてんのか?」
「両方じゃないですかね?」
「何でお前はそんなに落ち着いてんだよ? 永遠子の居場所知ってるってのが、バレてんのか!?」
ハッと気付いて俺は言葉を飲んだ。この家に盗聴器でも仕掛けられていたら、俺と紀乃屋の会話は駄々漏れだ。
「今はまだ、その可能性がある、と言う段階では無いでしょうか? 心配しなくてもこの部屋は盗聴されてはいない様です」
紀乃屋はそう言ってポケットからリモコンらしきものを取り出した。
どうやらそれで盗聴器の周波数を拾っているらしい。
「公安が張ってるって分かっててノコノコ俺の家に来たのか、お前は」
「パズル作家
相変わらず食えない男だ。
いつも笑っている様に見えるその顔に、苛立ちを覚える事は少なくないが、テレビの中で永遠子の不利になる様な証言をしていたのも手伝っているかも知れない。
公安に目を付けられたらもう逃げ切れない。
永遠子の容疑を完璧に晴らすか、俺達が奴らに永遠子の居場所を吐かされるか、どっちが早いかの二択だ。
行動の一切を見張られ、尻の毛一本まで毟られる。それが公安と言う組織だ。
十三年もの間、犯人を逮捕出来ないでいる警察もこのタイミングで匿名のタレこみにより浮上した容疑者を逃がす訳には行かないのだろう。
「お前は何で永遠子を逃がしたんだ? 永遠子がサラトガじゃ無いって言う確証でもあんのか?」
「今日は質問が多いですね? 五葉先生」
「真面目に答えろよ」
「じゃあ、君は何故永遠子さんを逃がしたのですか? 実行犯は君でしょう?」
「それは……」
「君は永遠子さんがサラトガじゃないと言う確証を持って彼女を逃がしたのですか?」
「確証はねぇけど……あいつは違う、と思ってる……」
「僕も、似たような理由です。それでは答えになりませんか?」
飄々と顔色一つ変えずに言い包められて、俺は大きく息を吐き出した。
確かに、ちょっと冷静さを欠いていたかもしれない。
「公安が動いていると言う事は時間の問題でもあります。なので、モミジくん、君に少し入れ知恵をしに来ました」
「入れ知恵……?」
「箱田九十九氏が殺された十三年前、マスコミには公開されていない情報です」
「何でお前がそんな事を知ってんだよ? って言うか、何で俺なんだよ?」
「何でって、君ならこの難解なパズルを解いてくれるかもしれないと思うからです。それから、何故僕が非公開情報を持っているかと言う質問の答えは、箱田九十九氏を司法解剖したのは
想像して、俺は言葉を失った。
恋愛には色んな形がある。告白して成立している物や、お互い好きだと認識していても言葉にした事がない関係。俺と百はこれに該当するかもしれない。
これから始まると言う期待と確信がある瞬間、そしてそれは終わる時も同じ様な状況を作り出すかも知れない。
なぁなぁになった温い関係、険悪になっても続いている不可思議な関係。
恋人達の数の分だけその種類はあるのかも知れない。
白薔薇を一輪、箱田の親父さんから貰っていた永遠子。
満更でも無かったと思うと藍羽は言った。
その永遠子が、箱田の親父さんの遺体を解剖していた。
あの猟奇的に殺害された親父さんの遺体を前にして、永遠子はそれをやり遂げたって言うのか。
永遠子が並の人間より図太くてちょっとやそっとじゃ動じないのは知っている。
だが、普通なら出来ない芸当だ。
「当時、九十九氏と永遠子さんが仲が良かった事は僕も知っていました。昔の事件で知り合ったそうで、気の優しい九十九氏は永遠子さんに振り回され、面倒見のいい九十九氏に永遠子さんは気を許している。そんな風に見えていました。恋愛と言うよりは、親友の様に見えましたけどね」
「あんたは、箱田の親父さんが永遠子に白い薔薇の鉢植えを買ってやった事、知ってるのか?」
「白い薔薇? へぇ、それは知りませんでした。まぁ、その話は置いておいて本題に入りましょう」
紀乃屋はそう言って十三年前の事件の概要を振り返った。
「事件のあった日は豪雨で、家の周りに残っているであろうゲソ痕、タイヤ痕などは全く持って取れませんでした。部屋の中もそれは同じで、あの悪天候の中窓を開けて逃走した犯人により、部屋の中は散乱し、唯一手掛かりとなるのは遺体だけ」
アタッシュケースから一枚の紙を取り出した紀乃屋は、意味不明なドイツ語の並んでいるその書類を指して俺を見た。
多分きっとそれはカルテの様な物だと思う。
「体内から微量にスポコラミンと言う薬物が検出されています」
「スポコラミン?」
「麻酔などに含まれている成分で、アルカロイドと呼ばれる毒性の強いものです。その昔は自白剤などに使われていた代物です」
「つまり、親父さんは毒を盛られた後、殺されたって事か?」
「えぇ、ただ検出された量が少なく、その日自宅にいたと言う九十九氏の自宅からはそれを服毒したと立証出来るものが発見されていません」
「服毒した方法が分からないって事か……?」
コクリと頷いた紀乃屋は、もう一つの書面を持ち出して来た。
「これは九十九氏が服用していた薬のリスト。呼吸器が弱い九十九氏は定期的に通院し薬を貰っていました。ですが、この薬以外の薬は部屋からは発見されていません」
「犯人が持ち込んで無理矢理飲ませた、とかじゃないのか?」
「お忘れですか? 現場には争った形跡は一切見られなかった。もし、何らかの方法で九十九氏を拘束して薬を飲ませたのなら、彼は激しく抵抗したでしょうし、自宅には双子のお兄さんも、百ちゃんもいたんです。彼らに気付かれる恐れは十分に考えられます」
確かにそうだ。
あの日双子は二階の子供部屋で二人してテレビゲームをしていた。
記憶がハッキリしない百は、一階にある親父さんの部屋で一部始終を見ていた可能性もあると言われている。ただ、それを証言する能力が無いので、そう仮定されているだけで、本当の所は分からない。
「永遠子さんはこの事件には足りない物があると考えている様です」
「足りない物?」
「そこにあるべきものが、足りないから繋がらないのだとか何とか……」
あの人の考えている事は僕にも分からないのですが、と付け加えて紀乃屋は立ち上がる。
「帰るのか?」
「えぇ、お話は終わりましたので」
「永遠子の所に行くのか? なら俺も……」
「言ったでしょう? 公安が張っているんです。不用意に動けば、身柄を拘束されてしまいます」
「そう……だな……」
俺はダストボックスの中で拾った薬を永遠子が持っている事を紀乃屋に伝えた。
あいつに限って双子や百を残して自殺するとは思えなかったけれど、仙田が言った魔が差すと言う言葉が全否定出来なかった。
「百ちゃんの薬を永遠子さんが摩り替えた? あり得ないでしょう?」
珍しく表情を変えた紀乃屋はそう言って顎に手を当て考え込む様な素振りを見せた。
「だけど、あの家にその薬があった事は事実なんだ。強い副作用がある睡眠薬らしい。仙田先生はそれを見付けて台所のダストボックスに捨てたらしいんだが、俺が間違って捨てられてると思って拾ってしまったんだ。永遠子はその薬を持ってる」
「それを過剰服用して、永遠子さんが自殺するとでも?」
「ま、万が一って事が……あるだ……ろ?」
「億が一もあり得ないと思いますけど、頭の隅に入れておきましょう」
この時俺は、紀乃屋の億が一あり得ないと言う発言に心底安堵させられた。
もしあの薬で自殺なんてされたら、俺は自分を責めずにはいられないだろう。
非常に容疑者として疑わしい永遠子が、百の薬を摩り替えた。
もしそれが事実だったとしたら、永遠子は何の為に百にその薬を服用させたかったのか。
思い当たる理由は、どれもが永遠子を犯人だと裏付けて行く。
でもそれが、奇妙な程に揃い過ぎるのが俺の中では釈然としないのだ。
全貌が分からないパズルの景色が見えてくる終盤、ほぼ完成に近く、これはここ、これはそっち、と明確に分かる様になる時間帯。
でも、俺の頭の中にはこれから埋めるスペースに絶対的にハマらない欠片がまだ残っていて、それは結果的にどこかが間違っていると教えてくれるものでもある。
「あぁでも……」
玄関を開けたまま紀乃屋は意味あり気に振り返った。
「百ちゃんを死に至らしめる位なら、あの人は自分が死ぬかもしれませんね」
そんな意味深な言葉を残して、微笑を称えた紀乃屋は部屋を出て行った。
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