第22話 沈黙の神

 永遠子は抱えていた超お得用のスルメを一本ぬき取り眼前に翳して見せた。


「もしこれがロレンソの薬と同じ効果を発揮するスルメだとして、医師免許を持っている現役監察医であるキノが、これを食わせたら心肺は停止し、一旦は完全に死ぬ。だが、五分後には生き返るから大丈夫だ、と言った。これをお前達は百に食わせる事が出来るか?」

「出来るわけねぇだろ!」

「そうだな、藍羽。それが普通だ。黒羽、お前はどうだ?」

「聞くまでも無いでしょう?」

「紅葉、お前はどうだ?」

「どんな理由があっても、そんな信憑性の無いもんを百に食わせられる訳がねぇだろ!」

「じゃあ、私になら食わせられるか?」


 俺達は黙するしかなかった。

 出来るわけがない。

 それが正解だと分かっていても、そう答える事を分かった上で誘導されていたと言う事が同時に理解出来たからだ。


「戦場で顔を見てちゃんと狙って引き金を引ける兵士は20%だと言われている。一人の人間を射殺するのに70発の乱射が必要だとする説もある。人間って言うのは、そう言う風に出来ているんだ」


 分かるか? と言いたげに永遠子は俺を見る。

 理論的な話に一番理解が覚束ないのは、俺だからだ。

 俺は短く頷いて先を催促した。


「こうやって銃で人を殺すより、原子爆弾の投下スイッチを押す方が人間には遥かに簡単な作業なんだ」


 永遠子は人差し指と親指で作った銃を「バンッ!」と言う効果音まで付けて俺に向かって躊躇いなく撃つ。

 言ってる事とやってる事が違い過ぎるだろうが。


「このスルメが一発の弾丸で、それを一人の人間、しかも親しい顔の人間に向かって撃てる人間はそうはいないのさ。信頼のおける医者が生き返るから大丈夫だ、と言っても、それを実行するのは難しい事なんだよ」

「だから、僕の扱いが酷過ぎると言っているんです」

「キノはこれを楽しめる研究バカきしょうしゅなのでな。適役だったと言う事だ」

「百ちゃんと難解パズルの機会を貰えるとしても、重すぎるミッションでしたよ」

「良く言う。実際の人間に試す機会が貰えて、天にも昇る気持ちだったのだろう?」

「取引として美味しい条件だったのは、認めます。だけど、双子くんやモミジくんの非難を一斉に浴びる役回りは人権侵害に匹敵しますよ」


 僕は永遠子さんほど神経太くないですから、と笑えない冗談を取ってつけた紀乃屋に俺達は乾いた笑いで答えた。


「監察医であるキノがそれらしく死亡診断書を見せれば、それだけで単純な素人は騙されてくれるかもしれない。だが、サラトガが何処までの知能を有しているかも分からない。実際に死体を見せろと言われるのは想定内だった。だから私は私の死体を手土産にターゲットが紅葉である事を教えてサラトガの懐に入れ、言ったのさ。私だって百にあんな薬飲ませられん」


 百を説得するのには骨が折れたがな、と永遠子はやっと少し笑った。

 あの倉庫から帰って来て以来、ふてぶてしい態度が鼻につく程スカした顔をしていたが、持っていたスルメを咥えてようやく終わったと言う安堵感を初めて見せた様な気がした。


「九十九さんと、サラトガの関係についても話しておかねばなるまい」


 そう前置きした永遠子は、伏し目がちに瞼を落として誰とも目線を合わせる事無く本でも朗読するかのように喋り出した。


「九十九さんはつぐみさん、お前達の本当の母親が死んでから産まれたばかりの百と幼い息子達を育てる為に捜査一課から交番勤務へと異動願いを出した。街の巡回中に知り合った花屋の店主、それがあのサラトガだ」

「確かに……百が幼稚園に通う様になるまでは制服が家に掛けてあった……」


 そう思い出す様に零したのは黒羽だった。

 お父さんが警察官であると言う事は認識していても、警察の組織がどんな風になっているかなんて、子供の俺達には分からない。

 今だから分かるのだ。制服警官と、スーツを着ている刑事の違いが。


「会えば挨拶を交わし、喋る。花の事など全く知らない九十九さんに、色々と教えてくれていたそうだ」

「そこから恋情が拗れて行った……?」


 黒羽の問いに、相槌を打った永遠子は食み出していたスルメを口に収めて続けた。


「まぁ、それもあるが、彼が交番勤務をした期間は五年程だ。また一課に呼び戻されて、サラトガと九十九さんが会う頻度は減ってしまった。足が遠のいた矢先に、久しぶりに現れた九十九さんが息子達を伴って白い薔薇を一輪、買い求めた。花の事情に詳しい彼女は思っただろうね……九十九さんが誰かに一目惚れしたのだと……」


 その時、親父さんはその時花屋の店主からお祝いに、と箱に入ったアロマオイルを貰ったと言っていたそうだ。

 犯行のタイミングから、永遠子はずっとサラトガが盗聴していたのだろうと悟っていたが、警察の捜査では箱田家のどこからも盗聴器は発見されなかった。


「私は事件絡みで九十九さんと知り合ったが、親バカで嫁が大好きな気の良い先輩と言う感じだったな」

「単刀直入に聞こう。永遠子、お前は親父の恋人だったんだろ?」


 藍羽のその一言に、少し躊躇った様に開けた口を一度閉じた永遠子は、答えあぐねた様に一言絞り出した。


「分からん……」

「分からん? どう言う意味だ? この期に及んで、隠す必要なんかどこにもないだろ!?」

「藍羽、確かに私達は結婚しようと約束をしていた。だが、肉体関係は愚か、キスすらした事が無かった。それはどんな関係だ?」

「え? 永遠子さん、ちょっと意味が分からない……」

「そうだろうな、黒羽。私にも分からん」


 自分達の関係は妻を亡くして仕事と育児、家の事に奔走する箱田の親父さんに、医療的な側面から必要な事を教えてやったり、女の子を持つ親として女である永遠子に相談を持ちかけたり、そう言う他愛無い関係だったと永遠子は明かした。

 仕事の合間にスカイプを繋いで話をする。

 その為に大学の永遠子の研究室にはタブレットを置いてあった。

 パソコンを打ちながら、彼と話す。

 繋いでいるだけで、何も喋らずに本を読んでいたりする時もあったそうだ。

 そこに肉体関係があれば恋人かもしれない。

 だが、もしそうじゃないのなら紀乃屋が言った通り、親友に留まる関係に思える。

 永遠子はそのタブレットの画面に、時々白い蒸気が揺らめいていて、彼の部屋に加湿器があった事を知っていたのはそのせいだと言った。


「ただ、歳は離れていたけれど人として私は九十九さんが好きだったよ。一生懸命で、子供の事になると唐突に頭の悪い男になる。それが面白おかしくて、良くからかったりしていた」

「いや、ちょ、待ってくれ……。そこから、どう結婚の話に進んだ?」

「藍羽の言う通りだ。永遠子さん、何か言ってる事がオカシイよ?」

「すまない。あの白薔薇を受け取った以上、それは言えない。九十九さんと墓まで持って行くと約束したんだ」

「いや、永遠子、白薔薇が何の関係がある……?」

 

 そう問う俺に、永遠子は僅かに口角を上げた。

 白薔薇は蕾や色によって多くの意味を持っている花だそうだが、その中でも「私は貴方に相応しい」と言う意味を持って五十四年前の花月誠も、十三年前の花月志織も白薔薇を現場に残したのだろうと永遠子は言う。

 自分に靡かない仙田真理を監禁し子供まで産ませて殺した花月誠の究極の一言。

 その娘、花月志織も同じ様な思考回路を持って大好きな父親の真似をする。

 ふと、晴乃がサラトガの所以は遺伝にあると言っていた言葉が過って行った。


「何処までも自己中心的な愛って事か……」

「そう言う事だ。だがな紅葉、私はそれとは別の意味で九十九さんに白薔薇を要求したのだ」

「別の意味……? 何だソレ?」

「薔薇の下、の意味を知っているか?」

「知らないって分かってて聞いてんだろ?」

「そうだな、知ってるならお前は今頃こんな所で大人しくはしておらんだろうな」

「何だよ、ソレ……」


 その昔、愛の女神アフロディーテが不貞を働いた事を黙っていて欲しい息子が、沈黙の神に白薔薇を贈った。

 秘密は守られたと言う意味で赤い薔薇を贈ったと言う説もあり、薔薇に関する逸話は多いらしい。

 西洋では天井に一輪の薔薇を下げ、その部屋で話した事は口外してはならないと言う意味があり、「薔薇の下」と言う言葉はそれ自体が「秘密」を表していると永遠子は続ける。


「だから私は彼に秘密にして欲しければ白い薔薇を一輪寄越せ、と言ったのだ。花を買うなんて恥ずかしい事が出来るか、なんて言っていたから、本当に買いに行くとは思ってなかったんだがな……」

「つまり、親父が言っていた契約の前金と言ったあの言葉は、秘密にして貰う為の賄賂と言う事か?」


 藍羽はそう言って永遠子を見る。


「あぁ、そう言う事だ。だから、その秘密だけは例えお前達であっても言えない」


 俺達はそれ以上永遠子を追求する事を止めた。

 それは暗黙の了解で、俺と隣にいる双子が同じ事を考えていたからだ。

 口を割らせなくても真実を知る方法があると言う事に、俺達は気付いた。


 チラリと黒羽を見ると、分かっていると言う視線を寄越す。

 藍羽はニヤリと口角を上げて、了解、と目蓋を伏せた。

 付き合いが長いと、言葉にしなくても通じ合える事もある。


 だが、俺達はこの時ラスボスの居場所だと確信していたあの場所に、新たなレアキャラが潜んでいる等とは考えも及ばなかった。

 そしてそれは勇敢な双子に致命傷を与えるだけの強敵だった。

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