銀閣寺

 本当の寺名は「慈照寺」と言います。

 慈照とは足利義政が亡くなった時に付けられた戒名の事で、慈照院と言う院号が付けられました。

 臨済宗相国寺派の境外塔頭。(境内の外にある塔頭、金閣寺も相国寺の境外塔頭になっている)

 銀閣寺は足利義政が自分の隠居所として造ったのが始まりです。

 元々は浄土寺と言う大きな寺領の寺があったのですが、応仁の乱で焼けてしまったその地を貰い受けて(無理やり)、1482年から東山殿(ひがしやまどの)を建設させました。応仁の乱を引き起こしたのは義政の政治力が足りないせいだったにもかかわらずです。

 室町初期に夢窓疎石が建てた西芳寺(苔寺)を基本に、と言うか、ほぼ完コピに近い状態に東山殿を造っています。

 そのため、銀閣寺の事を「第二の苔寺」と言ったりします。

 義政は東山殿を造るにあたって、苔寺と祖父の義満が造った金閣寺を何度も訪れて東山殿を造ったと言われています。

 銀閣寺には2つの国宝があります。観音殿と東求堂(とうぐどう)です。

 観音殿がいわゆる銀閣であって、後の人が金閣に対抗して銀閣と名付けました。金閣も後に名付けられた名前で、元々は舎利殿と言います。

 その銀閣は金閣の様に銀箔が張られていたのではないのです。

 造られた当時は二階建ての二階部分に黒漆が塗られ、漆黒でツヤツヤしていました。それが400年程経って江戸時代に入ると、漆が劣化して乳白色に変化していました。それを見た江戸時代の人達が銀閣と形容したのです。

 しかも銀閣が完成したのは義政が亡くなってからですからね。義政は完成した銀閣を見ていないのです。

 2つ目の国宝は東求堂です。

 東求堂は義政が亡くなるまでの数年間、実際に生活した建物です。

 東求堂とは「東方の者、仏を念じて西方に生まれんと求む」からとられています。これだと西求堂の方がしっくりくると思うのだが。

 そして四畳半茶室の原型とか書院造の原型などと言われます。

 東求堂の中の四畳半の部屋が「同仁斎」(どうじんさい)と言う部屋で、義政はここに当時の文人墨客を集めて、茶や歌などを嗜んで、書画、唐物の器などを集めて鑑賞していたと言われます。

 同仁斎は一視同仁と言う韓愈から取られて、全てを平等に慈しみ区別なく接する事と言う意味です。

 同朋衆と言う、僧侶や茶人、華道家、唐物の鑑定士、水墨画家、庭師などが義政に仕えていて、それらが義政に色々な提案をして侘び寂びの世界を作っていったと思われます。

 庭も同朋衆の善阿弥と言う者が作庭していて、観月に適した夜の庭に仕立ててあると言います。

 現在は庭に銀沙灘(ぎんさだん)と向月台(こうげつだい)と言う白砂の盛砂があるのですが、これは江戸時代に造られた構造物で、やはり月に映える様に造られたと言われます。


 銀閣寺は自分が思うに日本で最も重要なお寺の1つではないかと思っています。

 なぜかと言うと、東山文化の発祥の地であると言う事です。

 東山文化とは、茶道、華道、香道などの今に通じる日本的文化が確立された時代の事で、銀閣寺は当時、足利義政が中心となって色々な文化人が集まって議論しあって文化が昇華しました。

 特に茶道と建築は東山文化の中心的なカテゴリーです。

 茶道は足利義政、能阿弥、一休宗純、村田珠光が中心となって確立された文化です。

 お茶自体は平安時代からあり、当初は茶葉をお湯で煎じる「煎茶」で飲んでいました。しかも薬として飲んでいたので、貴族や高僧などの間でしか飲まれませんでした。

 それが鎌倉時代の臨済宗の祖である明菴栄西(みょうあんようさい)が、宋に留学した際に茶葉を粉末にして飲む方法を持ち帰ってきました。

 それから以降、日本では抹茶で茶を飲むのが一般的になっていきます。

 それでも上流階級に限定されていて、茶を飲む場所も、会所と呼ばれる建物の板の間の広間で椅子に座って飲むのが主流でした。

 それが足利義政の時代になると、狭い空間の部屋に畳を敷いて座って飲むと言うのが流行ります。

 義政は積極的に狭い部屋で飲む茶を広めていき、同朋衆の能阿弥、僧侶の一休宗純、茶人の村田珠光らと狭い空間で飲む茶を研究していきました。

 いわゆる「わび茶」で、今では村田珠光がわび茶の祖とされています。

 村田珠光は一休宗純に師事した人で、わび茶の系譜は一休宗純、村田珠光、武野紹鴎(たけのじょうおう)、千利休と渡り、裏千家、表千家、武者小路千家、薮内家、小堀遠州の遠州流、古田織部の織部流、織田有楽斎の有楽流などまで続いています。

 そして建築では初めて「書院造」が現れた時代です。

 銀閣寺境内に東求堂と言う建物があるのですが、これが書院造の最初の建物だそうです。

 それまでは、皇族貴族や武家が生活していた寝殿造と言う建物と、仏教が中国から伝えた禅宗建築の方丈(ほうじょう)と言う建物で生活していました。

 寝殿造は板張りで壁や仕切りも少なく、場合によっては天井もない建物で、上下に開け閉めする蔀戸(しとみど)と言う開き戸で戸締りし、部屋の仕切りは御簾(みす)と言うすだれで仕切っていました。

 方丈は書院造の原型となる建物で、基本は板張りなのですが、一部に畳を敷いた部屋があったり、引き戸があったりします。

 信じられないかもしれませんが、平安初期の寝殿造には引き戸が殆どなかったのです。襖や障子が寝殿造に用いられるのは平安末期の頃です。平家が台頭しだした頃ですね。

 そして凄いのは足利義政で、義政は四畳半の部屋に畳をきっちり敷き、廊下と畳の段差を無くし、付け書院と言う書斎を窓際に設け、その横に床の間と違い棚を設けて、茶道具や文房具を並べました。

 これによって狭い空間でも段差がなくフラットで、直に座っても痛くない生活ができる様になったのです。

 鎌倉時代の時代劇などを見ると板の間に座っているシーンが多いですが、長く座ってて痛くないのかと思ってしまいますよね。

 そして義政は四畳半の真ん中に炉を切って、そこで湯を沸かして茶を嗜んでいたのです。

 東求堂は現代の日本住宅の基本が出来上がった建物だったのです。

 そこに文化人が集まってあれが良いこれが良いと言い合っていたのです。

 すなわち、東山文化は東求堂から発生したと言っても過言ではないのです。


 あと、裏山には「五山の送り火」の大文字が描かれているのですが、これは足利義政が描かせたという言い伝えがあります。

 息子である第9代将軍足利義尚が、近江の合戦で亡くなったために、義政が供養のために大の字を書かせて、お盆の日の夜に火を灯させたと言うのです。

 そしてその大の字の基となっているのが、六波羅蜜寺のお盆の行事の時に出てくる大の字の燈明だそうです。

 観音菩薩が祀られた厨子の前に大の字を象った燈明を灯して、ご先祖様を迎える、京都では「お精霊さん」(おしょらいさん)とも言いますが、六波羅蜜寺では大万燈会と言って、そこでご先祖様を迎えます。

 京都では、その大の字が今度はお盆の送りの時に五山の送り火として灯されるのです。

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