平安神宮、時代祭
皆さんは平安神宮と言えば、平安時代からあるように思いますよね。
実はまだ創建してから120年くらいしか経っていません。
明治28年(1895)に平安遷都1100年を記念して、平安京の大内裏の中にあった朝堂院という建物を、8分の5のサイズで再現して建立されました。
当時は朝堂院が本当にあった場所に建てようとしていました。
しかし、既に民家が立ち並んでいたので、買収しようとするのですが上手く行かず、仕方なく岡崎の地にサイズを小さくして建立したのです。
朝堂院と言うのは、大内裏の中で一番大事な所で、儀式や政務をする所です。早朝から政務を行うから朝堂院と言うのです。したがって天皇の政権の事を朝廷と言います。
平安京の中心に通っていた朱雀大路の突き当りにある朱雀門を潜ると、まず応天門と言う大きな門があって、それを潜るとまた会昌門と言う同じ規模の門があり、そこを潜ると十二朝堂と言う朝堂が周りに12個建てられた広場に出ます。
広場の正面には巨大な大極殿が立っていて、その向こうに小安殿、昭慶門と続いています。
いつも映画やドラマなどで臣下が並んでいる場面がありますが、それが十二朝堂の広場なのです。
この大極殿は平安時代に最も大きい建物ベスト3に選ばれていて、当時の人は雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)という言い方をしていました。
雲太は出雲大社で、当時は杵築の大社(きずきのおおやしろ)と言って高さが70m以上あったみたいです。
和二が奈良の東大寺大仏殿です。当時の大仏殿は今建っている大仏殿より一回り大きい建物でした。
そして京三が平安京の大極殿で、大体ですが東西45m南北21m高さ25mの大極殿が建っていました。
しかも、朝堂院の西横には同じような豊楽院と言う施設があって、その中の豊楽殿は平城京の大極殿を移築したと言われています。
東西1200m南北1400mの大内裏の中にはこう言った大きな施設が沢山あって、内裏、朝堂院、豊楽院、あとは各省庁が入っています。
内裏の中には紫宸殿、清涼殿、後宮と天皇が住まう所になっていました。
平安後期になると、朝堂院の大極殿はあまり使われなくなり、謁見や儀式も紫宸殿で行われるようになって行きました。
現在の平安神宮に建っている大極殿は、1072年に焼失後再建した屋根が一層の大極殿を模しています。ですから平安京で最初に建てられた屋根が二層になった建物はコスト削減で見送られ、屋根が一層の建物が採用されたのです。
ちなみに本殿は国内最大の七間社流造。
そんな朝堂院を8分の5で再現した平安神宮ですが、明治が始まって京都が荒廃して行く中で、復興の象徴として建立されました。
明治維新の争いであちこちが焼け野原になり、明治になると東京遷都が行われて、親王や公家が東京へ行き、それに伴って職人や商人も東京へ移転し、京都の人口が激減して財政的にも危機的状態になります。
なんとか復興を遂げるために行われた事業が「琵琶湖疎水事業」と「第四回内国勧業博覧会」「平安遷都千百年記念祭」なのです。
琵琶湖疎水事業は滋賀県の琵琶湖から京都の岡崎まで運河を引く計画で、当初は物資の運搬と工業用水の確保で作られました。これが日本最初のトンネル運河です。
ところが、途中で水力発電が可能な事が解って発電所も併設されます。これも日本最初の発電所です。疎水の終点の一つに夷川ダムと言うのがありますが、これも日本最初のダム施設です。
それまで岡崎の地は工業地帯として整備する考えでしたが、発電所が出来たおかげで電線を伸ばせばどこでも工場が造れるようになって、岡崎の地が余ってしまいました。
そこで第四回内国勧業博覧会を開く所として目に留まり、その目玉として平安遷都千百年記念祭の朝堂院の復興が企画されたのです。
この3つの融合は見事に当たり、発電で得た電気は工業振興だけではなく、日本初の電車を走らせる事にも成功し、路面電車が縦横無尽に走る事になります。
博覧会は京都の職人技や新しい技術を国内外にアピールする切っ掛けとなり、日本の工芸品が海外で飛ぶように売れました。
博覧会が終わって余った土地は、政財界のお金持ちが買い取って別荘を造りました。
そして復興された朝堂院は、京都市民の精神的支柱になるよう桓武天皇を祭神として、平安神宮と名前を変えたのです。
この時の記念祭は10月22日から3日間かけて行われました。
10月22日は、延暦13年(794)桓武天皇が平安京に入京した日です。
そして4日目の25日に市民を上げて行われた時代行列が、翌年から時代祭として今日まで続いています。
時代祭は日本最大の時代行列で、2000人以上が参加して長さは2㎞以上になります。
まず最初に名誉奉行と言う形で知事や市長が明治時代の馬車に乗って現れます。そして明治維新の維新志士列、江戸時代の徳川城使洛列と婦人列、安土桃山の豊広参朝列と織田公上洛列、室町幕府執政列と洛中風俗列、吉野の楠公上洛列と中世婦人列、鎌倉の城南流鏑馬列、藤原公卿参朝列、平安時代婦人列、延暦武官行進列と文官参朝列、神幸列、白川女献花列、弓箭組列の順に時代を遡って行きます。
全て京都市内全域で列の分担が分かれていて、本番前には京都中の各地域で予行行進が行われます。
それでも人が集まらない所があるので、京都市内の各大学からアルバイトを雇っていて、各大学で列まで決められています。
そしてこの時代祭に使われる装束や道具は、全て本物仕様となっています。ですからこの祭りにかかっている金額は、計り知れない物になっていると専門家は言っています。
ここで知っておきたいのは、朝廷に対する逆賊が参列していないと言う事です。
明治維新は倒幕派しか参列していませんし、徳川列では徳川将軍は参列せず、他の諸大名が参列しています。
豊公参朝列では秀吉は参列せずに秀頼が牛車に乗って参列し、しかも外からは見えないようになっています。
逆に信長は、応仁の乱で衰退した京都や朝廷を復興するために上洛したとして、しっかり馬に乗って参列しています。
室町列では一応、足利将軍と言う人が馬に乗って参列していますが、足利の誰なのかは解りません。そもそも、室町列は2007年に初めて参列が許された行列で、それまではなかったのです。
逆に楠木正成は立派な鎧で馬に乗って堂々と参列しています。
それともう1つ。
平安神宮の祭神は桓武天皇だけではないのです。
昭和15年(1940)に幕末の天皇、孝明天皇が祭神として合祀されました。
皇紀2600年に当たる年で記念に合祀したとされていますが、実は孝明天皇も怨霊として出て来たとされて、急遽平安神宮に合祀されたと言われます。
孝明天皇は公武合体(朝廷と幕府が手を取る)を夢見て暗殺されたと言われていて、その怨念が昭和天皇の2回の暗殺未遂事件、日本軍の世界からの孤立、災害の多発や疫病の蔓延と言う考えに繋がって行きました。
孝明天皇の合祀の直後に太平洋戦争が始まり、結局は幕末後の新政府が支配する世界はなくなりました。
皆さんはこの事をどう思われるでしょうか?
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