祇園

 八坂神社の後なので、ついでに祇園も紹介しましょう。


 京都の花街は現在5つ残っています。

 「祇園甲部」(ぎおんこうぶ)、「祇園東」、「先斗町」、「上七軒」(かみひちけん)、「宮川町」の5つ。

 それと例外ですが、日本で唯一太夫(花魁)がいる「島原」と言う所が1ヶ所残っています。

 現在は太夫は1人ないし2人が活動しているだけで、置屋も1軒しか残っていません。

 この中で一番大きな花街が祇園甲部で、明治時代になってから建仁寺の寺領を召し上げて作られました。


 5つの花街の内、一番古いのが上七軒と言う所で、室町時代に北野天満宮を修復した余りの木材で7つの水茶屋を建てて、巫女を辞めた女性がお茶を出す(茶立て女)ついでに踊りを披露したのが始まりです。


 この、巫女さんだった女性が重要です。巫女さんと言うのは若い間しかなれなかったので、巫女を辞めると他の仕事を探さないといけなくなります。

 そして巫女さんと言うのは神楽とか白拍子と言った奉納舞を習得しているので、それを生かした商売を考え出したのが花街なのです。


 おそらくこう言った歓楽街は平安時代からあったと思うのですが、公式に幕府から認定を受けて商売をしていたのは上七軒が最初だと思います。


 そこで祇園に戻りますが、祇園は言わずと知れた八坂神社の門前町ですよね。

 ですから門前には水茶屋が何軒も立ち並びました。

 当然、八坂神社の巫女さんたちは辞めてからそこに雇われて踊りを披露します。

 しかも、祇園界隈は東海道の終点に位置していますから、北側には宿泊街、南側には歓楽街と言う並びになって、日本最大の歓楽街に発展して行くのです。


 その上、祇園の南に建仁寺と言う大きいお寺があるのですが、その東側に宮川町と言う花街があります。

 今でこそれっきとした花街ですが、昔はなんと男色の花街だったのです。

 京都にはお坊さんが多いですが、お坊さんは女人と交わるのは禁止されています。

 それでも楽しみたいお坊さんも多くいました。そこで、男なら大丈夫だろうとなって男色の花街が生まれたのです。

 そこに雇われている男性はほとんどが8歳から15歳くらいだったと言われていて、その当時、南座をはじめとした芝居小屋が何軒もありましたが、そこに通う役者見習いなど、特に女形(おやま)の見習いが女性になりきるために客を取っていたのが始まりみたいです。そのような男子の事を陰間(かげま)と言います。

 しかも宮川町と言う立地は奈良街道の終点だったので、奈良からのお坊さんたちのために開かれたとも言われています。

 江戸時代では近畿中のお坊さんが集まっていて、その名残が昭和20年代まで残っていたと言いますから驚きです。


 芸妓さん舞妓さんが確立して行くのは江戸時代です。

 それまでは水茶屋の茶立て女(元巫女)が踊りや楽器を披露していたのですが、だんだん分業化して行って、芸の出来る女性を派遣する職業が生まれます。

 「揚屋」「置屋」「仕出し屋」と分かれて行って、置屋には芸舞妓が籍を置きます。仕出し屋は注文された料理を作って届けます。揚屋は客を接待して、要望に応じて芸舞妓を呼んだり料理を注文したりします。

 そうする事で各職業でその技に特化して集中する事ができ、質のいいサービスが生まれるのです。


 芸妓と舞妓の違いも言っておきましょう。

 芸妓とは芸をする女性全般の事で、その中でも年の若い見習い芸妓を舞妓と言います。

 そして芸者と言うと今では女性を指して言いますが、江戸時代では芸をする男性の事を芸者と言っていました。

 ちなみに東京では芸妓を芸者、見習いを半玉(はんぎょく)と呼びます。

 また、遊女や太夫と芸舞妓も明確に分かれていて、芸舞妓はけして性の相手はしませんでした。

 この辺りが芸舞妓が現代まで残った理由かもしれません。


 芸舞妓は技芸を磨くために歌舞練場(かぶれんじょう)と言う所に所属します。

 歌舞練場では礼儀作法や茶道、華道、歌、楽器などを習い、最も重要な習い事が舞踊(京舞)です。

 舞踊は各花街で流派が違い、祇園甲部歌舞練場では京舞井上流と言う流派が担当しています。

 高台寺の件でも言いましたが、この京舞が、ねねさんの一存で残された技芸集団の流れなのです。

 職を失った巫女たちのために、より洗練された踊りをねねさんが継承させたと言われています。

 能の動きを主体とした踊りで、歌舞伎とは全く違った系統の踊りとなっています。

 飛び跳ねたりせず、二階で踊っても下の階に響くことはありません。


 そして祇園が発展する切っ掛けになったのが、歌舞伎の創始者「出雲阿国」(いずものおくに)でしょう。

 阿国さんもまた、出雲大社の巫女をしていたと言われています。

 巫女を辞めてからは出雲信仰を広める旅芸人をしていたのですが、1600年の丁度関ヶ原の戦いの頃、京の都に現れて「ヤヤコ跳」と言う踊りを披露したところ爆発的に人気になって、それが秀吉の目に留まり「歌舞伎踊り」として一世を風靡して行く事になるのです。

 ヤヤコ跳と言うくらいですから、このころ女性が跳ね回る踊りは珍しかったのでしょう。


 そして最初の芝居小屋(櫓)を建てたのが四条河原で、即ち八坂神社の門前なのです。

 これも幕府からの許可制で、江戸初期には7つの芝居小屋があったそうです。

 このおかげで祇園は歓楽街としてさらなる発展を遂げて行ったのです。

 今残っているのは南座だけですね。


 初期の歌舞伎と言うのは踊りがメインで、全員が女性で構成されていました。

 阿国歌舞伎が頂点に達した頃、阿国さんは江戸に進出して活躍するのですが、その後の消息は分かっていません。

 阿国さんがいなくなってからの歌舞伎は、もっと過激な物になって行って、ほぼストリップ劇場状態になっていました。

 これを見かねた幕府はすぐに女歌舞伎を禁止します。

 すると今度は、男が女装した歌舞伎が流行り出しました。

 これも大ヒットしますが、またもや過激な演出になって行ってしまい、今度は幕府から肌を露出しない踊りならやっても良いとなりました。

 しかしこれではなかなか見てくれません。

 そこで考えたのがストーリー展開で、今の歌舞伎のスタイルになって行ったのです。


 八坂神社と建仁寺の門前だった祇園と言う街は、尊い信仰と愚かしい人間の性(さが)が入り混じった空間だったのです。

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