京都の物語り

市永剣太

清水寺

 皆さんは、京都と言えば一大観光地で、何気なく観光に来て神社仏閣、仏像、庭などを鑑賞して、土産物を買って帰りますよね。

 巡ったお寺の由緒や歴史にはあまり関心がないんじゃないでしょうか。

 しかし、各お寺や神社にはファンタジー小説にも負けない数多くの歴史や不思議な物語りが秘められているのです。

 ましてや京都ではそんな物語りが半端なく多いのです。

 ここではそう言った面白そうな物語りを集めて紹介したいと思います。




 まず最初に京都でも一番と言う程の観光地、清水寺を紹介しましょう。

 清水寺の創建は、延鎮と言う僧侶と坂上田村麻呂と言う武将が大きくかかわっています。


 平安京が出来る以前。

 778年に、奈良の子島寺と言う高野山に所属するお寺にいた延鎮(延鎮自身は法相宗の僧侶)は、ある時「北の音羽山へ行くように」と言う夢を見ました。

 夢の通りに北に行ってみると、金色に光る川を発見しました。

 川を辿って行ったら音羽山の山中に入り、音羽の滝に辿り着きました。

 すると、その滝の上の森に草庵を建てて修行をする老人と出会ったのです。

 老人は行叡と言い、白髪で白い衣を着て、200年もこの場で修業していたと言います。

 行叡は「自分は観音の化身で、ずっと延鎮が来るのを待っていた。わしはこれから東国へ行く。代わってお前がここに住み、この木の株で観音を彫って祀るのじゃ」と言って、延鎮の前から去って行きました。

 延鎮は言われた通り、その場にあった切り株から3年かけて千手観音菩薩を彫り上げたと言います。


 200年も修行してたなんて。山の神とも噂もありますが、謎の老人ですね。


 そして780年の事。

 坂上田村麻呂と言う者が、身籠った病弱の妻のために滋養に良いと言う鹿の生血を欲して音羽山に鹿狩りに来ていました。

 田村麻呂は狩りに成功したが、その鹿はお腹の大きい牝鹿でした。

 バツの悪い思いで森を彷徨っていた田村麻呂は滝を見つけます。

 近付くと、経をあげている延鎮に出会いました。

 延鎮は田村麻呂に殺生の罪を説いて鹿狩りを止めさせ、狩った牝鹿を手厚く葬る様に言い、その代わりにこの千手観音を拝めばすべて上手く行くと告げました。

 田村麻呂はその話に感銘をうけ、言われた通り千手観音に祈って、延鎮に安産祈願をしてもらって帰って行きました。

 すると無事に元気な子が生まれ、妻も体調も元気に回復しました。


 そして798年、前年に桓武天皇から征夷大将軍に任命された田村麻呂は、音羽山に清水寺を建立し、蝦夷討伐の必勝祈願として勝軍地蔵菩薩と勝敵毘沙門天を安置しました。

 801年、20万の兵を連れて東北へ遠征した田村麻呂でしたが、蝦夷の猛攻をうけ窮地に追いやられました。

 その時、どこからともなく勝軍地蔵と勝敵毘沙門天が現れ、法力を使って蝦夷の軍勢を打ち破ってくれました。

 帰京した田村麻呂が清水寺に赴き勝軍地蔵と勝敵毘沙門天を見ると、矢が刺さり刀傷がついて足も泥まみれであったと言いいます。


 凄まじい神のご加護。レベル高すぎでしょ。


 そして、降伏に応じた蝦夷の敵将アテルイとモレの二人を、田村麻呂は桓武天皇に対して助命を願い出たが、周りの貴族連中が反対して、二人の処刑が決まってしまいました。

 田村麻呂はこの時、嘆き悲しんで征夷大将軍を辞退したと言われます。


 804年には再び征夷大将軍に任命され、蝦夷の完全討伐を言い渡されたが、藤原緒嗣が度重なる遠征で民が疲弊していると批判した事により、蝦夷討伐は中止となりました。

 しかし田村麻呂は、その後も征夷大将軍の位を死ぬまで離さなかったのです。

 そして807年には、蝦夷での犠牲者を追悼するために延鎮に帰依し、平安京造営以前の長岡京の紫宸殿を清水寺の本堂てして建立したと言われます。


 どうですか?

 凄い英雄譚でしたね。田村麻呂のレベルは幾つでしょうね。

 この物語のおかげで、清水寺は安産祈願と武運長久のご利益を求めて、多くの参拝者が来るようになったのです。




 今の本堂は、実は徳川家光が再建させた物なのです。

 やはり家光も武運長久を願っていたんでしょうか。


 しかし、家光は一つ仕掛けを残しているんです。

 普通は、神様や仏様を拝む時は目線を上に向けて拝謁しますよね。

 しかし清水寺の本堂では、千手観音、勝軍地蔵、勝敵毘沙門天の目線が参拝者と同じ高さになる様になっているのです。

 すなわち、内陣と外陣が同じ高さだと言うのです。

 これは家光が、徳川将軍は神にも等しいと言う事を示しているんだと思われます。

 お坊さんに聞くと、神仏も衆生も平等ですよと言われますがね。


 今では誰でも外陣に上がって参拝できますが、昔は外陣と言えど位の高い者しか上がれませんでしたから、必然的に将軍や天皇は神仏と同じ位置になるのです。

 これは家光が再建したお寺や神社に共通していて、有名なのは日光東照宮で、ついで比叡山の根本中堂、八坂神社の本殿もそうなっています。


 この様式を初めて取り入れたのが豊臣秀頼でした。

 秀頼は北野天満宮を再建する際に、拝殿と本殿を一体にし、神様と参拝者の高さを同じにしたのです。

 秀頼は自分を神と同等と思っていたのでしょうね。

 家光はそれを踏襲したと言う事です。




 清水寺の本堂がなぜ、わざわざ崖の上に建てているのだろうと不思議に思った事はないですか?

 それは観音様の住まわれている所に由来しているのです。

 インドのお話しで、インドの遥か南の海上に八角形をした断崖絶壁の島があって、その頂上に観世音菩薩が南を向いてお住いになっていると言うのです。

 この伝承によって、日本では崖の上に観音様を祀る様になったのです。

 八角堂や六角堂もここに起因しているのでしょう。

 したがって日本の観音霊場と呼ばれる所は、ほとんどが高い場所に建てられているのです。




 清水寺にはもう一つ面白い物語りがあります。

 幕末の事、清水寺の成就院と言う子院に月照と言う超イケメンのお坊さんがいました。

 月照は尊王攘夷を謳う公家たちと関係があり、自身も尊王攘夷に偏って行きました。

 徳川家定が将軍になる時は一橋派に力添えしていたので、大老井伊直弼に目を付けられていました。

 西郷隆盛とも親交があり、安政の大獄が始まると薩摩に出奔しますが、薩摩は厄介者とみなして日向に行くように命じます。しかし途中で暗殺する計画だったため、それを察知した西郷と月照は錦江湾で入水自殺を図ったのです。

 これで月照は命を落としましたが、西郷は一命を取り留めました。


 清水寺の境内に「舌切茶屋」と「忠僕茶屋」と言う、いわく付の店があります。

 西郷と月照が薩摩に逃れた時、月照は自分に使えていた近藤正慎と言う者に後の事を託しました。

 しかし、安政の大獄が始まると捕らえられて月照の事を聞き出すために拷問を受けました。

 ところが、正慎は口を割らずに舌を噛み切って自害したと言いいます。

 舌切茶屋は、清水寺が残された妻子の事を思って、境内で茶屋の営業を許した店が今も続いているのです。

 そして、忠僕茶屋も同じです。

 仕えていた大槻重助が一緒に薩摩まで逃れた時に、西郷と月照が入水した際に代わりに捕らえられ、京の牢獄に半年つながれました。

 その後に釈放されて、月照の弟子の忍慶によって茶屋の経営を許されるのです。


 ドラマチックな物語りが沢山ありましたね。

 京都の神社仏閣にはこんな物語りが詰め込まれてますから、今後もどんどん紹介します。

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