三十三間堂(蓮華王院)

 三十三間堂。

 本当の名は蓮華王院と言いますが、これは千手観音の別名が蓮華王大悲観自在菩薩と言い、ここからとられました。

 ここも有名な、日本で唯一の千体観音のお寺ですね。

 このお寺の創建には、後白河法皇と平清盛が関係しています。

 まさしく源平合戦の真っただ中ですね。

 そんな中でも、平氏は究極の贅を凝らして仏像群を造らせたのです。

 では何で造らせたのでしょう。




 後白河法皇は非常に頭痛持ちで、毎日の様に苦しめられていました。

 ある時、後白河法皇は熊野大社へ参拝されに行きました。

 これを熊野御幸と言います。


 その際に、頭痛平癒の祈願をされると、熊野の神である熊野権現が現れました。

 熊野権現は、京の因幡堂と言う所に天竺から来日した医者がいるから、その医者に診てもらうようにと言いました。


 早速、後白河法皇は因幡堂に行くと、見知らぬ僧(おそらく異国の僧)が出て来ました。

 僧は後白河法皇に、あなたの前世は蓮華坊と言う僧侶だったと言います。

 蓮華坊は熊野の岩田川で息絶えて、その髑髏が未だに水底に沈んでいると言いました。

 そして、その髑髏を貫いて柳の大木が生えていると言い、柳の大木が風で揺れるたびに頭痛が起きると言いました。

 頭痛を治めるにはその髑髏を見つけて、手厚く葬らないといけないのです。


 後白河法皇は使者を岩田川に向かわせて髑髏を探索させると、因幡堂の僧が言った様に、川べりに生えていた柳の大木の根っこに髑髏が貫かれていました。


 そして後白河法皇は、平清盛に千体観音堂を造る様に命じ、真ん中の大きな観音像の頭に髑髏を納めて、柳の大木を観音堂の棟木にせよと言いました。

 平清盛は言われた通り観音堂を完成させると、後白河法皇の頭痛は治まったと言います。


 その名残として、三十三間堂では成人式の日の「通し矢」の時に「柳のお加持(楊枝加持)」と言う儀式をしています。

 ご僧侶が、閼伽水と言うありがたい水に浸した柳の枝を参拝者の頭に触れて行くのです。

 それで一年間は頭痛にならないと言われています。

 その日は「通し矢」も相俟って凄い人数が行列を作ります。

 また、お寺の別名が頭痛山平癒寺と言うそのまんまの別名が付けられました。

 それほど頭痛平癒にご利益があるお寺なのですね。




 「通し矢」と言う言葉が出てきましたが、これは成人式の一環で三十三間堂の境内で弓道の大会が開かれるのです。


 始まりは江戸時代初めに、各藩の弓術者が集まって腕を競ったのが始まりと言われています。


 三十三間堂の本堂は120mもあって、内陣の柱の間が33あるから三十三間堂と言うのです。

 正式な言い方は「サンジュウサンマドウ」なんです。

 その長いお堂の軒を利用して、端から端まで矢を射たのです。

 120mでも難しいのですが、上に屋根がかかっていますから高い弧を描いた射的は出来ないのです。

 その上、24時間矢を射てその間に何本当たったかを競うので、すこぶる過酷な競技と言えます。


 1669年、尾張藩の星野勘左衛門が、10542本中8000本を的に当てました。

 1686年には紀州藩の和佐大八郎が、13053本中8133本を的に当てました。

 率で言うと星野さんの勝ちですが、数では和佐さんが勝っていますね。

 この競技は当たった数を競う競技なので、和佐さんの勝ちです。


 過去400回以上の通し矢競技が行われましたが、そのせいで誤射によって柱や梁が傷んでしまいます。

 それを防ぐために、ここでは柱や梁に鉄板を打ち付けてあります。

 それほどまでしてする熱い競技だったんですね。




 何で千体も観音像を祀らないといけないの?……と、不思議に思いませんか?……しかも全部千手観音ですよ。


 仏教では千は無限の意味があります。

 平安時代、千体の観音が揃うと無限の功徳があると信じられました。

 後白河法皇はそれを千手観音で完成させたのです。

 普通の観音で千体そろえたのは過去にもありますが、千手観音で成し遂げたのは後にも先にもここだけなんです。

 しかも一度は燃えたとしてもいままで残っているのですから凄いのです。

 そして三十三間堂では左右に500体ずつと、真ん中に中尊と言う大きな千手観音が一体います。

 これは無限より上の無量を現していて、無量の功徳が得られるようにと言う事なのです。


 しかも、三十三間堂は一度燃えた事によって価値が上がりました。

 三十三間堂が燃えたのは鎌倉時代の事で、大半の仏像が一緒に燃えてしまいました。

 しかし、再建時に仏像政策を任されたのが慶派の仏師湛慶だったのです。

 今では運慶、湛慶、快慶と言えば仏師界では神の存在ですよね。

 その湛慶が中心になって、日本各地の仏師を何百人も集めて仏像を再興しました。

 その上、それまでなかった二十八部衆と仁王像、風神雷神を追加しました。

 そして江戸になって風神雷神をモデルに、俵屋宗達が風神雷神図屏風を描く事になります。

 したがって三十三間堂が燃えていなかったら、琳派も発生していなかったかもしれません。




 三十三間堂と言えば忘れてはならないのが、宮本武蔵の三十三間堂の決闘ですよね。

 吉川英治の小説では、吉岡一門の吉岡伝七郎と三十三間堂で戦ったとなっています。


 武蔵は吉岡道場に乗り込んだのですが、頭首である吉岡清十郎が不在だったため、門弟全員を倒して後、挑戦状を送りつけました。

 すると清十郎から返事があり、北野天満宮の北の地で待つと書かれていました。


 清十郎は朝からずっと待っていたのですが、武蔵はなかなか来ません。

 我慢が限界に達した時、突然、武蔵が現れて、不意を突かれた清十郎は、刀を振り下ろす前に武蔵の木刀で腕を砕かれて倒れてしまいました。

 卑怯な不意打ちに怒った門弟が追いかけますが、武蔵は一目散に逃げて、本阿弥光悦に匿ってもらうのです。


 そして何日か経った後、今度は清十郎の弟である伝七郎との決闘になりますが、それが三十三間堂なのです。

 伝七郎は偉丈夫で、5尺の太刀(150㎝くらい)を使って決闘に挑んだのですが、あっさり太刀を武蔵に取られて、取られた太刀で斬殺されました。

 実は、小説では三十三間堂を決闘場所と設定していますが、実際の決闘場所は解っていないのです。


 怒り心頭の吉岡一門は、今度は子供を大将に据えて、門弟数百人を集めて果し合いに挑みます。

 それが一乗寺下がり松の決闘です。

 武蔵は山側から大将の背後に回り、子供であろうと躊躇なく斬り殺して、そのままあぜ道を逃げて行きます。

 追いかける門弟を狭いあぜ道で一人ずつ倒して、最終的に逃げおおせたのです。


 こうして見ると、実にやる事がせこいですね。

 そこまでせこくないと無敗の剣豪にはなれないのでしょう。

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