哲学の道、白沙村荘
哲学の道とは、銀閣寺前の銀閣寺橋から若王子神社前の若王子橋までの琵琶湖疎水分線に沿って作られた約1.5㎞の遊歩道の事を言います。
「日本の道100選」の1つでもあります。
最初は1890年(明治23年)に琵琶湖疎水分線が出来た時に、管理用の道として作られていました。
丁度その頃、銀閣寺や法然院、南禅寺界隈にかけて文人らが多く住むようになり、その人たちの散歩コースになり、「文人の道」と呼ばれていました。
そして京都大学の哲学者「西田幾多郎」と「田辺元」(たなべはじめ)がよく散歩するようになって「哲学の小径」などと呼ばれるようになりました。
西田幾多郎は京都大学の哲学者で「京都学派」の創始者でもある人物です。
京都学派とは西洋哲学と東洋思想を融合した哲学で、「善の研究」と言う書物も著作しています。
いきなり西洋化した日本に対し、東洋の価値観をもう一度考えてみると言う哲学です。
そこには仏教などの思想も入っているのですが、昭和に入って戦争が大規模化するに至って、西田幾多郎の考えとは逆に「西洋よりも東洋こそが世界の中心だ」と言う思想にすりかわり、「大東亜思想」(東アジアを1つの政治経済圏とする思想、大東亜共栄圏構想)と融合していき、特に日本海軍に取り入っていきます。
そして日本が戦争に負けたため、一旦は京都学派は没落するのですが、戦後の自民党とかかわって保守的な政治思想を出していき、それは現在も続いています。
(一縷に京都学派と言っても、現在では色々な学問の京都学派の一派が形成されている。京都大学人文科学研究所などは新京都学派と名乗っている)
しかし、現在の自民党は2000年代に入ってリベラル派(グローバリズム、社会主義的、共産主義的、国境不要思想的な考え)の議員が大半を占めるようになってしまいましたが。
哲学の道には桜が多く植わっていて桜の名所となっています。
「関雪桜」と名前がついています。
1921(大正10年)に、画家の「橋本関雪」(はしもとかんせつ)と妻の「よね」が、300本の桜(染井吉野)の苗を寄贈したのが始まりです。
現在は寄贈したころの桜は殆んど枯れて、京都の桜守り佐野藤右衛門の手で植え替えられています。
橋本関雪は神戸に生まれて、1903年(明治36年)竹内栖鳳の竹丈会と言う絵画塾に入り日本画を学びました。
竹内栖鳳は「西の竹内栖鳳、東の横山大観」と称されるほどの日本画の大家でしたが、橋本関雪曰く、自分は竹内栖鳳を超えたと自負しています。
確かに絵を見るとめちゃくちゃ上手いです。
そして銀閣寺橋のたもとに「白沙村荘」(はくさそんそう)と言う邸宅を築きました。
他にも大津に走井居(はしりいきょ)、明石に蟹紅鱸白荘(かいこうろはくそう)、宝塚に冬花庵(とうかあん)と言う別邸まで築いています。
京都と言う地で日本画家として財を成したので、恩返しの気持ちで京都市に寄付でもしようかと妻のよねに話したところ、それなら哲学の小径に桜を寄贈してくださいと言われたので、そうしたそうです。
1972年(昭和47年)に地元住民による保存運動が出た時に「哲学の道」と言う名称に統一しました。
1978年(昭和53年)には、廃止された京都市電(路面電車)の敷石を哲学の道に敷いて歩きやすくしました。
今ではアクセサリーショップや喫茶店などもあり、銀閣寺、白沙村荘、法然院、安楽寺、霊鑑寺、大豊神社、泉屋博古館、若王子神社、永観堂、南禅寺と散策コースになっているので、行ってみてはいかがでしょうか。
京都の物語り 市永剣太 @yam1801
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