智積院

 智積院を紹介しましょう。

 ここは平安時代から戦国時代まで、常に争いの絶えないお寺でした。

 境内には僧兵が跋扈し、戦国時代には鉄砲隊も配備すると言う強硬派のお寺だったのです。


 このお寺は「五百仏山根来寺智積院」(いおぶつざんねごろじちしゃくいん)と言いまして、多くの学僧を輩出し「学山智山」「学問所」「学林」とも呼ばれるほど、仏教学に特化したお寺でした。

 その傾向は今も続いていて、境内には僧侶専門の大学が併設されているくらいです。


 「真言宗智山派」の総本山で、本尊は金剛界大日如来。

 末寺には「千本釈迦堂大報恩寺」「成田山新勝寺」「川崎大師平勝寺」「高雄山薬王院」など3000を数えます。

 関東圏の人は有名な寺院が3つも入っていてびっくりなんじゃないでしょうか?実は智積院の末寺なんですよ。


 智積院の前身は、平安後期1132年、和歌山県岩出市の根来に「高野山大伝法院」の末寺として創建され、新義真言宗を開いた「興教大師覚鑁」(こうきょうだいしかくばん)が、金剛峯寺との教義対立による武力攻撃から逃れ、根来に移住した事から始まります。


 鎌倉中期1288年には大伝法院を根来に移し、正式に「新義真言宗」を別立しています。

 真言宗は大きく分けて古義真言宗と新義真言宗に分かれているのです。

 教義の違いは本地身説法と加持身説法と言う所だけなんです。

 古義真言宗は空海が元々説いた真言密教で、大日如来が自ら説法してくれるのだと言う本地身説法です。

 新義真言宗は大日如来が他者の身を借りて説法するのだと言う、加持身説法と言う教義です。

 どっちでもいいと思うのですが、たったこれだけの事で延々と争っていたのですね。


 室町時代になると、足利尊氏を支援したため寺領を拡大し、ここで初めて「智積院」と言う小院が出てきます。

 智積院はこの頃から「学頭院家」と呼ばれ、学僧が出入りするお寺になっていました。


 戦国時代になると「鉄砲衆」により自治組織を拡大していきます。

 これがいわゆる「根来衆」なのです。

 1584年「小牧、長久手の戦い」(豊臣秀吉軍と織田信雄、徳川家康軍が戦った)では、雑賀衆と共に家康に加担し岸和田城に侵攻し、その後大坂城を攻めて秀吉を脅えさせました。

 翌年の1585年には、秀吉と家康は和睦しますが、根来衆を根に持っていた秀吉は10万の兵を根来寺に差し向け(千石堀城の戦い)報復を加えています。

 この時、智積院の住持だった「玄宥僧正」は醍醐寺まで逃げ、その後、神護寺まで逃げています。


 1591年、秀吉の長男「鶴松」が3歳で夭逝すると、秀吉は東山七条の地に鶴松の菩提寺として「祥雲寺」を建立します。

 都第一と言われた絢爛豪華な寺院でした。


 その後、1600年「関ヶ原の戦い」で家康側が勝つと、玄宥は豊国神社跡地を家康から貰って、もう一度、智積院を建立し「五百仏山根来寺智積院」と命名し、玄宥は中興第一世能化となっています。

 能化とは智積院の最高僧の位の名前です。


 1615年「大阪夏の陣」で豊臣家が滅亡すると、家康より祥雲寺の東半分を譲り受け、寺領を拡大します。

 その際、下げ渡しには二条城で告げられましたが、同席した金地院崇伝(以心崇伝)が「まことに羨ましい」と言ったとの話も伝わっています。

 それはなぜかと言うと、利休好みの庭と絢爛豪華な障壁画がセットで渡されたからです。




 その庭ですが、今では「智積院庭園」と呼ばれまして、国の名勝に指定されています。

 国の名勝とは景色の重要文化財的な物で、国宝級だと特別名勝と言います。


 祥雲寺時代に原型が造られたこの庭は「利休好みの庭」と言われ、築山は中国江西省の「廬山」池は「長江」を模していると言われます。

 文献には残っていませんが、作庭には利休も加わっていたかもしれません。

 また萬福寺5世の高泉性潡(こうせんしょうとん)はこの庭を見て「東山第一の庭」と評価し、度々訪れたと言います。


 数多く配された石と、大きく台形に刈り込まれたサツキ、そして石橋が多いのが特徴で、池が大書院の下まで入り込むように造られているため、池に浮いているかのような感覚が味わえます。

 本来、真言宗では庭などは修行の妨げになる物と考えられているため、智積院に名称庭園がある事は異例と言えるでしょう。




 そして大書院の障壁画は「長谷川等伯一門」が描いた物で、国宝に指定されています。

 現在、大書院の物はレプリカで、本物は収蔵庫に保管されています。

 元は祥雲寺の客殿にあった障壁画で、かつては100面以上所蔵していましたが、火災や盗難で20数面が残されるのみとなりました。


 本来なら「狩野永徳一門」が描くはずだったのですが、永徳が47歳で急逝したため、秀吉は当時注目を集めていた等伯に白羽の矢を立てました。

 中でも「楓図、桜図」は「等伯、久蔵」親子が描いたものです。

 最初に桜図を描いた久蔵は1年後に26歳で夭逝してしまい、その後、悲哀に暮れた等伯が楓図を描いたと言われています。


 この久蔵の死に関しては、狩野派の暗殺説も囁かれています。

 桜図の桜の花びらに胡粉を用いてボリュームを持たせ、立体的に見せると言う手法を考案するほどの天才絵師だったので、永徳を失った狩野派は長谷川一門にシェアを奪われると焦っていたのかもしれません。

 久蔵がいなくなった後の等伯は意気消沈となり、長谷川一門が世に台頭する事はなくなってしまいました。

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