方広寺、豊国神社
今度は豊国神社エリアです。
三十三間堂の北側に広がる所で、京都国立博物館がある所と言えば解るのではないでしょうか。
今では全く変わっていますが、秀吉の時代は一大神聖都市が築かれていた土地なのです。
その発端は天正大地震に起因しています。
天正13年11月27日(1586年1月18日)から11月30日にかけて起きた巨大地震で、若狭から三河に続く断層がずれた地震だと思われていて、被害は近畿、東海、北陸におよび、推定のマグニチュードは9に近いと言われています。
熊本地震のように、27日の前震と30日の余震が強力だったようで、余震は1か月くらい続いていたと言います。
琵琶湖や若狭湾でも津波が発生したとの記述もあるくらいです。
被害は計り知れないもので、数々の城や社寺が倒壊した記述が残っています。
おそらく日本の歴史上、内陸地震では最大の地震だったのではないでしょうか。
ゆえにその被害状況は計り知れないのです。
この惨状に秀吉は、犠牲者を弔うための大仏建立を計画します。
この年には奈良の東大寺大仏殿が、松永久秀の焼き討ちで焼失してしまい、大仏もかなり損傷していました。
そんな事もあり、新たな大仏を建立しようとし、10年かけて方広寺大仏殿を完成させました。
大仏の高さは座った姿で19mもあり、それを覆う大仏殿は高さ49m、横幅88m、奥行き54mもありました。
日本の木造建築史上最大の建物だったのです。
ところが、慶長元年(1596年)、開眼法要をしようとした矢先に慶長伏見大地震が発生し、大仏はあっけなく倒壊したのです。
地震の犠牲者を供養しようと言うのに、皮肉な事ですね。
ちなみにこの地震で最初に築いた伏見城(指月城)が倒壊し、5000人の従事者が死亡しています。
大仏は寄木造で造られた木造の大仏だったので、揺れに弱かったのです。
秀吉はこの醜態に激怒し「おのれの身さえ守れぬか!」と言って、大仏の顔に矢を放ったらしいのです。
秀吉はその2年後に死去しました。
この10年の間に秀吉はもう1つお寺を造っています。
祥雲寺と言うお寺で、秀吉と淀殿の間に出来た鶴松がわずか3歳で夭逝してしまい、その鶴松を弔うために建立されたお寺です。
その内装はお寺とは思えないほど絢爛豪華に設えられ、庭に至っては千利休曰く天下一の庭と謳わしめました。
障壁画は長谷川等伯一派が手掛けた金碧障壁画で、現在でも同じエリアにある智積院と言うお寺に庭と障壁画が残されています。
大仏再建は息子の秀頼に受け継がれ、今度は銅製の大仏を建立しようとしますが、慶長9年に鋳造に失敗して大仏殿が炎上してしまいます。
それでも秀頼はめげる事なく再建を続け、慶長17年(1612年)に完成させました。
そして2年後の慶長19年に完成させた大梵鐘が豊臣家の存亡を脅かすのです。
高さ4.2m、直径2.8m、厚さ27㎝、重さ82.7tもある巨大な梵鐘で、今でも日本最大級の梵鐘として残っています。
「国家安康の鐘」と言えば知っている人もいるでしょう。
この梵鐘を造る際、秀頼は文英清韓と言う高僧に銘文を書かせました。
その銘文の一部に、国家安康、君臣豊楽と言う部分があって、それを見つけた徳川家康は、自分の名を分断して豊臣を君主として安泰させるための秘文に間違いないと言いがかりをつけたのです。
その言いがかりを考えたのは以心崇伝と言う僧侶ですが。
これを「方広寺鐘銘事件」と言い、この事件を機に豊臣方と徳川方の対立が激しくなり、大坂冬の陣・夏の陣に発展して行きました。
方広寺は江戸中期に落雷で焼失し、この梵鐘も地面に落ちたのですが、1884年(明治17年)の鐘楼再建までの約100年間は、重すぎて釣り上げる事ができませんでした。
釣り上げた時、梵鐘の裏側に女性の幽霊のような像が浮かび上がっていて、淀殿の幽霊だと噂されました。
もっといい銘文を書いていれば、今頃はまだ豊臣の世の中だったかもしれませんね。
現在の規模を縮小した方広寺の南側には、豊国神社があります。
祭神は豊臣秀吉で、豊国大明神と言う神号を貰っています。
家康も東照大権現と言う祭神になっていますが、これは大明神より上の神号である大権現を貰っています。
やはり豊臣家より上だと言う自負があるのでしょう。
元々、方広寺大仏殿の東に聳える阿弥陀ヶ峰の頂上に豊国廟と言う秀吉の墓があり、その麓にあったのですが、造られた時は方広寺の鎮守社として新八幡社と呼ばれていました。
それは、秀吉の死後しばらくは死んだ事を隠していたからです。
秀吉は死ぬ前に、自分を八幡神として祀るように指示していましたが、結局、意に反して豊国大明神と言う神号を贈られ、社名も豊国神社になりました。
豊国とは豊葦原中津国の意味で、日本の武神と言う立場だと言われます。
八幡が許されなかったのは、八幡神は皇祖神だからと言う理由でした。
方広寺の仁王門から大仏殿、豊国神社、阿弥陀ヶ峰の山頂の豊国廟まで、一直線に並んでいて、その当時は壮観な物だったでしょう。
今でも正面通と言う道があって、京都を東西に縦断しています。
徳川の世になると神社は取り壊され、豊国廟も放置され荒れ放題になっていました。
ねねさんの尽力で、墓を暴く事は免れていました。
それを明治天皇が再整備するように命じて、元々大仏殿があった場所に豊国神社を再建させました。
本殿の裏には巨大な大仏の基壇跡が公園として残されています。
国宝の唐門は伏見城の遺構と言われます。
伏見城が廃城になった際、唐門は二条城に移されましたが、家光の二条城改修に伴い南禅寺の金地院に移されました。
この金地院が言いがかりを考えた以心崇伝のお寺なんです。
その後、明治の豊国神社再建で金地院から移築されました。
またこの神社には刀剣乱舞でお馴染みの「骨喰藤四郎」が所蔵されています。
鎌倉時代から大友氏が持っていましたが、足利将軍家に渡って松永久秀に渡っていました。
松永久秀は信長から平蜘蛛茶釜を求められて、茶釜と一緒に自害した事で有名な武将ですね。
先程も東大寺を燃やした事を紹介しましたが、久秀が自害した時は東大寺襲撃の日と同じだったと言います。
それは置いといて、骨喰藤四郎は大友宗麟が金銭トレードでもう一度、大友氏に戻しました。
しかし、島津氏と戦っていた大友宗麟は秀吉の家臣になる事を前提に、骨喰藤四郎を渡しています。
その後すぐに秀吉は大軍を送って島津氏を圧倒しますが、宗麟は病気で亡くなりました。
その後は秀頼に渡り、大坂冬の陣で功績があった木村重成が賜ったと言います。
そして何故か、大坂城の堀の中から見つけ出されて本阿弥光室の手に渡ります。
本阿弥光室は徳川秀忠に骨喰藤四郎を献上し、秀忠は大喜びして大金を光室に渡しています。
そして明治の豊国神社復興で、徳川家達が金百円を添えて奉納したと言います。
明治期には国宝に指定されていましたが、今は重要文化財になっています。
今では何故かゲームで擬人化されて、刀剣女子に大人気になってしまいましたね。
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