六波羅蜜寺、京都神田明神

 今回は空也上人(くうやしょうにん)の話にちなんで、六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)と京都神田明神(きょうとかんだみょうじん)を紹介しましょう。


 まず空也さんですが、延喜3年(903)に天皇の子として生まれたと言う説があり、噂では醍醐天皇の落胤(らくいん、高貴な人が身分の低い人との間に産ました子供)とされていました。


 20歳くらいになると尾張の国分寺で出家(しゅっけ、お坊さんになる事)して、諸国を巡って南無阿弥陀仏を唱えながら寺院や橋を建設すると言う修行的な公共事業を行います。

 これによって賛同した多くの者が信者として空也を慕うようになりました。


 天慶元年(938)になると、京都に留まって念仏を広める活動を始めます。

 その活動は南無阿弥陀仏を唱えながら京の街中を歩き回ったり、阿弥陀如来の有難味を説いたりしました。

 京の人々は空也さんの事を市聖(いちのひじり)とか阿弥陀聖(あみだひじり)と呼びました。


 天暦2年(948)には比叡山延暦寺で高僧になる受戒も受けましたが、それでも空也さんは街中で念仏を説き歩く事にこだわります。


 天歴5年(951)丁度その頃はまたもや疫病が流行った時期でして、京の都は多くの死者が出ました。

 村上天皇は勅命で空也さんに疫病退散の祈祷をしてくれと頼みます。

 すると空也さんは祈祷をするどころか、自分で6尺の観音像と1尺の四天王像を彫って、観音像には金箔を施して、それを車に乗せて京都中を引っ張り回して、そのころ薬として使われていたお茶を市民に振舞って、念仏踊りを踊らせて疫病を鎮めたと言われます。


 そのお茶は特別で、お茶に梅干しと昆布を入れて飲んだもので、このお茶を飲むと病が治った事から喜んで踊り出した、即ち歓喜踊り、ここから念仏踊りに発展したとも言われます。

 しかも、自身も病に伏せっていた村上天皇が、その噂を聞きつけて飲んでみると、たちまち病が治ったので、このお茶が皇服茶(おうぶくちゃ)と言われるようになりました。


 黄金の観音像を引っ張り回していた姿はやはインパクトがあり、人々は空也を慕って行列を作り、南無阿弥陀仏のリズムに乗って勝手に踊ってしまったのでしょう。

 これがいわゆる六斎念仏とか念仏踊りとなり、ひいては盆踊りになって阿波踊りに発展して行きました。

 ですから空也さんがこんな事をしてくれなかったら、徳島の阿波踊り大会や全国の盆踊り大会はなかったかもしれませんね。


 この後963年、空也さんは金字で書いた大般若経600巻を完成させて、今の六波羅蜜寺の地に西光寺と言うお寺を建立しました。

 この地を選んだ理由は、やはりここが葬送地の入口にあったからです。詳しくは六道珍皇寺の件を読んでください。


 空也さんはこの西光寺で亡くなるのですが、その死後、977年になると比叡山から中信と言うお坊さんが降りて来て、西光寺を六波羅蜜寺と改めて住持する事になりました。

 空也さんは不思議な人で、慕っていた弟子は沢山いたのですが、自分の宗派を立てずに亡くなって行きました。

 ですから六波羅蜜寺は天台宗の預かりとなり、戦国時代からは真言宗智山派智積院の末寺となりました。


 それでも空也さんの浄土思想は、鎌倉時代になり一遍(いっぺん)と言うお坊さんに引き継がれて、踊念仏が全国に普及する切っ掛けになりました。


 空也さんが彫った観音像は国宝になっていて、今でも六波羅蜜寺の秘仏本尊として、12年に1回、辰年の年に公開されています。その為このお寺は、西国三十三観音霊場の17番札所にも選ばれています。

 宝物庫には空也上人の口から6体の阿弥陀仏が飛び出ている木像や、平清盛の木像、運慶、湛慶の木像などもあって、ほとんどが慶派の仏師が彫った物ですから人気のスポットとなっています。




 京都の中心部、四条西洞院の交差点を東に数メートル行った所に南に入る細い路地があり、この路地を膏薬の辻子(こうやくのずし)と言います。

 辻子とは通りから通りに抜ける小道の事で、真っ直ぐの道を路地と言い、鍵状に抜ける道を辻子と言います。


 その膏薬の辻子に京都神田明神と言う、民家に併設された小さな祠があります。

 何でこんな所に神田明神があんねんと思うでしょうが、実は940年の平将門の乱で討たれた将門の首を、京都に送って晒した場所だったのです。


 それを知った空也さんは将門の霊を鎮めるためにお堂を建てて供養をし始めました。

 するとそこの道が、空也が供養するお堂がある辻子となって、空也供養の辻子となり、こうやくようの辻子、膏薬の辻子と訛って行きました。


 お堂の場所は神田神社となり、室町時代ころになると民家に取り込まれて祀られるようになります。

 2010年になって小さいながらも綺麗に整備されて、京都神田明神となりました。

 今ではちょっとした観光スポットとなっています。




 ついでですから平将門の話もしておきましょう。


 940年、将門は自分が天皇になるんやと言って、反旗を翻しましたよね。

 それを藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と平貞盛(たいらのさだもり)に討たれました。

 首は京都に送られて晒し首になったのですが、3日後に関東へ向かって飛んで行ったと言われています。(その当時の臣下が持ち去ったとも言われます)

 将門の首が降り立った場所は数か所ありますが、中でも有名なのが東京の築土神社(つくどじんじゃ)と神田明神です。


 築土神社はなんと将門の首そのものが祀られていた神社だと言われていて、昭和20年の東京大空襲で焼失するまであったとされています。

 今では写真が残っているだけみたいです。


 そして神田明神ですが築土神社のすぐ近くにあるんです。

 鎌倉後期に関東地方で天変地異や疫病が流行ると、将門の怨霊だとなって、この怨霊を鎮めるために神田明神の祭神である大己貴命(おおなむちのみこと、大国主の別名、だいこく様)の神霊でもって鎮めてもらおうと言う事になり、盛大に供養祭が開かれました。

 それから神田明神では大己貴命の横に平将門(まさかど様)が祀られるようになります。

 そして明治7年(1874)明治政府の命令により、逆臣である平将門を祭神から降ろして、代わりに少彦名命(すくなびこなのみこと、事代主の別名、えびす様)を祭神にさせられました。(これは築土神社も同じ)

 するとそれまで災厄に遭わなかった神社が、関東大震災で焼失し、東京大空襲でまたもや焼失と、2度も災厄にあってしまいました。

 昭和59年(1984)になってやっと平将門が祭神として元に戻ったのです。

 どうでしょうか。関東大震災と東京大空襲が将門の怨霊のせいではないと言い切れるでしょうか。


 ちなみに、日本三大祭に選ばれているのが、この神田祭と京都の祇園祭、そして大阪の天神祭りです。

 ここで凄く引っかかる事があります。それはこの3つの祭は全て怨霊を鎮めるために始まったお祭りだと言う事です。

 神田祭は平将門の怨霊、祇園祭は早良親王(さわらしんのう)の怨霊、天神祭りはそうです、菅原道真(すがわらのみちざね)の怨霊を鎮めるお祭りなのです。

 なぜ天神祭りが大阪で盛大にやられるかと言うと、京都の北野天満宮でお祓いした悪霊たちを憑代(よりしろ)に封じ込めて、大阪湾まで行って禊の儀式(みそぎのぎしき、罪や穢れを洗い清める)を行ったのに由来しています。

 昔は大阪天満宮の辺りが海岸線でした。

 昔の人は疫病や災厄は怨霊の仕業と本気で思っていて、途轍もなく恐れていたのです。

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