青蓮院、将軍塚

 今回は門跡寺院(もんぜきじいん)でも格の高い、青蓮院(しょうれんいん)を紹介しましょう。


 まず、門跡と言うのは皇族と公家のトップである五摂家(ごせっけ)の人がお坊さんになって入寺するお寺の事です。

 天皇がお坊さんになると法皇(ほうおう)と呼ばれ、天皇になっていない兄弟や子供(天皇の兄弟や子供を親王と言う)がお坊さんになると法親王(ほっしんのう)と呼ばれます。

 五摂家と言うのは、摂関家(せっかんけ)とも言いますが、代々摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)、太政大臣(だじょうだいじん)を歴任する5つの公家の事で、近衛家(このえけ)を筆頭に、九条家(くじょうけ)、二条家(にじょうけ)、一条家(いちじょうけ)、鷹司家(たかつかさけ)があります。

 この天皇、親王、五摂家が入寺したお寺を門跡寺院と呼ばれるんです。


 皇族が入寺すると宮門跡、五摂家が入寺すると摂家門跡と言われ、女性が入寺するお寺は尼門跡と言われました。

 徳川将軍家の者が入寺する場合もあって、公方門跡(くぼうもんぜき)と言われる事もあります。


 なぜそんなに皇族や公家がお坊さんになるかと言うと、政争に巻き込まれないように、もしくは口減らしのためにお寺に入りました。

 当時は天皇には何人もの皇子がいましたから、それらを置いておくと政争に使われたり、反旗を翻したりする可能性だってあります。

 皇族と言っても皇子が多いとそれだけお金もかかる訳で、中には幼い頃からお寺に入れられる事もありました。

 それでも還俗(げんぞく、僧侶を辞める事)させて政争に利用される事はままありましたが。


 ですから皇族が入寺する宮門跡はそれだけで最高の寺格(お寺の位)になる訳です。

 明治時代までは13の宮門跡が存在していました。

 妙法院、青蓮院、三千院、曼殊院(まんしゅいん)、毘沙門堂(びしゃもんどう)、仁和寺(にんなじ)、大覚寺、知恩院(ちおんいん)、勧修寺(かじゅうじ)、輪王寺(りんのうじ)、聖護院(しょうごいん)、照高院、円満院とありましたが、照高院の門主の智成法親王(ちせいほっしんのう)が明治に入って還俗して北白川宮智成親王(きたしらかわのみやさとなりしんのう)となって北白川宮家を創設して照高院はなくなり、現在は12の宮門跡が残されています。


 その中でも格式が高い宮門跡が青蓮院、三千院、妙法院と言う天台三門跡で、これに曼殊院と毘沙門堂を入れて天台五箇室門跡(てんだいごかしつもんぜき)とされる事もあります。

 江戸時代まではこの門跡寺院が最高の寺格を持っていましたが、江戸時代に入ると輪王寺と言う日光東照宮に隣接するお寺が宮門跡となり、徳川幕府によって日本で最高のお寺とされました。

 後水尾天皇の第3皇子守澄法親王(しゅちょうほっしんのう)が入寺してからで、日光にいながら比叡山延暦寺の天台座主と東叡山寛永寺の貫主を兼任していました。

 これは徳川に仕えて寛永寺の貫主だった天海僧正が仕組んだ事と思われ、日光山を最高の霊山とするために、その頃の最高の霊山だった比叡山延暦寺と天皇家と徳川家をミックスすると言う離れ業を成し遂げたと思われます。

 ですから、輪王寺に住持する法親王は徳川将軍が参拝に訪れても下座に座る事はありませんでした。

 これが明治維新まで続き、神仏分離令で日光東照宮との関わりを分断されました。

 今では門跡寺院を統括するのは仁和寺とされています。



 と、門跡の説明で長くなりましたが、青蓮院は元々比叡山の山内にあった青蓮坊と言う小院から始まっています。

 平安末期に鳥羽上皇の后の美福門院(びふくもんいん)が祈願所(自分が最も気に入った礼拝所)として、その第7皇子覚快法親王(かくかいほっしんのう)が入寺して宮門跡になりました。

 門跡になると同時に平地に降りてきましたが、建っていた所が洪水の危険があるために、鎌倉初期に今の知恩院の北側に移りました。


 鎌倉時代にはこの門跡で、親鸞が9歳の時に得度を行っています。

 この時の門主は慈円と言う藤原忠通の息子だったお坊さんで、慈円が今日は遅いから明日に得度の儀式をしようと言うと、親鸞は「明日ありと 思うこころの あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」と言う古い歌を引用して儀式を急かせて、その夜の内に得度を行ったと言います。

 境内に樹齢800年の巨大なクスノキが5本植わっていますが、親鸞が青蓮院にいる時に植えたと言われています。

 

 江戸時代になると、天明8年(1788)の天明の大火と言う京都市内を襲った大火事で御所が焼けてしまい、その時の女性上皇(じょうこう、天皇を引退した後の位)だった後桜町上皇(ごさくらまちじょうこう)が青蓮院を仮御所として粟田御所と呼ばれました。

 この時、お母さんの青綺門院さんが南側の知恩院に住まわれたのですが、なんと青蓮院と知恩院を結ぶ長ぁーい渡り廊下を幕府に造らせて、間を行き来していました。(この頃の皇族は地べたを歩く事はありません)


 もう1つ後桜町天皇のエピソードを紹介すると、御所千度参り事件と言う物があります。

 天明7年(1787)の真夏、旧暦で6月7日、今の暦で7月21日から近畿中の人々が御所の回りをぐるぐる回ると言う事件が起こりました。(青蓮院に移る前)

 その行動は2週間ほど続き、後半では7万人以上集まっていたと言われます。

 これには天明の大飢饉と言う日本最大の飢饉が関係していて、食べる物がなくて困った人たちが御所に救済を求めて集まった物でした。

 この時に後桜町上皇は3万個ものリンゴを配ったと言われます。もちろんリンゴだけではなくて、色々な食べ物を配っていて、他の宮家や公家なども飯炊きをして救済したと言われます。後桜町上皇もおにぎりを握ったと伝わります。

 この状況に時の天皇だった光格天皇は、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)と言う法律の違反を覚悟で、幕府に対して民衆救済を訴えました。

 この行動で幕府は1500俵の米を京都に流す事を決定して、皇族や公家の行動は仕方がなかった行動として法律違反は許されました。

 しかし、この皇族や公家の救済行動が切っ掛けとなって、尊王論が高まる要因となりました。

 その中心にいた人物が高山彦九郎(たかやまひこくろう)で、その思想は多くの幕末志士を生む原動力になりました。

 後桜町上皇がこんな行動をしていなかったら、明治維新はなかったかもしれませんね。



 そしてこのお寺で最も有名なのが、国宝の青不動です。

 不動明王二童子像と言うのですが、不動明王の平安時代初期に描かれた絵画でして、日本三不動の1つに指定されています。

 あとの2つは、三井寺(園城寺)の黄不動と、高野山明王院の赤不動です。

 3つとも不動明王の姿を描いた絵画で、最も初期に描かれた不動明王の絵として、とっても貴重な物なのです。

 本来は東京の目白と目黒に白不動と黒不動があったらしいですが、現在は失われて、5つ合わせて五色の不動だったそうです。

 中でも青不動は一番力のある不動明王で、不動明王の基本形の形をしています。

 大日如来の化身とも言われていて、如来が怒った姿が明王と言われます。

 体は青、これは煩悩の泥の中でも衆生を救済する事を意味しています。

 右手の剣は俱利伽羅龍(ぐりからりゅう)と言う龍が変化した物で、ファンタジー的に言えば龍神剣でしょうか。

 左手の羂索(けんさく、縄)は投げ縄になっていて、煩悩から抜け出せない、言う事を聞かない人を縛り上げてでも救い出そうと言う物です。

 顔は鬼の様な憤怒の表情で、全ての者を救済すべく、右目は天を見て左目は地を見ると言う天地眼(てんちがん)をしています。

 岩の上に座っていて、これを瑟瑟座(しつしつざ)と言うのですが、金剛石、いわゆるダイヤモンドの塊に座っています。

 背中には迦楼羅焔(かるらえん)と言う炎を纏っていて、よく見ると炎は火の鳥が3匹集まった形で、この火の鳥を迦楼羅鳥と言います。

 そして脇に眷属の八大童子の内の制吒迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)の2人を従者にしています。

 この様に不動明王は、言う事を聞かん連中を怒ってでも救済しようとしているのです。

 そして不動明王が住んでいる世界が、人間界と天界の狭間にある火生三昧世界(かしょうざんまいせかい)と言う所で、人間界の煩悩が天界に及ばないように強力な炎で焼き尽くしてしまう世界なのです。

 こんな不動明王を召喚するには、どれだけのレベルが必要なんでしょうね。


 この青不動は今まで奈良国立博物館に保管されていましたが、2014年からは裏山である華頂山の頂上にある飛び地境内の将軍塚大日堂青龍殿に安置されました。

 今では厳重に保管されて数年に1回くらいで公開されていますが、通常は見事なレプリカが祀ってあります。



 この青龍殿がある所が将軍塚と言って、平安京が出来る上で重要な場所となりました。

 早良親王の怨霊を恐れて長岡京の廃都を決めた桓武天皇に、次の造都責任者になった和気清麻呂は、狩りに行きましょうとかこつけて、この将軍塚までやってきました。

 そして眼下に広がる京都盆地を見せて、北に山がある玄武(船岡山)、東に川がある青龍(鴨川)、西に街道がある白虎(山陰道)、南に池がある朱雀(巨椋池)と、極めて四神相応(ししんそうおう、風水的に最も立地が良い所)に適していると訴えました。

 すると桓武天皇は「葛野(かどの、丁度平安京が出来る土地)の地は山川が麗しく、四方の国人が集まるのに便利が良い地じゃ」と言いました。

 そして平城京の北側にあったこの地、山背(やましろ)を、山に囲われて天然の城に見える事から山城(やましろ)と改めさせました。

 それと、この山の上に、高さ250㎝の将軍の土像を造らせて剣や鎧を着せて、守り神として埋めさせました。

 一説には坂上田村麻呂の武具を着させたとか、遺体を土像の中に入れて埋めたとか言われます。

 平安京に異変がある時は、この塚が鳴動するように造られたと言われます。

 事実、歴史書には何度も鳴動した記録が残っていて、特に応仁の乱が始まる寸前には何度も鳴動したと記録されています。他にも天明の大火の前とか、第二次世界大戦の前とかにも鳴動したとか。



 こんな青蓮院と将軍塚ですが、相阿弥や小堀遠州の庭とか、京都が一望できる大舞台とか見所が沢山ある所なので一度訪れて下さい。

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