矢田寺、五山送り火

 せっかくお盆ですので、お盆にちなんだお寺を紹介しましう。


 寺町三条を上がったところに矢田寺(やたでら)と言う、お地蔵さんをお祀りする小さなお寺があります。

 最近はこの辺りに探偵ホームズを自称する骨董屋さんがいるみたいですが。


 ここはお盆の送り鐘を撞くお寺として、京都ではとっても有名なお寺です。

 京都の人、特に宗派に関係なく過ごしておられる方は、8月10日頃になると、まず六道珍皇寺に行って迎え鐘を撞きに行きます。これは先祖の霊が冥土から迷わずにお越しいただく行事になります。

 そして、16日になると今度は矢田寺に行って送り鐘を撞きに行きます。これは先祖の霊を迷う事なく送り届ける行事になるのです。


 このお寺は元々、奈良の大和郡山(やまとこうりやま)にある矢田山金剛山寺(通称矢田寺)の別院として建てられたと言います。

 大和郡山の矢田寺は天武天皇(大海皇子おおあまのみこ)が壬申の乱の前に戦勝祈願の勅願で創建されたお寺だと言います。

 そして平安時代の820年頃、閻魔大王に仕えていたと言われる小野篁は、ある時、閻魔大王から菩薩戒(大乗戒とも言い、大乗仏教のお墨付きを貰う事)を授けてくれる良い者はいないかと尋ねられました。

 閻魔大王は前世の禍(わざわい)によって気の憂いが生じていたのだそうです。

 そこで篁は、奈良の矢田寺の満慶和尚を紹介しました。

 満慶さんは六道珍皇寺の冥土通いの井戸を通って閻魔大王に会い、菩薩戒を授けました。

 すると閻魔大王の気の憂いもなくなって、お礼がしたいと言うと、満慶さんは地獄が見たいと進言し、地獄巡りを許されました。

 閻魔大王は針山地獄やら血池地獄など色々な地獄を見せて行き、炎熱地獄を訪れたところで、満慶さんは1人の僧侶と出会います。

 その僧侶は自分の事を地蔵菩薩だと言い、炎熱地獄で焼かれている亡者を自分自身も焼かれながら救済していました。

 地蔵菩薩が言うには、釈迦如来の教えに従い、釈迦の法力がなくなった末法(だいたい日本では1052年からと言われる)から56億7千万年後に、次に現れるであろう弥勒如来が出現するまで、慈悲によって衆生を救済し続けていると言います。

 そしてその地蔵菩薩は、娑婆にかえったら自分とそっくりの像を造って祀ってくれと告げました。

 満慶さんは地上に帰ると早速、地蔵菩薩立像を造って京都の五条大宮の辺りにお寺を建てて安置したと言われます。

 それが移転を繰り返し、最終的に秀吉の区画整理で寺町三条に来ました。

 ですから、このお地蔵さんは生身地蔵とも言われ、お地蔵さんのデビュー作、ファースト地蔵と言っても過言ではないお地蔵さんなのです。

 しかし、現在のお地蔵さんは火災などで焼失していて、江戸時代中期の復元だそうです。

 像高は2mで、お地蔵さんには珍しくお不動さんのような火焔光背を背負っています。

 苦しみを代わりに受けてもらう事から、受代苦地蔵(じゅだいくじぞう)とも呼ばれます。


 ここに訪れると、ほんとにお堂の真ん前に送り鐘が吊るされていて、非常に面白い造りになっています。

 送り鐘が撞かれるようになった理由は解りませんが、おそらく六道珍皇寺の六道参りが隆盛する室町時代ころに、迎え鐘に対して送り鐘が撞かれるようになったと思います。

 昔は色々なお寺で迎え鐘と送り鐘を撞いていましたが、今では少なくなって、迎え鐘は六道珍皇寺と六波羅蜜寺、送り鐘は矢田寺と千本えんま堂が今でも行われています。(えんま堂は迎え鐘と送り鐘の両方を行っています)

 なぜこんなに減ってしまったかと言うと、戦時中に日本軍によって金属供出が行われ、お寺の鐘はほとんど軍に持って行かれたからです。

 矢田寺の鐘も例外ではなく、本来は1359年に鋳造された鐘が吊るされていたのですが、金属供出に遭い、現在の鐘は戦後に鋳造された物だそうです。

 方広寺の件でも言いましたが、日本最大の鐘である国家安康の鐘は当時、地べたに置かれたままになっていたそうですが、それに目を付けた軍が持って行こうとしましたが、重すぎて動かせなかったみたいです。なにせ80tありますからね。




 お盆は正確に言うと、盂蘭盆会(うらぼんえ)と言います。 では、なぜお盆ではこの様な行事をするのかと言いますと、お釈迦様の弟子で神通力第一とされる目連尊者(もくれんそんじゃ)と言う人のお話しに由来します。

 インドの言い方でモッガラーナが訛って行って目犍連(もっけんれん)となって、日本では目連尊者と言われるのですが、この人がある時、亡くなった自分のお母さんが、ちゃんと天界に行っているかを確認するために、神通力の1つである天眼を使って調べてみました。

 するとお母さんは餓鬼界に堕ちていて、逆さ吊りの刑に遭っていました。

 この逆さ吊りの事をインドの言葉でウランバーナと言い、それが中国を経て訛ると盂蘭盆になりました。

 そんなお母さんの姿を見た目連尊者は、慌てて食べ物を神通力で転送しますが、全て口に運ぶ前に燃え上がってしまいます。

 困った目連尊者はお釈迦様に相談すると、亡者救済の秘法である施餓鬼法(せがきほう、五如来の力や舞踊で浄土に往生させる法)を教えられました。

 目連尊者が施餓鬼法を試すと、お母さんはたちまち餓鬼界から抜け出して歓喜の舞を踊って天界に行ったと言います。

 これを施餓鬼供養と言って、中国などでは10月くらいに盛大に食べ物をお供えするお祭りをするのですが、名称がなぜか逆さ吊り祭、つまりウランバーナ祭、盂蘭盆会になってしまったみたいです。

 しかも日本に入ってくると8月の暑い時に行われるようになりました。




 そして京都でお盆最大の行事と言えば、五山の送り火です。

 始まったのは実はよく解っていません。

 一説では、室町幕府の8代将軍足利義政が若くして亡くなった自分の子供、足利義尚(あしかがよしひさ)の霊を慰めるために、銀閣寺の裏山に大の字を造らせたとか。

 しかし最近では平安時代の貴族の日記に送り火のような記述がある事から、平安末期くらいに始まったのかなぁと思われます。

 実はその原型となる物が六波羅蜜寺にあるのです。

 お盆になると観音様の厨子の前に大の字型に灯明を並べてお祈りをします。

 これが五山送り火の、大文字の原型だと言われています。

 今では五山六字「大文字、妙、法、舟形、左大文字、鳥居形」と言う具合になっていて、妙と法は2つで一山になっています。

 昭和初期までは他にも、「い」「蛇」「竿の先に鈴の付いた形」「長刀」などがあったらしく、京都盆地の回りをぐるりと、今の倍くらいはあったみたいです。

 それから、大文字焼きと言ったら怒られますからね。

 必ず五山送り火か大文字送り火と言って下さい。

 大文字焼きが見たいと言ったら、大文字焼きと言うどら焼きみたいな饅頭が出てきますから気を付けて下さい。

 ちなみに京都だけじゃなくて大文字送り火は、奈良とか他の地方でもあり、全国で10か所くらいあります。


 8月16日は昼間から京都に来て、矢田寺で送り鐘を撞いて、ぬいぐるみ地蔵と言うグッズを買って、夜になったら五山送り火を眺めてはいかがでいょうか。

 究極の送り火鑑賞は京都タワーでしょうね。五山送り火が全て見れます。

 調べてみると、2万円のコースで「五山送り火鑑賞と晩餐の夕べ」と言うプランがあるみたいですから、たぶんうんと前から予約しないと上がれないみたいですね。

 嵐山では鳥居形の送り火と精霊流しが同時に行われるので、とっても幻想的な雰囲気が味わえます。

 この時の絶景ポイントは渡月橋を渡った、西岸がおすすめです。遠くに大文字と、近くに鳥居形と精霊流しが見えます。屋台がいっぱい並んで、鵜飼のショウも見られますから楽しいですよ。

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