建仁寺
祇園の真ん中に建仁寺(けんにんじ)と言う大きな禅宗寺院があります。
実はこのお寺は日本の禅宗宗派、即ち臨済宗(りんざいしゅう)が成立したお寺と言う事はご存知でしたでしょうか。
正式名称は臨済宗建仁寺派大本山東山建仁禅寺(とうざんけんにんぜんじ)と言います。
このお寺を創建したのが、明菴栄西(みょうあんようさい)と言うお坊さんでした。
栄西さんは1141年に岡山県の吉備津神社の権禰宜の子として産まれました。
そして子供の頃から仏教書を読破するなど非凡な才能に秀でて、14歳で比叡山に上がり得度を受けます。
そして1168年には貴族社会と密接になり堕落していく天台宗の未来を見据えて、平家の庇護を受けて南宋に留学します。
その時は、南宋で禅宗が流行しているのを目の当たりにし、禅宗を日本仏教の柱にしようと思うところで帰国の時を迎えてしまいました。
1187年にもう一度南宋に渡り、天台山万年寺で臨済宗黄龍派の印可(いんか、布教許可の事)を貰って帰国します。
1194年、栄西さんは京都には帰らずに、まず最初に鹿児島で感応寺と言うお寺を建てて臨済禅を広めようとしますが、何とそれを比叡山の天台宗が反対し、時の天皇から禅宗停止の宣下が下されてしまいました。
1195年には博多に移って聖福寺を建立するのですが、この時は一計を案じ、自ら真言宗の印可も貰って、臨済禅と天台宗と真言宗の三宗兼学と言う形で布教する事になりました。
そして京都を避けて今度は鎌倉に移動し、興禅護国論と言う本を書きます。禅は各宗派を否定せず、仏法復興に重要であると書かれているのです。
鎌倉では禅の教えが武士たちに気に入られて、すぐに広がりを見せます。
1200年には北条政子が寿福寺を建立し、栄西を住職にしています。
そしてついに、建仁2年(1202)に鎌倉幕府の2代将軍源頼家(みなもとのよりいえ)の庇護を受けて、京都に建仁寺を建立し、同時に朝廷の庇護も取り付けて大本山とする事が許され、ここに日本臨済宗が立ち上がったのです。
即ち、天台宗、真言宗の朝廷主導で隆盛した宗派、浄土宗などの民衆主導で栄えた宗派ではなく、武家主導で広まった宗派であると言えるのです。(こことっても大事)
ですから日本の文化面で見ても、武士との関わりがとっても密接になって行って武家文化が生まれます。
建仁寺がそのターニングポイントになったと言ってもいいでしょう。
今、現代人が素敵な日本文化だなと思っている物は、ほとんどがこの時代以降に出て来た物なのです。
まず着物がそうです。
平安時代の衣服は、隋や唐の影響を受けた衣服で、男性は襟元もぴっちり閉じて、ズボンのような物を履いて裾を締めて、靴まで履いています。ある意味西洋的と言ってもいいです。
それが鎌倉時代になると、今とほとんど同じ和服になって行きます。
これはやはり武家と禅宗が密接になって行くのと並行していて、栄西さんが南宋から持ち込んだ文化が反映しているのです。
中国南宋時代の絵画などを見ると、完全に日本の和服のような着こなしをしています。
これはなにも栄西さん1人がもたらした物ではありません。日本に帰る時に何人もの中国僧を連れて帰っているから色々な文化が広まるのです。
建築にしても、扉や仕切り壁と言う概念がない寝殿造(しんでんづくり)から、禅宗の方丈建築(ほうじょうけんちく)をミックスして、和様建築、書院造が出来上がって行きます。
そして栄西さんの最も有名な功績は茶の文化を広めた事でしょう。
栄西さんは喫茶養生記(きっさようじょうき)と言う本を書いて、武家、公家、豪商に広めました。
それまでも茶と言う物はありました。
空海も最澄も唐に渡って茶の種を持って帰っていますが、この時の茶葉の製茶方法は纏茶(てんちゃ)と言って、茶葉を発酵させて作るお茶で、烏龍茶とほぼ同じ物を飲んでいました。
ところが栄西さんが持ち込んだ製茶方法は、茶葉を粉末にする抹茶(まっちゃ)だったのです。
こうする事によって色々な成分を全て飲む事が出来る上、カフェインの摂取が多くなり目が冴える効果も上がります。
これは朝から晩まで修行する禅宗のお坊さんには重宝された物で、それが武士にも広がって行って今の茶道が生まれたのです。
しかし、中国では宋の時代から明の時代になると同時に抹茶の文化はなくなりました。
これは明の洪武帝が贅沢な抹茶文化をやめさせたせいで、その代わりに中国では炒り茶が広がって行きました。
そんな中、烏龍茶などの発酵茶はかろうじて残って行ったのです。
抹茶がなぜ贅沢かと言うと、被せ茶(かぶせちゃ)と言って、茶葉を育てる時に藁などを被せて日光を防ぐ事で甘い茶葉が育ち、その茶葉を蒸して乾燥した物が碾茶(てんちゃ、お茶用語にはてんちゃが沢山でてきます)になります。
蒸す事で発酵を押さえるのです。
この碾茶を石臼で引くと抹茶になり、江戸末期に開発された揉む工程をすると玉露(ぎょくろ)になります。
抹茶が贅沢品と言うのがここにあります。
ですから普通に摘んだ茶葉は、抹茶にしても苦くて美味しくないので、ほうじ茶や番茶などの炒り茶にして、急須(きゅうす)で煎じて飲みます。これを煎茶(せんちゃ)と言います。
江戸中期1738年に宇治の永谷宗円(ながたにそうえん)と言う人が、普通に摘んだ茶葉でも美味しくなる青製煎茶製法(あおせいせんちゃせいほう、緑茶を作る方法)を開発して、今我々が飲んでいる緑茶が出回るようになりました。
あの永谷園の創業者です。
茶葉を40から50度で炒りながら手で揉む作業をする事で、初めて安価な緑茶が庶民の口に入るようになったのです。
この様に、武士の台頭と臨済宗には深い関わりがあったのです。
それに伴って、金閣寺を中心にした北山文化、銀閣寺を中心にした東山文化と、現在我々が和風な文化と認識している物が、禅宗寺院と武家との間で生まれて行きました。
その代表が武家書院、枯山水、茶道ですが、この辺はまた違う件で話していきましょう。
建仁寺を訪れて一番の見所は絵画です。ここでは3つの絵画を紹介しましょう。
国宝の風神雷神図屏風は誰でも一度は目にした事があるでしょう。
養源院の件でも言いましたが、風神雷神図は俵屋宗達と言う人物が描いています。
俵屋宗達は元々、扇や屏風に絵を描く職人だったのですが、次第にその絵が評判になって、公家や寺院などからも依頼を受けるようになります。
中でも本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)と出会った事で、嵯峨本(さがぼん)と言う光悦の歌に宗達の下絵が描かれた本がヒットして、全国に知られるようになりました。
そんな中、京都の豪商で糸屋の打它公軌(うだきんのり)が、1637年に建仁寺派の妙光寺と言うお寺を再興する時に制作させて寄進したと言われます。
そしてその後に、妙光寺の住職だったお坊さんが、建仁寺の最高位である老師になる時に、一緒に持ってきたと言います。
右に青い風神、左に白い雷神が描かれていますが、これは釈迦三尊の文殊菩薩と普賢菩薩に由来しています。
文殊菩薩は青い獅子に、普賢菩薩は白い象に乗っていて、これを風神雷神の肌色にしています。
ですから真ん中の余白の部分には、釈迦如来がいるように描かれているのです。
そして、約100年後に風神雷神図を見た尾形光琳が模写をし、さらに100年後に酒井抱一が光琳の風神雷神図を模写した事で、琳派と言う画派が生まれたのです。
建仁寺にあるのはレプリカで、本物は京都国立博物館にあります。
2つ目が海北友松(かいほうゆうしょう)の龍図です。
海北友松は元々は浅井家家臣の海北家に生まれたのですが、父が亡くなったので東福寺に入り、そこで狩野派の絵を学びました。
しかし、浅井家が滅亡して後継だった兄もなくなったので、還俗して家を継いだのですが、秀吉に絵の才能を見出されて、武士をやめて画派を立ち上げました。
その画業での最高傑作が、建仁寺方丈の50面に及ぶ襖絵で、中でも8面に描かれた雲龍図は日本最大の龍図として知られています。
そして、この海北友松の龍の絵が、後の龍画のスタンダードになったと言われています。龍と言えば海北友松、海北友松と言えば龍と言わしめる物で、この後の龍画は全て海北友松の龍の模写と言っても過言ではないのです。
これも京都国立博物館にあって、建仁寺の物はレプリカですが、その迫力は一見の価値があります。
この方丈(ほうじょう、高位の僧侶の住居)も謂れのある物で、戦国時代のフィクサーとして知られる安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と言うお坊さんが、応仁の乱などで伽藍が焼失していた建仁寺を再興した際に、広島の安国寺から移築した方丈で、1487年の室町期に造られた貴重な方丈建築だそうです。
恵瓊は備中高松城攻めの際に秀吉と毛利方の講和を成し遂げて、秀吉の中国大返しに影響を与えるなど、戦後時代を搔き回した人物です。
関ヶ原で西軍が敗れると、京都で捕らえられて六条河原で斬首されて晒し首にされました。
その首は建仁寺の僧が持ち帰って、方丈の裏に墓を造りました。この墓(首塚)も見る事が出来ます。
3つ目の絵画ですが、それは法堂(はっとう、高僧が説教する所)の天井画です。
2002年の創建800年を記念して、小泉淳作と言う画家が描いた双龍図で、11.4×15.7mの巨大な物で、畳108枚分の大きさだそうで、おそらく日本最大の天井画だと思います。
2匹の阿吽の龍が天を駆ける構図で、非常に見ごたえのある天井画です。
龍は仏法を守護する水神とされ、釈迦の教えを雨が降るがごとく広めるとされます。
寺の一番大事な場所に描く事によって、火災から寺を守ってもらうと言う意味も込められているのです。
また、制作の時には中国明時代の貴重な墨を使って描いたとされています。
ここには貴重な茶室も残されていて、その名を東陽坊(とうようぼう)と言います。
この茶室は、秀吉が北野天満宮で開いた、北野大茶乃湯(きたのおおさのゆ)と言う身分の隔てなしに開かれた茶会の催しの中、千利休の高弟だった天台宗の僧で東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)と言うお坊さんが建てた茶室で、北野大茶乃湯の遺構として非常に貴重な茶室なのです。
草庵風二畳台目の茶室で、初期の利休茶室を彷彿とさせる造りとなっています。
特別拝観とかではなく、いつでも見られるのも嬉しいところです。
他にも見所は多い所なので、一度見に行ってみてください。
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