真如堂

 今日は真如堂(しんにょどう)です。

 あまり聞きなれない所ですが、京都通には人気のあるお寺です。

 春は桜、秋は紅葉で有名なお寺で、本堂と三重塔がアクセントになって非常にいい写真が撮れるスポットでもあります。

 しかも最盛期でも人が少ないのが更に喜ばしいです。


 正式名称は霊聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)と言います。

 通称で真如堂と言い、阿弥陀さんが祀られたお堂の事を真如堂と言うそうです。


 このお寺は比叡山の僧侶、戒筭(かいさん)と言う人が夢を見て、比叡山の常行堂と言うお堂に祀られてあった慈覚大師円仁自刻の阿弥陀如来像を、一条天皇のお母さんである藤原詮子(ふじわらのあきこ、東三条院)の離宮に移したのが始まりと言います。

 離宮のあった場所は今の真如堂のちょっと北辺りです。

 今でも元真如堂と呼ばれる、東向山蓮華院換骨堂(とうこざんれんげいんかんこつどう)と言う尼寺が建っています。昔は真如堂の塔頭だったのですが、今は曹洞宗の寺院になっています。

 その場所が応仁の乱で焼失すると、比叡山や洛中など約8回ほど引越しを繰り返して、1693年に東山天皇の勅願で今の寺領に移ってきました。


 なぜここまで引越しを繰り返して迄、このお寺を残して行ったかと言うと、ここが女人救済の寺だからです。

 本堂に祀られている円仁自刻の阿弥陀像は、ある時円仁が、修行者をお救い下さいと祈ると、プイッと首を横に向けたと言います。

 そこで、女性を中心にお救い下さいと言うと、首を縦に振ったと言います。

 ここから頷きの阿弥陀と名付けられ、女人救済の寺になり、特に女性の参拝者が多く来るようになったのです。

 通常は秘仏で、公開は11月15日




 またここではお十夜(おじゅうや)と言う儀式が始まったお寺としても有名です。

 お十夜とは、室町幕府の8代将軍足利義教(あしかがよしのり)に仕えていた伊勢貞国(いせさだくに、平貞国)と言う武士が、家督を継げないから出家しようと思い立って、真如堂で三日間参籠しました。

 すると夢の中に僧侶が現れて、さらに三日三晩参籠せよと言うので、その通りにすると、兄が謹慎させられて、自分が家督を継ぐ事になったと言います。

 これは阿弥陀様の導きに違いないと思った貞国は、更に7日間参籠して念仏を唱え続けたそうです。

 それを聞いた後花園天皇は良い修法だと言って、十日十夜の方式を定めたと言い、更に次の後土御門天皇が全国にこの修法を広めたと言います。

 この時にお粥が出されるのですが、このお十夜と言うのが訛って、お粥の事をとオジヤと言うようになったと言われます。

 真如堂では毎年11月の5日から15日まで、お十夜を行っています。




 ここにも寺宝が沢山あるのですが、その中でも有名なのが、安倍晴明に関する寺宝が伝わっています。

 安倍晴明が亡くなった時、晴明が持っていた不動明王坐像が、一緒に冥界へ付いて来たそうです。

 不動明王は閻魔大王に、この晴明はまだ現世で活躍できる人間だと言うと、閻魔大王はそれを聞き入れて、結定往生之秘印(けっていおうじょうのひいん)と言う印鑑を授けて、晴明を蘇らせました。


 室町時代になると、子孫の安倍有道が不動明王坐像を安倍家に返却してほしいと言って後花園天皇に願い出て、天皇はそれを許しました。

 不動明王を唐櫃(からびつ)に入れて遷座する途中で、天皇にお見せしようとして唐櫃を開けると不動明王は影も形もなく、調べてみると真如堂に戻っていたのです。

 しかも東向きから北向きになって戻っていたと言い、それ以後は動かす事はなくなったと言います。

 不動明王は11月15日に公開されます。


 安倍晴明蘇生図は7月25日に公開され、参拝者は五芒星に象られた決定往生之秘印を押した紙を頭に当てて加持が受けられます。天寿全う、極楽往生のご利益があるそうです。

 境内にはその縁もあって、陰陽家の土御門家、倉橋家、賀茂家などの墓がたくさん並んでいます。




 そしてお墓と言うと、何とここは三井家の菩提寺にもなっていて、三井家の墓もずらっと並んでいます。

 三井家を豪商にした三井高利(みついたかとし)が自らここを菩提寺にしたかららしいです。

 その理由が、藤原詮子(ふじわらのあきこ、東三条の宮とも言うが、この人が延暦寺から阿弥陀如来像をこの寺に持ってこさせる夢を見た事で、実際に延暦寺の阿弥陀像をこの寺に安置した)の弟、藤原道長の愛妾が桜ノ内侍(さくらのないし)と言う人で、その子孫が三井家に当たるからみたいです。

 平成2年には慰霊碑を建立して、毎年9月に三井グループ総出で法要が行われるそうです。


 高利さんが松坂から京都に来たのが1686年で、8年間京都で過ごして1694年に73で亡くなりました。

 三井と言えば越後屋で、江戸のイメージが強いと思いますが、実は越後屋が出来たのは京都なんです。

 二条通と室町通の角に、三井越後屋京本店記念庭園(みついえちごやほんだなきねんていえん)と言う所があります。

 高利さんは最初、室町蛸薬師に店を構えていましたが、どんどん繁盛して行くので手狭になり、室町二条に移って来たのです。

 明治時代になると三越京都支店になり、昭和58年まで店がありました。

 今は三井不動産が庭園を造って、三井越後屋創業の地として管理しています。

 一般には入る事は出来ませんが、格子から少し中を覗くと神社が建立されているのが見えます。


 更に京都には、三井家が密かに神道儀式を行っていた別邸も残されています。

 旧三井家下鴨別邸(きゅうみついけしもがもべってい)と言う所で、下鴨神社の南側、高野川と賀茂川の合流する三角州の所にある屋敷です。

 呉服商だった三井家は蚕の神様である木嶋神社(このしまじんじゃ、別名蚕ノ社)を信仰していて、ここの神様を勧請して顕名霊社(あきなれいしゃ)と言う神社を建立して、その周りに屋敷を形成します。

 ここでは蚕の神様に色々お願いを立てていたのです。


 戦後になると三井財閥はGHQによって解体され、顕名霊社も東京に移されました。

 残った下鴨別邸は京都家庭裁判所の所長の宿舎として使われ、平成23年に豪商の建築を知る貴重な歴史建造物として重要文化財に指定され、修復工事を経て平成28年10月1日から一般公開されました。

 外観は4階建てに見えますが、3階建てだそうで、一番上に望楼が乗っていてとてもユニークな建物です。

 いつもは1階と庭園が見られますが、3階まで上がれる特別公開の日もあるみたいです。

 三井財閥に関わる資料や三井高利夫妻像なども見られるみたいなので、一度行ってみてはいかがでしょうか。




 また、真如堂は日本で最初の映画が撮影された場所でもあります。

 境内には京都映画誕生の碑が建てられています。

 明治42年(1908)、牧野省三(まきのしょうぞう)と言う日本映画の父と呼ばれる人が、本能寺合戦(ほんのうじかっせん)と言う時代劇を撮影したのが日本映画の最初だと言われています。

 それまでは無声映画と言う物で、声が出ないので、映像と文字を交互に写したり、横で講釈師が語ったりしていました。

 内容は森蘭丸が大活躍するチャンバラ劇で、自分が経営する千本座と言う劇場の役者を使って撮影したようです。

 この翌年から、牧野省三は本格的に監督業をするようになり、尾上松之助を使ってヒット作を連発する事になるのです。


 真如堂では書院の方も、たまに特別公開され、東山を借景にした涅槃の庭など、趣のある庭が見られます。

 秋の紅葉はお薦めなので、一度行ってみてください。

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