高台寺、圓徳院

 今回は高台寺と圓徳院です。

 ここは豊臣秀吉の妻『ねね』さん(おねとも言います)が晩年に過ごした、お寺兼隠居所です。


 この時のねねさんの本名は北政所高台院湖月心尼(きたのまんどころこうだいいんこげつしんに)と言います。

 ですからここに訪れた人は、高台院様と呼んでいました。


 まず高台寺ですが、お寺自体の正式名は鷲峰山高台寿聖禅寺(しゅうほうざんこうだいじゅせいぜんじ)と言う長い名前がついています。

 秀吉が亡くなった後、秀吉の冥福を祈るために建てられたお寺で、境内には秀吉とねねさんを祀る霊廟が建てられています。


 秀吉が亡くなるのが慶長3年(1598)で、この時ねねさんは大阪城にいました。

 翌年には太閤御所(現在は京都新城と呼ぶ)と言う聞きなれない建物に移るのですが、これは今の京都御苑内にある仙洞御所辺りに建っていた建物でした。

 聚楽弟を破却した後、御堂関白藤原道長の邸宅跡を利用して秀吉が造った大邸宅で、堀や櫓も備えてありました。

 ねねさんはここに移って自分の屋敷としました。

 徳川方と豊臣方の仲がぎくしゃくしてくると、家康は堀や櫓をなくして規模を小さくする命令を出しています。

 関ヶ原の後、1603年には後陽成天皇から高台院の号を賜って、翌年辺りから、秀吉の菩提を弔うお寺(菩提寺)を建立すべく、各地を見て回っています。

 そして見つけたのが今の高台寺の土地で、家康の援助で建てる事が出来ました。


 ここで不思議な事が起こっています。

 高台寺が出来る前、ねねさんは秀吉の菩提寺を自分の母が眠るお寺に一度は指定しているのです。

 そのお寺の名前が康徳寺。

 何か気付きませんか?

 寺の名前からして徳川家康の匂いがぷんぷんしますね。

 この後ねねさんは、康徳寺を前身として、高台寺と合併させて高台寺を建立しているのです。

 ですから創建当時の仏殿は康徳寺の仏殿を移築して建てられています。

 康徳寺の文献は全く残されていませんが、何か違和感を覚えるのは筆者だけでしょうか? 


 家康はねねさんに莫大な援助をして庇護しますが、これはおそらく家康の戦略で、豊臣の家臣の反感をはぐらかす目的と、ねねさんの動向を監視する目的があったと言われています。


 高台寺も圓徳院も廃城になった伏見城からほとんど移築して造られました。

 創建当初は9万5000坪の規模を誇っていて、塔頭も数多く存在する大寺院でした。

 今は三つの塔頭と共に建仁寺の末寺となっています。


 何度か火災に遭っているので、創建当時から残っている建物は開山堂、霊屋(おたまや)、茶室である傘亭と時雨亭の4つが残されています。


 開山堂は創建時の開山(最初に住持したお坊さん)である三江紹益と言う臨済宗の僧侶を祀っています。

 この三江紹益は、ねねさんの兄、木下家定の七男が三江紹益に出家している事で縁があり、開山になったと言われています。

 しかもこの建物は、秀吉の御座舟の天井と、ねねさんが乗っていた御所車の天井が使用されている事で有名です。


 霊屋は秀吉とねねさんを祀る建物です。

 中に入ると三つの厨子があって、右に秀吉の木造、左にねねさんの木造があり、真ん中の厨子には秀吉が肌身離さず持っていたと言う10㎝くらいの仏像、大隋求菩薩(だいずいぐぼさつ)が安置されています。

 ねねさんの遺体はねねさんの木造の真下に埋められていると言われ、霊屋自体も秀吉が眠る阿弥陀ヶ峰の山頂と向き合っています。

 秀吉の遺体は方広寺大仏殿の東側にある阿弥陀ヶ峰と言う山の頂上に埋められました。(豊国廟)

 また、霊屋の内陣は高台寺蒔絵(こうだいじまきえ)と言う漆塗りの上に金粉で絵を描く技法で豪華に飾られている事で有名で、蒔絵文化の普及に大きく貢献したと言われます。


 高台寺には茶室が多くある事でも有名です。

 傘亭と時雨亭は伏見城から移築されたものです。

 傘亭は何と千利休が手掛けた(利休好み)と言われていますが、伏見城が出来たのが利休が切腹した後なので今では否定されています。

 天井が傘の様に竹で組まれているのでこの名前がついています。正式名は安閑窟です。


 時雨亭は非常に珍しい二階建ての望楼型になった茶室で、これも利休好みと言われています。

 大坂夏の陣の時、大坂城が炎に包まれているのをこの時雨亭から眺めていたと言われています。

 今でも天気が良ければ、あべのハルカスが見られると思いますよ。双眼鏡が必要かもしれませんが。


 他にも京都の豪商の灰屋紹益ゆかりの茶室が移築されていています。

 遺芳庵と言う茶室で、灰屋紹益がその当時京都で一番だった吉野太夫を娶って暮らした時を偲んで造られた茶室です。

 逆勝手に吉野窓と言う大きな丸窓が特徴的な茶室で、明治41年に京都市上京区にあった灰屋紹益旧邸跡から移築されました。





 塔頭である圓徳院は、ねねさんの終焉のお寺と言われています。

 元々はねねさんの隠居所で、ねねさんが亡くなってから寺に改められました。

 ここの庭は伏見城の北政所化粧御殿の庭をそのまま移築したと言われています。

 また、長谷川等伯の襖絵が明治初期の廃仏毀釈で、大徳寺塔頭三玄院から伝来していています。

 等伯は三玄院の雲母刷り胡粉の桐紋様の唐紙で作られた襖に自分の絵を描きたいと懇願していたのですが、住職は修行の邪魔だと言って断っていました。

 ところが、住職が二か月ほど留守にする事を聞いて、ここぞとばかりに勝手に絵を描いたのです。

 住職は戻った時に立腹しましたが、あまりにも見事な絵なので認めてしまったと言われます。


 圓徳院の横には隣接して「楽市ねね」と言う広場があり、「掌美術館」と言う小さなミュージアムが併設されています。

 高台寺蒔絵の硯箱など高台寺の所蔵品が展示されています。


 月真院と言う塔頭は、幕末に禁裏御陵衛士(きんりごりょうえじ)をしていた伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が屯所を構えていた所で有名です。



 ねねさんは京都の文化芸能にも積極的で、高台寺から八坂神社(その頃は祇園社と言われていた)に至る道に茶屋や料理屋を建てさせたのもねねさんでした。

 そこでは祇園社に仕えていた巫女さんを茶屋などに再雇用させて(巫女さんは若い間しか出来ない)、踊りを見せる茶屋を造って行きました。

 それが現在の京舞(きょうまい)の原点と言われています。



 小堀遠州が手掛けた庭など、綺麗な庭や景色が見られますから一度行ってみてはいかがでしょうか。

 全国に先駆けて庭のライトアップをやりだしたお寺でも有名で、今ではライトアップを通り越してプロジェクションマッピングまで使って演出していますから面白いですよ。

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