南禅寺、南禅院、天授庵、金地院

 今回は南禅寺を紹介します。

 臨済宗の大本山で、正式名称は瑞龍山太平興国南禅禅寺(ずいりゅうざんたいへいこうこくなんぜんぜんじ)と言います。

 起こりは、正応4年(1291)に亀山天皇の離宮禅林寺殿(ぜんりんじどの)を寺院に改修したのが始まりです。

 当時上皇だった亀山天皇は、落飾して法皇になるにあたり、離宮を寺院に改修しようとしたんですが、それを妨げるように妖怪が頻繁に現れるようになりました。

 正体は道智上人と言うお坊さんが妖怪に変化したと言います。

 亀山天皇は各宗派のお坊さんに退治を命じますが、大層な祈祷や儀式を行ってもなかなか退治できずにいました。

 最後に無関普門(むかんふもん)と言う臨済宗のお坊さんが、弟子を数十人連れて一週間ほど、ただ単に禅修行の生活を営んだだけで妖怪が現れなくなりました。

 この事に亀山天皇は大変喜んで、臨済禅の徳の高さを思い知り、禅林寺殿を臨済宗のお寺とする事を決意しました。

 当初は無関普門を開山とし、龍安山禅林寺と言う名前が付けられました。

 1308年に法堂が完成すると、南禅寺に改称されました。


 室町時代1386年には「五山之上」(ござんのじょう)と言う位が付けられます。

 五山と言うのは、京都と鎌倉にある臨済宗の寺院の格付けで、京都は南禅寺、天龍寺、建仁寺、東福寺、万寿寺で、鎌倉は建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の順番になっています。

 この時の将軍足利義満は、自分が建立した相国寺を京都五山の一位に据えようとして、南禅寺を五山之上として、特別に京都五山と鎌倉五山の上に置いて、相国寺を京都五山の一位に置くと言う強引な政策を遂行しました。

 その後、義満が亡くなると相国寺は二位に落とされ、天龍寺が一位になっています。

 昔は五山十刹(ござんじっさつ)と言って、五山の下にも十刹と言う10の寺が格付けされていました。(全部臨済宗の寺)

 明治以降になると京都では妙心寺と大徳寺を合わせて京都七山とする発布もされています。万寿寺は東福寺と併合されていますから、南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、妙心寺、大徳寺の順だと思います。


 江戸時代になると、徳川家康の右腕とも言われた以心崇伝(いしんすうでん)と言うお坊さんが住持になり、それにより応仁の乱で焼けてしまった伽藍を次々復興させていきます。

 以心崇伝は黒衣の宰相とも言われ、様々な法度(法律)の成立に関わっていた人物です。

 特に神社仏閣に関する法度は全て崇伝が編纂したとされ、江戸時代は天海が中心とした日光の輪王寺と、崇伝が中心とした京都の南禅寺で、日本中の神社仏閣を統括していました。

 ゆえに、明治時代に入ると政府から南禅寺の広大な寺領が没収され、今の南禅寺界隈別荘群が形成されて行きました。


 1628年には藤堂高虎により、大坂の陣の戦没者を供養するために三門を建立しています。

 「天下竜門」とも言われて、二階部分には宝冠釈迦如来像と十六羅漢像が祀られています。

 高さは22mと日本ではかなり大きい方の木造門です。

 知恩院三門と東本願寺御影堂門とで京都三大門に数えられます。

 今では三門の周りに楓が多く植わっていますが、明治時代の写真を見てみると松しか植わっていない事が解ります。聞くところによると楓を植えて、参拝者を増やそうとしたらしいです。

 歌舞伎の演目「楼門五三桐」(さんもんごさんのきり、楼門と書いてさんもんと読んでいます)では石川五右衛門が「絶景かな」と言う「南禅寺山門の場」(山門は三門の間違いではない)のシーンが有名ですが、南禅寺の三門は石川五右衛門が釜茹での刑で亡くなってから建立されているので、このエピソードは歌舞伎の創作になります。

 この三門は唯一いつでも楼上に上がれる三門なので、石川五右衛門の気分を味わってみてはいかがでしょうか。


 方丈は国宝指定されていて、大方丈と小方丈に分かれています。

 大方丈は御所の女院御所内にあった御対面御殿を下賜された物と言います。襖絵は狩野元信、永徳の筆とされ非常に貴重な物です。

 小方丈は伏見城からの移築とされ、襖絵は狩野探幽が描いたもので、こちらも貴重な物です。金地に竹林と虎の群れが描かれた物で、特に虎が水を飲んでいる姿が有名です。

 そんな方丈ですが、明治8年(1875)には日本で初めての精神病院(京都府療病院付属癲狂院、てんきょういん)が設立されています。名前が怖いです。

 大方丈の前庭「方丈庭園」は小堀遠州の作とされ「虎の子渡しの庭」とも言われています。江戸時代の枯山水の代表格とされ、6つの石を虎の親子に見立てて河を渡っているさまを捉えています。

 本来、虎の子渡しとは中国の故事の1つで、母虎が3匹の子虎を一匹ずつ口で咥えて河を渡ると言うものです。しかし、子虎の1匹が獰猛(豹の子とする事もある)で、母虎がいなくなると他の子虎を殺してしまうと言う設定になっています。

 そこで母虎は先ず獰猛な子虎を対岸に渡します。そして戻ってもう1匹を対岸に渡し、獰猛な子虎をまた元に戻して、そこで3匹目を咥えて対岸へ渡り、また戻って獰猛な子虎を連れて来る。

 ですから獰猛な子虎じゃなかったら母虎は河を5回渡れば3匹の子虎を渡せますが、獰猛な子虎がいるばっかりに2回多くなると言う事です。

 手のかかる子がいると母親は生計に苦慮するが、そんな子でも愛情を注がないといけないと言う例えです。

 しかし、ここの虎の子渡しの庭は子虎の石がなぜか5つあります。

 これは、虎は自分より強い動物が近付けばすぐに場所を移動する事から、小堀遠州が忖度して、徳川政権になって他の為政者は退散しましたよ、と言う事を現したと言われています。


 また、境内は東山を背にして造営されています。普通は北を上にして伽藍が整えられるのですが、ここは皇族と関係があるお寺なので、正面を御所の方向に向けて建てられたと言われています。


 ここ南禅寺は、湯豆腐発祥の地とされています。

 江戸時代初めに、豆腐をだし汁で煮て食べた精進料理が起源だと言われています。

 その頃はより冷めにくくするために、葛でとろみをつけて食べていたのだそうで、湯奴(ゆやっこ)と言ったらしいです。

 そこから夏に豆腐を冷やして食べるのを冷奴(ひややっこ)と言うようになりました。

 ちなみに、豆腐は納豆と漢字が入れ替わっていると言いますよね。

 本来は煮て擦った大豆を箱に納めて形を整えるのが納豆で、大豆を納豆菌で醗酵させたのが豆腐なのです。

 奈良時代から伝わる白いぷるぷるした納豆の事を、日本では「唐符、とうふ」と書いていました。

 その後、豆を腐らせて作った豆腐が、唐符と日本語発音が同じなので入れ替変わってしまったのです。

 豆腐が一般市民に爆発的に広がったのは江戸時代中期です、石臼を水車で回す技法が普及したおかげで大量生産が可能になりました。(徳川家光が農民に対して豆腐作りを禁止していたと言う記録もあります)

京都では八坂神社の参道にあった中村楼と言う茶店が、店の前で田楽豆腐を炭で焼きながら売ったのが評判になり、豆腐の普及に繋がりました。 

ですから、水が豊富で人が多い京都の地で豆腐が発展して行ったのです。



 そして南禅寺と言えば煉瓦造りの水路閣が有名ですよね。

 お寺の中に近代的な煉瓦造りの巨大建造物があるのは少し違和感があるのですが、今ではそれが良いアクセントになっています。

 この水路閣は琵琶湖疎水分線と言い、水を京都市内の北部に運ぶための施設なのです。インクライン(船を高低差のある所で上げ下げする線路)の上部から東山の傾斜を利用して水を逆流させるために、綿密な計算上で作られています。下鴨の北側にある松ケ崎浄水場まで運ばれ、飲み水として使われています。

 琵琶湖疎水は、天皇が東京に移ってさびれてしまった京都を再興しようとして成された事業で、運河、水車、飲み水として利用する事を目的に造られました。(建造中に水力発電としても利用できる事に気付き、途中から発電も兼ねた事業になった)このおかげで京都に日本で初めて電気鉄道が走る事になります。その上、西陣に電動のシャガード織機が採用され、織物産業の大転換が成されました。



 南禅寺本坊の南側に南禅院と言う塔頭がありますが、元々ここが亀山天皇の離宮があった場所なのです。

 かつては園城寺の別院、最勝院があったので、そこに住持していた道智上人が化けて出たと言う事です。

 今でも亀山天皇の作と伝わる池庭が残されています。京都で唯一の鎌倉時代の庭で、大変貴重な物として名勝指定されています。のちに夢窓疎石も手を加えていて、京都三名庭にも数えられています。(あと2つは天龍寺と苔寺)

 大方丈は国宝で、桃山時代に御所の清涼殿を移築しています。小方丈(国宝)と山門と勅使門は伏見城の遺構だそうです。

 亀山天皇の御廟もここにあります。



 南禅寺三門の南側にあるのが天授庵です。

 15第住持の虎関師錬が開山の大明国師無関普門禅師の廟所として建立した塔頭です。

 応仁の乱で焼失しますが、細川幽斎が再興させ、幽斎の廟所も建立され、以後は細川家の菩提寺になりました。

 今でも総理大臣になった肥後細川家18代当主細川護熙(ほそかわもりひろ)さんが毎年墓参りに訪れています。

 ここはとにかく庭がとっても綺麗です。

 枯山水の庭にモダンな石畳が配され、南禅寺三門を借景として取り入れているので景色にアクセントがあります。楓が地を這うように植わっているので紅葉の時期は見事です。

 また、茶室の松関席は、千利休が造った待庵の写しで、明治時代に福本超雲の邸宅から移されたそうです。

 三島由紀夫の金閣寺と言う小説で、主人公が三門の楼上から天授庵の座敷を見た時、若い士官と着物の女性がエッチをするシーンが書かれている事で有名な所です。

 実際に三門に上がると天授庵の境内が丸見えです。



 総門の手前から南に少し入ると金地院があります。

 ここは徳川家康の参謀として権勢をふるった、以心崇伝が住持した塔頭です。

 崇伝はここに住持した事で、金地院崇伝と呼ばれるようになりました。

 元々は北山にあった別の寺でしたが、崇伝が南禅寺に移築して金地院としました。

 中に入ると、明智門と言う唐門が目に付きます。

 明智光秀が、母の菩提を弔うために金貨千枚を出して大徳寺に建立した物です。それを1870年頃に金地院に移築されました。元々ここには違う門が建っていたのです。伏見城から二条城に移築された唐門を、崇伝が幕府から譲り受けた物が建っていました。その唐門は今は明治政府の手で豊国神社に移築され、国宝指定されています。わざわざ明智門を金地院に移築した意図はわかりません。

 小書院にある茶室「八窓席」(はっそうせき)は京都三名席に数えられている一つです。(大徳寺孤篷庵の忘筌と曼殊院の八窓軒)3つとも小堀遠州が手掛けている物で、窓が多く取り入れられて室内が明るいのが特徴です。八窓席は元々織田有楽斎が手掛けた物らしく、それを遠州が自分好みに改造した物とされています。遠州は綺麗寂(きれいさび)と言われて、侘び寂とは逆に明るい空間や広い空間を基調とし、多人数で茶を楽しむように設計しています。

 方丈前庭の「鶴亀の庭」は特別名勝に指定されている枯山水庭園で、ここも小堀遠州が作庭しました。一番の特徴が、庭の真ん中にある大きな一枚の石畳「遥拝石」と言う物がある事です。実はこの石の向こう側、植木で見えていない所に東照宮が建てられています。遥拝石は東照宮に祀られている家康を拝する祭壇として置かれているのです。

 その東照宮ですが、1628年に造営され、建築設計は小堀遠州です。京都で唯一の権現造だそうです。権現造とは拝殿と一段低い石の間と本殿をくっつけた様式で、拝殿と本殿の高さが同じなのが特徴です。北野天満宮の本殿(八棟造)を手本に造られています。家康の遺髪と念持仏を祀っていて、天井には狩野探幽の鳴龍図が描かれています。実は、日光東照宮が大修造されるまでは、金地院の東照宮が一番大きく豪華だったそうです。


 南禅寺は見所の多いお寺なので一度行ってみてはいかがでしょうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る