南禅寺界隈別荘群②

『南禅寺参道から北の別荘群』


〇碧雲荘(へきうんそう)

 野村財閥二代目の野村徳七が、大正7年(1918)から何年もかけて作り上げた別邸です。

 北村捨次郎が設計した数寄屋造りの建築群に、これまた小川治兵衛の作庭による美しい庭園があり、建物の殆どは2006年に国の重要文化財に指定されています。

 究極の贅を凝らした邸宅で、庭石に奈良の明日香村にあった酒船石遺跡(さかふねいしいせき)の一部を持ってきていると言う荒業を成し遂げています。

 隣には野村徳七が集めた茶器などの所蔵品が見られる、野村美術館も併設されています。

 碧雲荘の所有は当初、旧野村銀行だった大和銀行(だいわぎんこう、現在りそな銀行)が100%所有していましたが、バブル崩壊が大和銀行を直撃し1994年に、大和銀行40%、野村證券40%、東京生命10%、野村殖産10%に振り分けました。(すべて旧野村財閥の会社)

(1995年には大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件で11億ドルもの損失を出している)

 2001年に東京生命が破綻すると、所有分10%を野村殖産に移して野村殖産が20%保有します。

 大和銀行から社名変更したりそな銀行は、2003年に保有分40%を野村證券に渡します。

 現在は野村ホールディングスが80%を保有し、野村殖産が20%を保有しています。

 ちなみに野村美術館は野村殖産が管理しています。

 現在、旧野村財閥の直系の会社は野村殖産だけみたいです。

 この様に、野村グループ自体が経営危機に瀕していたにもかかわらず、碧雲荘がそのままの状態で残っていたのは奇跡でしかないでしょうね。


〇清流亭

 南禅寺の塔頭楞厳院(りょうごんいん)だった所が、1913年に南禅寺界隈の別荘開発を一手に引き受けた実業家の塚本与三次の邸宅を築いたのが始まりです。

 ここも数寄屋大工の北村捨次郎が建物を造り、小川治兵衛が庭を作庭しました。

 特に母屋は表千家の残月亭を模した広間を造り、茶の湯の空間を作っています。

 2010年には重要文化財に指定されています。

 塚本与三次の邸宅のために造ったと言いましたが、他の記事には東郷平八郎が大正天皇御大礼(ごたいれい、天皇即位のための一連の儀式)の際に京都に宿泊するために造られたと書かれているところもあります。

 その時に東郷平八郎が清流亭と名付けたらしいです。

 現在は呉服総合ファッションの大松株式会社が所有しています。

 ここの素晴らしい所は、庭に植わっている数本の枝垂桜が、春になると塀を乗り越えて路地越しに鑑賞できるところです。

 桜の時期はその風景を撮影しようとカメラマンが多く訪れるので有名なところなんです。


〇流響院

 ここも紆余曲折した別荘で、最初はやはり塚本与三次の邸宅で、おそらく北隣の清流亭と同じ敷地になっていたと思います。

 福地庵と言う名前で始まり、北の部分を清流亭として東郷平八郎のために切り離したと思われます。

 そして南の部分を大正14年に三菱財閥の岩崎小弥太に譲渡され、巨陶庵に名前を変えます。

 そして昭和20年にGHQ進駐軍(しんちゅうぐん、アメリカが日本占領時に駐在した軍隊)が接収して大きく改造をしています。

 昭和23年には龍村美術織物と言う会社が取得して、また建物や庭を美しくやり直しました。

 ところが平成17年に新興宗教の真如苑が取得し、平成21年に真澄寺別院流響院と名前を変えました。

 新興宗教の寺院になってしまったんですね。

 真如苑は真言宗から独立した宗派ですが、真言宗系と言いながら華厳経、般若経、法華経、涅槃経を重視すると言う、真言宗系とは思えない宗派です。

 華厳、般若、法華、涅槃は法華経を説法した経典で、密教とは関係がないのです。

 そして本尊も真言系の大日如来ではなく、法華系の釈迦如来を本尊としているのです。

 なんとも不思議な宗派となっています。


〇真々庵(しんしんあん)

 最初は茶人で実業家の染谷寛治の別邸でした。

 それを松下電器の松下幸之助が購入して、現在はパナソニックの迎賓館になっています。

 年間に100組しか見学者を受け入れないと言う所で、小川治兵衛が作庭した庭を松下幸之助と川崎幸次郎と言う人が改造しています。

 独特な庭を作庭していて、杉木立の下の地面に白砂を敷いたり、伊勢神宮の内宮を8分の1のスケールで再現したりしています。

 そして訪れた客を建物の地下に誘導すると、人間国宝の展示室に案内されて、人間国宝の品物を販売すると言うビジネスを展開しているのです。

 訪れるのはお金持ちばかりですから売れるでしょうね。


〇桜鶴苑

 最初は大正6年に美術商山中商会の山中定次郎の邸宅で、看松居と言う名前でした。

 庭は7代目小川治兵衛と武者小路千家12代目木津聿斎宗詮(きずいっさいそうせん、木津聿斎と呼ばれることが多いが、木津宗詮とも呼ばれる)が作庭しています。

 看松居と言うだけあって松が中心の庭になっています。

 2005年からはブライダル会社のワタベウエディングが所有し、結婚式場や懐石料理の料亭として使われています。


〇洛翠

 1909年に実業家の藤田小太郎の邸宅が建てられたのが最初で、作庭はやはり7代目小川治兵衛。

 藤田小太郎は非鉄金属精錬を行う藤田組が始まりで藤田財閥を形成しています。

 庭は藤田が滋賀県で事業を拡大していたこともあり琵琶湖を模した池があります。

 琵琶湖池のくびれた所に切り出した巨大な石で一文字橋を架けているのですが、この橋を架けた時は本物の琵琶湖には琵琶湖大橋がまだ架かっていなかったんです。

 桃山時代の伏見城の門だった不明門(あかずのもん)や、280年前に中国の清から伝来した画仙堂(がせんどう)と言うお堂が建っています。

 画仙堂は京都三仙堂に指定されていて、他に丈山寺詩仙堂、高台寺圓徳院歌仙堂があります。

 1958年に旧郵政省共済組合の保養所となります。

 1987年に洛翠に運営が委託されて一般の宿泊施設として経営されます。

 この時に建物が近代的に改修されてしまいました。

 2007年に郵政民営化で日本郵政共済組合(旧郵政省とは別らしい)の所有となり、2009年に利用率低下を理由に閉館し、日本調剤に売却しています。

 2020年には何と、ユニクロやGUを展開するファーストリテイリングの柳井正が取得し、2021年末から近代的な建物を全て取り壊してしまいました。

 今後、どんな建物を建てるのか知りませんが、風情のある建物を建ててもらいたいですね。


〇怡園(いえん)

 最初は南禅寺塔頭の少林院で、明治4年に島津藤兵衛と言う人が所有し、その後6、7人の手に渡り、昭和3年(1928)に細川家の所有となります。

 おそらく元総理大臣の細川護熙(ほそかわもりひろ)のお父さんである細川家17代当主細川護貞(ほそかわもりさだ)の時代だと思います。

 この時に小川治兵衛の手により、小川治兵衛が最初に無鄰菴で作庭した庭をそのまま模して作庭したと言われます。

 しかもこの怡園庭園が7代目小川治兵衛の最後の作庭だとも言われ、南禅寺界隈で幾つも作庭した最初と最後が同じ形の庭って凄くないですか?

 正に隠れた名所ですよね。

 現在は清流亭と同じ大松(株)が所有しています。


〇順正(じゅんせい)

 現在は湯豆腐の順正で名の知れた店ですが、最初は江戸後期の蘭学者で医学者の新宮凉庭(しんぐうりょうてい)と言う人の医学校である順正書院(じゅんせいしょいん)が前身です。

 凉庭は丹後で漢方医として開業後、長崎の出島の西洋医学の商館医と交流が出来て、医師として商館で働いていた経験を持っています。

 1819年に京都で医者を開業し、1839年に南禅寺参道で順正書院を建てました。

 順正書院はその当時大名や文人墨客の文化サロンの様になっていて、医学の普及や、経済学にも明るかったので諸藩の経済的な指導をするなどしていました。

 庭には当時では珍しかった果樹や薬草が栽培されていました。

 昭和21年(1946)には繊維業の上田堪一郎(うえだかんいちろう)が購入し、庭園に手を加えて灯篭や石門などを配置していて、国の有形文化財に指定されています。

 湯豆腐順正が開業したのは昭和37年(1962)で、順正書院から順正の店名を貰っています。



『永観堂より北の別荘群』


〇和輪庵

 ここは蒲原達弥と言う人の邸宅だった所です。

 残念ながら蒲原達弥がどの様な人かはわかりません。

 庭はやはり七代目小川治兵衛が手掛けていて、南禅寺界隈では珍しく、東山ではなく西側の吉田山にある真如堂や金戒光明寺を借景にしている庭です。

 これは推測ですが西方浄土の思想から西側を借景にしているのかもしれません。

 そして1980年には京セラ(京都セラミック)の稲盛和夫がここを買い取っています。

 現在は京セラの迎賓館と言われ、京セラの宝飾店クレサンベールの催しで、春は桜花展、秋は錦秋展を開催し、各地からVIPを集めて新作の宝飾品を売っていると言う訳です。

 

〇有芳園

 ここは住友家15代目当主である住友友純(すみともともいと)の邸宅として大正9年(1920)年に完成しています。

 住友友純は徳大寺公純(とくだいじきんいと)と言う公家の第6子として生まれ、東山天皇から数えると7世子孫であると言う家柄なのです。

 兄に西園寺家に養子に入った明治の元老西園寺公望(さいおんじきんもち)がいます。

 公純が東京奠都(とうきょうてんと、京都から東京に首都を移動させること、遷都と呼ばないのは一時的な首都移動ですよと京都の人々に言っていたから)に反対した事で、京都大学近くの清風館と言う徳大寺家の別邸に幽閉されてしまいます。(後に西園寺公望の邸宅になる)

 友純はそこで生まれました。

 1865年1月18日に生まれ、この頃の名前は隆麿です。

 ちなみに、ネットの記事を読んでいると清風館は南禅寺界隈別荘群の一部と書かれている記事がありますが、場所は東大路今出川の交差点(百万遍交差点)の西側に位置しているので、南禅寺界隈とは全く関係ありません。

 住友家では明治23年(1890)に、12代住友吉左衛門友親(すみともきちざえもんともちか)と13代住友吉左衛門友忠(ともただ)が相次いで死去すると言うピンチに陥っていました。

 とりあえず12代友親の母である登久が14代を継いで窮地を凌いでいます。

 住友は後継者の選定に奔走し、徳大寺家の友純(徳大寺隆麿)に目を付けます。

 西園寺公望などと話し合いをして入家を許されました。

 明治25年(1892)に友純29歳で住友家の長女満寿19歳との婿として住友登久の養子になりました。

 翌年に住友家15代を継ぎ、徳大寺隆麿から住友吉左衛門友純と改名しました。

 明治28年には早速、住友銀行の開業を成し遂げています。

 友純は特に銀行業に力を入れていたと言われ、政財界の地位を高めるために奔走していたと言われます。

 有芳園の邸内に流れている小川には銅製の橋が架かっていて、住友が所有する別子銅山で取れた銅で作られていると言われます。

 屋根や柵、屋外照明なども銅製の物が多いです。

 作庭はもちろん七代目小川治兵衛。

 有芳園と道を挟んである泉屋博古館(せんおくはっこかん)と言う美術館には、友純とその息子らが収集した中国の古代青銅器や書画、文房具、西洋画、中国画、日本画などが収蔵されています。

 泉屋博古館の泉屋は「いずみや」と言い、江戸時代の住友家の屋号でした。


 この様に南禅寺界隈別荘群は日本の政財界の有名所がそろって別荘を構える所でした。

 ここには本当に主な別荘邸宅しか紹介していないので、他にもまだ紹介しきれていない所も調べてみてはいかがでしょうか。

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