南禅寺界隈別荘群①

 南禅寺の周辺には南禅寺界隈別荘群と言われる、明治時代から続く政財界の別荘が今でも多数残っています。

 いずれも贅を凝らした庭や建物で構成されています。

 別荘開発が始まった切っ掛けは、琵琶湖疎水の事業が発足した時に遡ります。

 まず琵琶湖疎水を造ろうと思ったのは、天皇が京都からいなくなって疲弊していた京都を復興するために、第3代京都府知事の北垣国道が、南禅寺一帯を工業地帯にしようと計画したのが始まりです。

 広大な南禅寺一帯の土地を廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、仏教の勢力を縮小する事)を理由に政府に上智(じょうち、土地を権力者に明け渡す事)させて、近代的な工場を造るために琵琶湖から水を引いて工業用水と水車動力、運搬用の運河、水道水として使おうと思っていました。

 ところが疎水の建設の途中に建設責任者で工学者でもある田辺朔郎が、水力発電所も併設しようと思いついて、計画が変更されました。

 その事で、水車動力の代わりに電気動力が得られる事になり、電線を引けば容易に工場を他のもっと広い場所に移せる事に気付いて、南禅寺一帯の工業地計画はなくなりました。(その後も運河、水力発電、水道水の機能は維持される)

 その代わりにこの一帯を別荘地にしてしまおうと言い出したのが、明治の元老でもある山縣有朋です。

 中でもこの南禅寺は特に多くの土地を没収されました。その理由は南禅寺が徳川方の寺院だったからです。江戸幕府になった時に以心崇伝(いしんすうでん)またの名を金地院崇伝と言う僧侶が仕切っていて、江戸時代の公家関係や寺院関係の法度(はっと、法律の事)を考案した人物なんですが、この人のおかげで南禅寺は全国の寺院を纏める地位に立ちました。これは延暦寺天台宗の最高寺院である日光輪王寺と並ぶ地位です。

 徳川と深い関係にあった寺院ですから、明治新政府に睨まれたと言う事なんです。



『白川通より西にある別荘群』


〇無鄰菴(むりんあん)

 山縣はその先駆けとして南禅寺の参道に無鄰菴と言う別荘を造りました。

 山縣は無鄰菴と言う別荘を生涯に3つも造っています。

 最初は出身地山口県の下関に最初の無鄰菴(第一無鄰菴)を造りました。

 第一無鄰菴はその後、東行庵と言うお寺になり、山縣有朋を開基として高杉晋作の菩提寺となっています。

 無鄰菴として残っているのは茶室のみだそうです。

 そして第二無鄰菴を京都の二条木屋町に造ります。

 ここは元々、高瀬川を開削した角倉了以(すみのくらりょうい)の邸宅だった場所で、今でも鴨川から高瀬川に水を送る水路が庭に残されて、庭の景色として使われています。(今は、がんこ寿司二条苑になっている)

 そして第三無鄰菴として造ったのが、南禅寺参道の無鄰菴です。

 この南禅寺無鄰菴を造る際に起用した庭師が七代目小川治兵衛(ななだいめおがわじへい)と言う人で、南禅寺界隈別荘群の庭の殆どを手掛けるようになりました。

 七代目小川治兵衛は遠州流造庭法の奥義を極めた人らしく、自ら小川流を創始しているほどです。

 その作庭方法は、小川治兵衛だけに?小川の流れや滝組、池を多く使い、守山石と言うミルフィーユの様に層になった石を多く使うのが特徴です。

 小川の流れも琵琶湖疎水があったから出来ている事で、守山石が取れる滋賀県の守山市から琵琶湖と琵琶湖疎水を使って簡単に石を輸送できたのも琵琶湖疎水の賜物と言っていいでしょう。

 無鄰菴では奥から手前に広がる三角形の庭に、一番奥から小川を流して一番手前で広い川を演出しています。これは山縣有朋の生まれ故郷である山口県萩市の地理を模して造られているのです。

 この庭を造ったおかげで小川治兵衛は大人気となり、近隣の庭を次々に作庭する事になっていきました。

 そんな無鄰菴で明治時代に重大な会議が行われていました。

 無鄰菴会議と言うもので、敷地内の洋館で行われた会議には、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、外務大臣小村寿太郎、総理大臣桂太郎の4人が集まり、ロシア帝国の南下政策で朝鮮半島に対する権利を絶対に認めないと言う方針を取り決めたのが、この無鄰菴会議だったのです。

 その後、交渉も虚しく結局、日露戦争に突入してしまいました。


〇白河院、宝庵、法勝寺苑、洛風荘

 白河院は二条通に面する宿泊施設で、大正8年(1919)に平安時代にあった白河天皇所縁の法勝寺の跡地を、呉服商の下村忠兵衛(大丸百貨店の関係者と思われる)が購入して数寄屋建築と庭園を造っています。

 数寄屋建築は建築家の武田五一が造り、庭はやはり小川治兵衛が担当しています。

 今は京都市指定の名勝に指定されて、日本私立学校振興共済事業団私学共済事業の宿泊所となっています。

 その東隣に宝庵と言う邸宅があるのですが、詳細は全く不明です。

 二条通を挟んで南側に法勝寺苑と言う所がありますが、ここも詳細は不明です。

 そして法勝寺苑の西側に洛風荘と言う所があり、ここはNHKの京都保養所になっています。

 見事な庭もある筈ですが、どんな庭かは不明です。

 この辺りは動物園や京セラ美術館(京都市美術館)、国立近代美術館、みやこめっせ(京都市勧業館)、ロームシアター京都(京都会館)、岡崎公園、平安神宮、武道センター(武徳殿)が立ち並ぶエリアで、平安時代は六勝寺と言う法勝寺を筆頭とした六つの寺が並んでいました。

 動物園の観覧車がある所は、平安時代に法勝寺にあった高さ80m以上の八角九重塔が建っていました。観覧車はその基壇に載っているのです。



『南禅寺参道より南の別荘群』


〇對龍山荘(たいりゅうさんそう)

 對龍山荘は明治29年(1896)伊集院兼常が別荘としました。

 その後、明治34年(1901)に市田弥一郎が買い取り、南禅寺の山号瑞龍山に対して對龍山荘と名付けました。

 庭園は伊集院兼常が作庭したものを小川治兵衛が改造しています。

 建物は建築家の島田藤吉が担当し、對龍台と言う大池に張り出した建物が有名です。

 東山を借景とした雄大な景色と田園の風景などを取り入れて様々な見方が楽しめる庭となっています。

 昭和63年(1988)に国の名勝に指定されています。

 今はニトリ会長の似鳥昭雄が買い取っています。


〇何有荘(かいうそう)

 明治38年(1905)に稲畑産業(染料薬品業)の稲畑勝太郎(いなばたかつたろう)が、最初に和楽庵として造営しました。

 稲畑勝太郎は染料で財を成した人物で、明治29年にはフランスのリヨンに留学していた時の友人であるオーギュスト・リュミエールから、リュミエールが発明したシネマトグラフの興行権の契約をし、シネマトグラフ2台と撮影技師を連れて翌年に日本に帰国しました。

 木屋町蛸薬師にあった京都電燈株式会社の庭で試写実験が行われたのが、日本初の映画上映になっています。

 お金を取った映画興行は一月後で、大阪の南地演舞場で初めて映画興行がされました。

 そんな勝太郎が造った何有荘は迎賓館としても利用され、音楽活動の拠点ともなっていました。

 庭は小川治兵衛が作庭し、かなりの落差を利用した滝組が3つも作られて、雄大な庭は小川治兵衛の傑作とされています。

 昭和28年(1953)には宝酒造の大宮庫吉が買い取り、「何か有る様で何も無い、何も無い様で何か有る」と言う禅問答から何有荘と名称を変更されました。

 1991年には宗教法人大日山法華経寺が買い取ったのですが、よくわからないのですが、その後すぐにどこかの社長が居住し、勝手に売却した詐欺事件で社長が逮捕されます。そして整理回収機構が競売を申し立てたのですが、不法行為で登記事項が変更されてしまう事態になり、京都地裁が保全措置のために差し押さえたみたいです。

 2006年に大阪の不動産会社の津多家が26億円で買い取り、何があったかはわかりませんが最高裁判決で津多家が勝訴を勝ち取り、数億円をかけて庭園を再生させたそうです。

 2010年にはクリスティーズから80億で競売にかけられて、IT業界のラリー・エリクソンが落札したそうです。落札額は明らかになっていません。

 エリクソン氏は世界でも五本の指に入る億万長者だそうですが、ネットでブロガーの記事を読んでいると、何有荘の建物や庭が殆ど変えられているグーグルマップの写真が載っていました。

 2020年の段階で建物は全く違う日本風の建物に変わって、池があったところにはトラックらしき物が置いてあります。

 これはもう、唖然とするしかありません。


〇大寧軒(だいねいけん)

 南禅寺塔頭の大寧院が廃寺になって、稲畑勝太郎が所有し、茶室環翠庵にちなんで環翠園と言われていました。

 その後、三越が所有していましたが、2013年に南禅寺が買い取り、大寧軒と名を変えました。

 その庭は小川治兵衛の作ではなく、茶道薮内流の薮内透月斎竹窓紹智(やぶうちとうげつさいちくそうじょうち)の作になります。

 京都では珍しい根府川石と言う石を多く使われているのですが、これは薮内家にある茶室、燕庵(えんなん)でも使われているからだそうです。

 そして目を引くのが流水の中に置かれた三柱鳥居です。三本の柱で作られた石造りの鳥居で、大元は太秦の木島神社(このしまじんじゃ)にある蚕ノ社(かいこのやしろ)にあります。おそらく三越が所有していた事から、三井家が三柱鳥居を立てたと思います。昔は三井の邸宅にも三柱鳥居があったらしいです。

 最近は春と秋にちょくちょく特別公開されています。


〇八千代(やちよ)

 八千代は南禅寺の参道に面する湯豆腐の料亭です。

 安土桃山時代から御所に出入りしていた魚問屋が起源で、秀吉から盛宴を張る時にご用命を受けた事で料亭業をする事になったらしいです。

 第二次世界大戦で店を移す時に南禅寺に移りました。

 その移った先が、江戸後期の俳人、上田秋成(うえだあきなり)の旧邸でした。

 上田秋成は俳人で国学者でもあり、怪異小説の雨月物語を書いた人物です。

 明治期には上田秋成邸も他の所有になっていたと思いますが、庭の青龍庭園は七代目小川治兵衛が作庭したと思われます。

 池の中の飛び石などは小川治兵衛らしいポイントです。

 湯豆腐を食べながら南禅寺界隈別荘群の片鱗を感じられる所でもあるので行って見てはいかがでしょうか。


〇菊水

 正式な店名は南禅寺参道菊水だそうです。

 元々は明治後期に近江商人の外村宇兵衛の邸宅だったみたいです。

 昭和12年に呉服商の寺村助右衛門が所有しています。

 昭和30年に料理人の板前新三(いたまえしんぞう、ややこしいけど板前自体が苗字らしい)が所有し料理旅館菊水を開業しました。

 板前新三はこの当時、京都で三本の指に入る料理人だったそうです。

 2018年に(株)バルビバーニの佐藤裕久氏が所有し建物をフルリノベーションしています。

 2020年には化学メーカーの会長が取得し、1日5組限定で料理を提供しているみたいです。

 その菊水の庭は明治期に小川治兵衛ではなく、鈍穴流花文(どんけつりゅうはなぶん)と言う流派の庭師が作庭しているみたいだと、ブロガーの人が発見したそうです。


〇智水庵

 ここは旧横山家別邸だった所で、実業家の横山隆興(よこやまたかおき)が所有していました。

 横山隆興は元金沢藩士で尾小屋鉱山経営、加州銀行頭取、金沢電気瓦斯取締役を歴任した人物です。

 敷地内部の詳細は不明ですが、小川治兵衛作庭の庭があり、当時の建物も残っていると思われます。

 そして今は何と、前澤友作氏が2018年に20億円で購入しているのです。

 Twitterには智水庵の建物縁側から、東山を借景とした庭をバックに座っている写真が掲載されていました。

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