聖護院

 聖護院と言えば、皆さんは生八つ橋を思い浮かべるかと思いますが、その話は次の回に残しておきましょう。


 聖護院がどんなお寺か知っておられる方は、おそらくほとんどおられないでしょうね。

 実は、修験道の総本山であるのです。

 正式名称は、本山修験宗総本山聖護院門跡(ほんざんしゅげんしゅうそうほんざんしょうごいんもんぜき)と言います。

 門跡と書いてある事から、皇室と関わりがある事が解りますよね。

 特に観光寺と言う訳ではないですが、年に何回かは公開されています。


 1090年に白河上皇が高野山の熊野三社を参拝しに行った時、園城寺(三井寺)の僧侶で、自らも修験者である増誉(ぞうよ)と言うお坊さんが案内役をしたために、上皇はその功を労って増誉さんを全国の修験道を統括する、熊野三山検校職(くまのさんざんけんぎょうしょく)の初代に任ぜられたのです。

 その時にはこの土地に白河院と言う寺が建立されて、増誉さんが初代住職にもなりました。

 平安後期になると覚忠と言うお坊さんが、聖体護持と言う言葉、即ち聖体である白河上皇を守護した寺と言う事から、聖護院と名前が変えられました。


 修験道って何やねん、と言う方もおられるでしょうから、先に説明しましょう。

 修験道の開祖は役小角(えんのおづぬ)と言われています。

 役行者とも言いますが、7世紀後半に大和葛城で生まれていて、賀茂氏の出身だとされています。(父親は出雲からの婿入り)

 ですから、元々は神道系の豪族の生まれなのです。

 17歳で奈良の元興寺に入り、仏教を学びます。

 その後、葛城山で山岳修行を行い、熊野に入って更に修行を重ねて、神道、仏教、道教などを融合した山岳信仰の修験道を確立しました。

 こうした考えは神仏習合と言って、修験者は神も仏も大自然の一部として信仰しているのです。権現信仰(ごんげんしんこう)とも言って、神は仏が変身した姿だとされていました。

 この様な、厳しい修行を主体とする宗教形態は、最澄や空海も取り入れて行く事になります。

 ですから、特に天台宗と真言宗に強い関わりがあって、これらが霊山を形成するのは修験者の存在が大きいのです。

 そんな中、増誉さんが熊野三山検校職を任ぜられたのですが、これは逆に言えば、勢力がどんどん増していく修験道を纏めて、監視しようと言う意図があると思います。

 この時代は優婆塞(うばそく)と言う、放浪する僧侶がうじゃうじゃいました。

 仕事のない男性が僧侶になって托鉢で食べて行こうと言う行動で、そのほとんどが修験者になって行きました。

 朝廷や幕府はこの辺りの人たちも管理しようと躍起でした。

 南北朝時代には、醍醐寺三宝院で当山派と言う派閥が出来て、聖護院の本山派と対立する事になりました。

 江戸時代に入ると1609年に修験道法度と言う法律を作って、一派による独占をなくし、当山派も宗派と認めました。

 明治時代には、1872年に修験道廃止令が下され聖護院の本山派は、天台寺門宗(天台宗でも延暦寺系は山門派と言う)、即ち園城寺(三井寺、こっちが寺門派)の傘下に入り、当山派は真言宗醍醐派に属されました。

 戦後になると本山派の方が戻る事が出来て、本山修験宗を立ち上げる事が出来たのです。(当山派は醍醐寺に属したまま)

 明治時代まではどこでも寺と神社が共存していて、そこには修験者(山伏)の出入りがあったのです。

 最近はまた山伏が増えてきたように思いますけどね。



 聖護院が門跡となるのは平安末期の後白河法皇の時です。

 皇子の静恵法親王(じょうえほっしんのう)が入寺して以来、門跡となりました。

 明治時代までの37代中、25代が皇室出身、12代が摂関家出身であります。

 実は足利義政もここで出家して入寺しています。

 門主にはなっていませんが、豪奢な建物を造って住んでいたのですが、盗賊の放火で全焼してしまいました。

 その時の門主だった准皇后と言う人は丁度、東国巡礼の最中で不在であったため難を逃れました。

 1788年には天明の大火で御所が焼けて、聖護院が光格天皇の仮御所となりました。

 1854年には幕末の動乱で御所が焼けて、孝明天皇が聖護院に入って仮御所としています。

 2回も天皇の仮御所になったのは、この聖護院だけだそうです。

 明治2年(1869)2月3日には、徳川家茂の正室だった和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)が江戸(東京)から帰って来て聖護院に泊まられて、明治天皇と対面しています。すると急遽、翌年の1月25日に父である仁考天皇の墓参りをする事になり、その間は聖護院にいる事になるのですが、なんとこの期間だけ聖護院の名前が栄御殿(さかえごてん)と改名されました。



 聖護院と聞けばもう1つ思い出すのが京野菜の聖護院大根ですね。

 江戸中期に聖護院の近くで農家をしていた伊勢屋利八と言う人が、近江から種を貰って栽培したのが始まりと言われます。

 孝明天皇の宮中大善寮(厨房)を任されていた大藤藤三郎(おおふじとうさぶろう)と言う人は、天皇が気に入る漬物を考えている時に、聖護院大根を見つけました。

 これを薄く切って壬生菜と昆布を添えて皿に盛りました。

 聖護院大根は白砂、壬生菜は松、昆布は庭石をイメージしていると言います。

 これを漬ける時には樽に薄く切った聖護院大根を何枚も敷く事から、千枚漬けと名付けられました。

 今では京都三大漬物の1つになっています。(あと2つはスグキと柴漬け)

 今でも大藤(だいとう)と言う発祥の店が、錦通り麩屋町下がるにあるので行かれてみてはどうでしょうか。

 ただし千枚漬けは冬しか売っていません。



 仮皇居として使われた経過から境内は華麗に設えられていて、貴重な仏像、狩野派の襖絵や毎日整えられる市松模様の白砂の庭など、見所の多い所です。

 孝明天皇が実際に座られた場所も残されているので、一見の価値があります。

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