知恩寺、永観堂

 今回は知恩寺と永観堂。そして浄土思想について解説します。

 知恩寺は、正式名称を長徳山功徳院大本山百萬遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)と言います。

 浄土宗七大本山の一つに数えられています。

 七大本山とは東京の増上寺、京都の金戒光明寺、知恩寺、清浄華院(しょうじょうけいん)、福岡久留米の善道寺、鎌倉の光明寺、長野の善光寺大本願が七大本山と言われています。

 知恩院は総本山なのでこれらの上に立つお寺になります。

 だいたいこれらが鎮西派(ちんぜいは)と言う一つのグループになります。

 そして永観堂のグループが西山派(せいざんは)と言うグループです。

 両方とも過去に教義の論争で派閥として分かれていきました。


 知恩寺は京都大学のすぐ隣にあるお寺で、大きな交差点の東北角にあるのですが、交差点の名前に百万遍とついているのが目立ちます。

 通りがかると誰もが百万遍て何や?……となりますよね。

 鎌倉時代末期の1331年に都で疫病が流行り、このときに善阿空円(ぜんなくうえん)と言う8世住職が、後醍醐天皇の命で宮中に上り七日間に渡って百万回の念仏を唱えることになりました。すると疫病は治まり、後醍醐天皇はその功に応えて、弘法大師筆の利劔名號(りけんみょうごう)と言うおそらく書物だと思う物と百萬遍の寺号と大念珠が贈られました。そして後醍醐天皇は七日間百万遍念仏法と言う修法を定めて、何か災厄があると百万遍念仏を唱えることが慣例となりました。

 そこからこの辺りの地名も百万遍になったのです。

 現在御影堂内に吊るされている1930年作の大念珠は長さが110mで重さが350㎏あるそうで、日本最大の大念珠だそうです。

 4月23日~25日には御忌会百萬遍念仏大念珠繰りと言う法要が行われ、御影堂内で大念珠を大勢の人で順繰り順繰り回していく儀式が見られます。

 珠の数が1080個あり100回繰る事で百万遍が達成されることになります。

 後醍醐天皇から贈られた大念珠も宝物館に保存されています。


 そもそも知恩寺が建つ地は、下鴨神社の境内だった所で神宮堂と言う建物があった場所です。(昔の下鴨神社の境内は広大な敷地でその殆どが森です)

 法然が1175年に比叡山から降りてきたとき、法然自身も賀茂社を崇敬していたことから、宮司の懇願により神宮堂に草庵を営むことになりました。(この頃は神仏習合で神社の境内に神宮寺などと言うお寺を建てるのが当たり前だった)

 ここで法然は念仏道場として布教を行います。

 そして草庵は加茂河原屋や加茂禅房とか加茂の釈迦堂などと呼ばれるようになりました。

 神宮堂には平安初期から慈覚大師円仁作の丈六釈迦如来が安置されていたので、釈迦堂とも言われるのです。

 だからこの頃はまだ浄土宗と言う概念はまだなく、浄土思想と言う立場で阿弥陀信仰を広めていました。

 円仁作の釈迦如来像はおそらく応仁の乱で焼失しているはずです。


 最近では毎月15日に手作り市が開催されます。

 450店以上のブースが並び、多くの人で賑わっています。

 京都三大市にも数えられ、百万遍の手作り市、東寺の弘法市、北野の天神市となっています。

 弘法市と天神市は骨董と手作りが入り混じっていますが、百万遍の市は手作りオンリーです。アクセサリー、お菓子、パン、野菜果物、乾物、漬物、植木、食器、衣服、バッグ、などなど、ここだけで生活用品がほとんど揃うんじゃないでしょうか。

 四条寺町の有名コーヒー店も出店されているので行ってみるのも一興です。




 次は永観堂(えいかんどう)です。

 正式名称が聖衆来迎山無量寿院禅林寺(しょうじゅらいごうさんむりょうじゅいんぜんりんじ)と言います。

 永観堂と言う別称は寺内に永観堂と言うお堂があるからです。

 そして浄土宗西山禅林寺派総本山にもなります。

 先ほども言ったように、鎮西派と西山派と言う二つのグループがあり、西山派の方は三つの総本山から成っています。

 浄土宗西山禅林寺派総本山の永観堂禅林寺(京都市左京区)。西山浄土宗総本山の粟生光明寺(京都府長岡京市)。浄土宗西山深草派総本山の誓願寺(京都市中京区)。

 粟生光明寺は法然の遺骸が荼毘に付されたところですね。

 誓願寺は京都の繁華街新京極にあるお寺で、落語発祥の寺として有名です。


 永観堂はなぜ永観堂と言うのか。

 元々ここは空海の弟子の真紹(しんじょう)と言うお坊さんが、藤原関雄(ふじわらのせきお)と言う公家の山荘を譲り受けて、真言宗の寺を建てたのが始まりです。

 平安時代は簡単に寺を建てることは出来ませんでした。10年後に清和天皇から禅林寺と言う寺名を贈られて始めて寺院として認められたのです。

 そして平安末期1072年に東大寺の別当であり三論宗の僧侶でもある永観(ようかん、僧侶の読みはようかん、お堂の読みはえいかん)と言うお坊さんが入寺して浄土教の念仏道場に変えてしまいました。

 それまでは永観の師匠である深観(じんかん)と言う人が禅林寺の住職でしたが、深観が没すると突然に浄土教に帰依して禅林寺も浄土教の寺にしてしまいました。

 三論宗には浄土思想の教義があり、永観は浄土思想にのめり込む様になるのです。

 この禅林寺の本堂の事を永観堂と言うのですが、本尊は見返り阿弥陀(みかえりあみだ)と言う特殊な仏像で、首を左に向けている仏像なのです。

 元々宮中にあった像だそうで、のちに東大寺の宝蔵に移されていました。

 永観が東大寺別当職を辞める時、白河法皇が衆生救済のためにこの像を持って行けと言いました。永観が像を背負って京都の禅林寺に戻ろうとすると、他の僧が後を追ってきて像を奪おうとしました(なぜ奪おうとしたのかは謎です)。しかし、像は永観の背中からどうしても離れなかったので、僧らは諦めて帰りました。そして禅林寺の本堂に安置して像の周りをぐるぐる廻る行道をしていると、この阿弥陀如来像が須弥壇から下りてきて永観と一緒に行道を始めました。そしてその途中に永観の歩みが遅れると、阿弥陀像が振り返って「永観遅し」と言いました。そして阿弥陀像はその姿のままを止めたと言われます。

 そこからこの寺の通称が永観堂と呼ばれるようになりました。

 なんとも不思議な話ですね。

 その霊験もあって浄土思想は法然が出てくる以前から流行するようになりました。


 また永観堂は「秋は紅葉の永観堂」と言われるほど紅葉で有名なところです。京都で紅葉と言えば永観堂と東福寺の二大巨頭になっているくらいです。

 藤原関雄が住んでいたころから紅葉の名所だったらしく「奥山のいはがきもみぢちりぬべしてる日の光みる時なくて」と言う歌を詠んでいます。

 岩垣もみじと言っているのがタカオカエデと言う品種で、枝ぶりや色合いが最高とされる品種だそうです。

 最近では海外の旅行雑誌のランキングで、世界で一番行ってみたい名所に永観堂が一位になったことがあるくらいです。




 さて、知恩寺も永観堂も浄土宗と言う事で、浄土思想とは何ぞやと言う話です。

 元々は仏教経典の中の阿弥陀経、無量寿経(むりょうじゅきょう)、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の三つを纏めて浄土三部経とされます。

 阿弥陀経は非常に短い経典で、内容もそれほど難しくありません。

 釈迦が阿弥陀如来の住む極楽浄土の素晴らしさを説明しているだけなのです。

 ここで勘違いしてはならない事が、数々の如来には必ず住する浄土が存在すると言う事です。(仏教の世界には如来は無数に存在する)

 例えば釈迦如来なら常寂光浄土(じょうじゃっこうじょうど)で、薬師如来なら瑠璃光浄土(るりこうじょうど)と言うように、必ず如来は浄土と言う仏国土(ぶっこくど)に住んでいるのです。

 全ての浄土が極楽浄土と同じように素晴らしい所なので、極楽浄土だけ特別と言う事はありません。

 無量寿経は阿弥陀如来が如来になったプロセスを説明しています。

 遠い遠い昔、おそらく何千億年と言う昔。遠い遠い国、光の速さでも何億年とかかる国で一人の国王がいて、その国王が世自在王如来のもとで出家して、法蔵菩薩と言う菩薩になりました。

 あるとき法蔵菩薩は他の如来たちの浄土を見せてほしいと世自在王如来に願い出て、世自在王如来の神通力によって数々の浄土を見せてもらいました。

 そして法蔵菩薩は数々の浄土の良い所を選んで発願し、五劫のあいだ物思いにふけって(これを五劫思惟という、一劫はだいたい500年といわれる、この間に髪の毛が伸び放題でアフロヘアーになった)、48の願を立て自分も如来になり最高の浄土を作ると誓った。

 そして十劫と言う時間修行し無量寿仏(阿弥陀如来の別名)となって極楽浄土を作りました。

 と、釈迦が説明しています。そして極楽浄土に行くには阿弥陀の名を一心に唱えれば行くことが出来ると言いました。

 なんで釈迦がこんな説明をしたかと言うと、弟子の一人が「如来ってどうやってなるんですか?」と質問したからで、例え話として阿弥陀如来のエピソードを語ったまでなのです。別に他の如来のエピソードでも良かったのです。

 全ての如来がこの様に厳しい修行で如来になり浄土を形成しているのです。阿弥陀如来の極楽浄土だけが特別なんじゃないのです。

 そもそも浄土往生の思想を言い出したのは釈迦滅後から700年くらい後の龍樹(りゅうじゅ)と言うインドの王子で、死んでからは如来のもとの浄土に行くのが一番ですよと説きました。(釈迦も如来になってるんだから常寂光浄土に行ってもいいんです)

 それが中国や日本に渡ってくる中で、浄土が極楽浄土オンリーみたいな教義に摩り替わっていきます。

 最終的に日本天台宗の恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)と言うお坊さんが985年に往生要集(おうじょうようしゅう)と言う書物を書きました。地獄と極楽を説明した書物です。(この時に地獄と言う概念が日本中を席巻する)

 これがベストセラーになって、極楽浄土こそが真の浄土だ、阿弥陀如来こそが真の如来だ的な思想になります。

 そして、末法思想と言う釈迦滅後1500年で釈迦の法力が無くなると言う思想が流行り、阿弥陀こそがこれからの世を救ってくれる如来なのだと思わされてしまったのです。

 実際、藤原道長は往生要集を読んで、九体の阿弥陀の大仏を作らせて、それに五色の紐を自分の手と阿弥陀の手に結んで亡くなっていきました。

 しかし、釈迦は末法になれば自分の法力が効かなくなるとは言いましたが、その代わりに法華経を信じれば同じ法力を得て必ず悟りを開く事が出来ると説いています。

 思想の歪みって怖いですね。



 ちなみに浄土の反対は穢土(えど)といいます。

 穢土とはこの世の世界(娑婆世界)で、生きて煩悩にまみれる世界を言います。

 ナルトの忍術で穢土転生と言う忍術がありますが、あの世からこの世に魂を転生するから穢土転生と言うのです。

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