36.「正義は勝つ」
月曜日は出社したくない日だった。特に、今日は——。
それは、あの小さな文房具屋の主人に新規融資のお断りと、既に融資している分についての全額返済を迫らねばならない日だったから。
融資が出来ないことは銀行の理屈として客先の経営状況を勘案して、という理由で説明できるとしても、既に融資された分を一括で返せとはどうしても言える理屈は考えつかなかった。
バブルが崩壊した頃、日本中で銀行による「貸し剝がし」が横行したことは自分も知っていた。ただその時は対岸の火事っていうか他人事のように見ていたとこがあって、自分の実家の工場にも「貸し剝がし」があったのかどうかすら知らなかった。
——そうですか……まっ、仕方ないですよね、この決算内容では。期待はしてませんでしたんで、さほどショックはないですよ
文房具屋の店主は小さく肩を落としていたが、表情は意外とサバサバしているのを見て僕は少し肩の荷が下りた気がした。ただ、次の言葉がどうしても出てこない。言い出せない——のだ。
——あの……
——え?
目の前の店主の顔に彫り込まれた深い皺を見ていると、どうしても胸が痛んでしまいその先の言葉を飲み込んでしまった。
——あ、いや、すいません。お役に立てずに……
——いいんですよ、ダメ元でお願いしただけですから
店主の柔和な笑顔が僕には痛々しかった。僕はそれ以上そこには居たくなくなって鞄を抱えるようにしてその場から逃げて来たんだ。
——はぁ? 言えなかった、だと?
——はい……
——それじゃガキの使いと一緒じゃねーか。おまえはどっから給料貰ってんだ、あ? 仕事しろよ、仕事をっ!
僕は、何かプチンと音がしたのを機に加藤課長に食ってかかった。
——では、お聞きしますが、どういう理由でこんな「貸し剝がし」めいたことをお客さんに説明できるんですか? 私にはそんな理不尽な話をできるだけの経験も知恵もないので、教えて頂けませんか? いや、できれば一緒に行って見本を見せて頂けませんでしょうか?
——な、なんだとっ!!
加藤課長は顔を真っ赤に紅潮させて頭の毛が逆立たんばかりに激昂の声を荒げた。
——課長自らご教示頂きたいと、お願いしているのです
僕は正直腰から下の感覚がないほどガクブルとしていたけど、不思議と声だけはすらすらと出て来たのには驚いていた。
それと、僕と課長のやりとりを他の行員も皆が手を止めて注目してくれていたんだ。それは僕の背中に、ガンバレーッ!! もっと言ってやれーっ!!、みたいな視線を感じていたんだ。
——貴様っ!、誰に向かってそんな減らず口叩いてやがんだっ! 十年も二十年も早いんだよっ!
そう言って、加藤課長は机をゲンコツでガンガンと叩いた。僕の心臓はそのたびにドクンドクンと脈打って、息苦しくて立って居られないくらいだった。
八坂先輩は毎日こんな酷い目にあっていたんだと思うと後ろ手に拳をぎゅっと強く握りしめて、加藤課長を睨み返した。
そして、その時———
——加藤くん、いい加減にしたまえ。それは君の仕事だ。新人の行員にやらせるような仕事じゃないだろっ。君が行って説明して来なさい、これは支店長命令だ、いいね?
その声の主は公原支店長だった。
——はぁ? 私が、ですか? 今、そうおっしゃったんですか?
加藤課長は座ったまま横柄な態度で公原支店長に向き直ってわざとらしく耳に手を当ててそう聞き直した。
——そうだ、君にだ
——へぇー。私に行けと、、、ほぉー、そうですか、そうですか
——あ、先週の金曜日に本店に呼ばれてね、君の処遇が決まったよ。稚内の支店に行ってもらうことがね。まっ、その前にその仕事はちゃんと君の責任で片付けて行ってくれよ、頼んだよっ
加藤課長はぽかーんと、口を開けたまま血の気を失った顔で動かなくなった。
他の行員はきっと胸の中で拍手をしているに違いない——僕はそう思いながら、公原支店長が「大岡越前」みたいに見えてきて硬直していた頬が緩んだ。
あとで聞いた話だと、八坂先輩の自殺の原因は加藤課長のパワハラのせいだという密告めいたメールが何通も本店人事に届いていたらしくて、僕はやっぱり「正義」は最後に勝つんだ、って小さくガッツポースとかしちゃったんだ。
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