●全部の始まりの鍵。
遅い晩ごはんの後、風坂先生と麗さんは、あたしを朝綺さんの病室に入れてくれた。風坂先生は切ない顔で微笑んだ。
「笑音さんと瞬一くんの話を聞いたとき、他人事だと思えなかったんだ。大切な人の病気を治すために医学の道に進む瞬一くんは、麗と同じだよ。笑音さんは、ぼくと同じだ。根本的な治療に貢献できない、その力を持たない。笑音さんとぼくは、よく似た悔しさを抱えてる」
麗さんがかぶりを振った。
「違う能力、違う立場から助けてくれる
あたしの胸には、いろんな思いが渦巻いてる。家族のことと、家族のことと、家族のこと。パパの病気を中心に回ってる、あたしの家族のこと。
知りたい。朝綺さんの病状はどんなふうなの? 眠り続けてるのは、どうして? 魂がゲームの中に迷い込んだのは、どうして?
説明してほしい。そして、パパにも同じ治療をして、パパを元気にしてほしい。あたしはパパを死なせたくない。
「教えてもらえませんか?」
声が震えた。あたしは図々しくて自分本位だ。目の前にいる朝綺さんを、まっすぐには心配できない。パパと似た病気を
麗さんはまなざしを強めた。射抜くような目だ。
「わたしが朝綺にしている治療は、正しくないかもしれない。人によっては、禁忌を犯していると言うわ。人間に許される領分を超えている、神の領分に踏み入っている、と。わたしを非難する人も軽蔑する人もいる」
麗さんは笑わない。初めましての挨拶をしたときも、愛想笑いさえしなかった。でも、無表情ってわけじゃない。シャリンさんも笑わなかったけど、それは麗さんの繊細な表情をアバターでは反映し切れなかっただけだ。
あたしは麗さんのまなざしを正面から受け止める。逃げ出すわけにはいかない。あたしは、きちんと知りたい。
「非難も軽蔑しません。話してください。お願いします」
麗さんはうなずいた。スピーカ越しに何度も聞いたため息が、そっと空気を震わせた。
「わたしがしていることは、臨床試験という名の人体実験よ。わたしは万能細胞を使った先端医療を極めつつある。万能細胞ってわかる?」
「体のどの器官にもなれる細胞、ですよね?」
細胞は普通、役割が決まってる。皮膚になる細胞は筋肉になれないし、筋肉になる細胞は髪の毛になれないし、髪の毛になる細胞は遺伝子になれないし、遺伝子になる細胞は皮膚になれない。
ただし、万能細胞は違う。その名のとおり、どんな役割でも担える。皮膚でも筋肉でも髪の毛でも遺伝子でも、指定された部位や器官の細胞へと自在に分化することができる。
自然に生まれる万能細胞は、受精卵だけだ。1つの受精卵は分裂を繰り返して、役割を持つ数十億個の細胞へと分化していく。
麗さんは白い手をギュッとこぶしにして、目の前に掲げた。
「わたしは、この手で万能細胞を作れる。患者の体から取り出した細胞を材料に、患者の体のあらゆる器官に分化しうる万能細胞を作るの」
頭の悪いあたしが万能細胞について知ってるのは、瞬一の影響だ。響告大医学部に医療用万能細胞を完成させた天才がいて、瞬一はその人の下で研究したいと望んでる。麗さんが、瞬一の目指してる人だったんだ。
麗さんは淡々と告げる。
「命の
「でも、麗さん、先端医療の研究は、患者さんやその家族にとっては大きな希望なんですよ。禁忌だなんて」
「宗教のことはわからない。わたしはただ、生きててほしいだけ。朝綺が生きててくれるなら、禁忌を犯すことも怖くない。朝綺を失うことに比べれば、何も怖くはないのよ。わたしは何だってできる」
麗さんの気持ち、あたしも同じだよ。でも、麗さんがうらやましい。「何だってできる」って言葉を実現する能力を、麗さんは持ってるから。
静かな声で、麗さんは続ける。
「朝綺に残された時間は短かった。だから、4年前、わたしは朝綺の体の時間を止めたの。
「朝綺さんは、ただ眠ってたわけじゃなかったんですね」
「冷凍状態で眠っていたの。わたしが万能細胞による治療を完成させるまでの4年間、病状の進まない、年を取らない状態で。朝綺が生まれてから今日まで、27年が経過してるわ。眠っていた歳月を差し引けば、23歳。わたしと同い年。これがわたしの2つ目の禁忌」
6年前に麗さんは朝綺さんと出会って、朝綺さんの病状が進んでいくのを目の当たりにした。体が動かなくなっていく。日常生活には風坂先生の手助けが必要だった。でも、朝綺さんの意識は明白で、頭脳は明晰だった。
きっと2人で決めたことだ。禁忌を犯してでも生きる道を採ろう、って。
4年前、
そして4年間、麗さんは研究に没頭した。万能細胞を使った医療技術が、実践レベルにこぎ着けた。
「つい数日前、朝綺を解凍した。瀕死ともいえる病状だけど、生きていた。すぐに手術したわ。筋ジストロフィーの要因となる遺伝子と衰えた筋肉、その両方を、朝綺自身の万能細胞で補った。手術は成功した。肉体は癒え始めてる。でも、意識が戻らなかった」
麗さんは自分の体を抱きしめた。その肩をぽんと叩いて、風坂先生は、麗さんをかばうみたいに言葉を引き継いだ。
「朝綺の脳波を解析するために、麗のPCを使ってたんだ。6年前から継続して、ずっとね。ほとんど朝綺の脳波用のPCだった。でも、1つだけ、まったく無関係のソフトが入っていた」
「もしかして、そのソフトがピアズなんですか?」
「そういうこと。朝綺は、自分で作るくらいゲームが好きだから、病床で動けなくなっても、ピアズを観たがっていた。麗は、朝綺のそばにあるそのPCからピアズにログインして、コロシアムでの無敗記録を打ち立てたりしてね、朝綺を喜ばせていた」
普通なんだ、って思った。退屈しのぎのためにゲームを観たいって、朝綺さんのリクエストはすごく普通の感覚だ。
「朝綺さんはピアズが好きすぎて、入り込んだんですね?」
「そうらしい。朝綺の意識が戻らなくて、絶望してたんだ。でも、この6年間、さわってもいなかったピアズが、いきなり起動した。朝綺の仕業としか思えなくて、ぼくと麗で、急いでログインして調査を始めた。それが、あのときの雪山だよ」
医療現場からいなくなった朝綺さんの意識を、あたしが魂と呼んだ。朝綺さんの魂を探して旅をして、あたしたちはもうすぐ手に触れられそうなところに来てる。
「朝綺さんの魂とラフさんのアバターを結びつけたら、普通の状態になるんですよね? 現実に体を持ってて、意識はピアズにログインして集中してる。そんな状態だと、朝綺さんの体と意識が、ちゃんと認識してくれるんですよね?」
麗さんが顔を上げた。大きな両目に涙が光ってる。
「確証はない。でも、わたしは信じてる。ラフとしてピアズにログインしている、という状況を自覚できれば、朝綺の意識と体はきっともとに戻る」
麗さんはメイクしてない。目の下には隈があって、体はやせすぎだと思う。でも、こんなにきれいな人、あたしは初めて見た。
「最後までお手伝いさせてください。あたし、ほんとレベルも低いけど、朝綺さんのことを助けたいです」
パパに似た病気で、命を賭けた「挑戦」をしてる人だ。助けたいって、心からそう思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます