第7章:笑音 - Emine -

●雨と迷子の帰り道。

 初生がしゃべってくれなくなった。朝、バス停で待ってても、初生は来ない。声を掛けても、聞こえないふりをされる。近付こうとしたら避けられる。


 クラスメイトにもバレた。


「笑音、遠野さんとケンカしてるの?」

「んー、まあ、ケンカではないと思うけど」


「あの態度はありえないよね。暗いっていうか、さすがにウザいっていうか」

「いやぁ、でも、悪いのはあたしだし」

「笑音、ああいう子は甘やかしちゃダメだよ。すぐ図に乗るんだから」


 笑ってごまかしながら、思い出した。この子、初生と同じ中学だった。わざと初生に聞こえる声でこんなこと言ってる。


 やめてよって止めればよかった。へらへら笑ってるだけじゃなくて。初生が傷付くから悪く言わないでって、ハッキリ伝えればよかった。


 それができなかったのは、どうしてだろ? 初生なんか傷付けばいいって、あたし、心のどこかで思ってたのかな?


 だってね、初生。避けられてたら、あたしだってつらいよ。悪いのはあたしってことはわかってる。ちゃんと怒りをぶつけてくれたら受け止めるのに。


「なんで黙って避けるの? どうすればいいかわからないよ」


 帰り道。とぼとぼ歩きながら、ため息と同時に足が止まる。秋風が湿ってる。気温が低い。


 屋外の歩道から、ガラスケースに入った車道を見やる。走っていくバスの後ろ姿には、響告大学附属病院、と行き先が書かれている。


 ママは、今晩は病院に泊まるって言ってた。あたしは家には帰れない。瞬一と2人になんて、なれるわけがない。


 この数日、瞬一は徹底的にあたしを避けてる。家を空けがちなママでさえ気付くぐらい、徹底的に。


 昨日、もう限界だった。晩ごはんを食べてママが病院に戻った後、あたしは瞬一とケンカした。あたしが怒鳴って、瞬一も声を荒げた。


「これ以上、おれの精神を掻き回すなよ!」


 勉強机を殴りつけた、こぶしの形。初めて、瞬一が男であることをハッキリ感じた。男である瞬一を怖いと思った。


 帰り道がわからない迷子になった気分だ。足が進んでいかない。


 ぽつっ。


 おでこに水滴が当たった。空を見上げる。灰色の雲が、くしゃりと崩れ始める。


「雨……」


 びしょ濡れになっちゃおうか。空に向かって笑顔をつくる。もっと降ってきてよ。ぐしょぐしょになるくらいがちょうどいい。みじめっぽくてバカっぽくて、あたしらしい。


 どこか遠くへ行っちゃいたい。消えたなくなりたい。だって、教室にあたしがいるだけで、初生はさらに傷付く。家であたしと過ごしてたら、瞬一はまた苦しむ。


 悲しくなる。どうしようもなくバカな自分が、もうイヤだ。


「嫌いだよ」


 調子に乗って、失敗ばっかり。笑顔が取り柄とか言いながら、そんなのは嘘。うまく笑えない、弱い自分が嫌い。


 本物の笑顔に憧れる。パパの笑顔みたいな。風坂先生の笑顔みたいな。悲しくてもちゃんと笑ってる人の強さに憧れる。


 雨が冷たい。目を閉じてみる。泣きそうで、呼吸が苦しくて、口を開ける。味のしない水が口に入ってくる。髪が濡れ始める。


 雨の匂い。ひんやりした雨音。今日は寒い。


 不意に、声が聞こえた。


「甲斐さん……笑音さん?」


 雨音のヴェールを通り抜けるしなやかな声に、あたしはハッとして振り返った。


「風坂先生……」


 緑色の傘を差した風坂先生が立っていた。ビックリしたような顔だ。それもそっか。教え子がバカみたいにびしょ濡れになってるんだから。


 風坂先生が黙ったまま動いた。あれ? と思ったときには、あたしは傘の中にいた。緑色に陰った傘の内側で、風坂先生が微笑んだ。


「どこかまで送ろうか?」


 男物の傘は大きい。それでも、2人で入るには小さい。風坂先生との距離が近すぎる。


「え……あ、えと……」

「ずいぶん濡れてるね」


 風坂先生が、パーカーのポケットからタオルハンカチを出した。先生は実習を担当してるから、いつも動きやすい格好をしてる。スーツとか見てみたいなって、ぼんやり思った。


 ふわっとしてごわっとした布地が、あたしのほっぺたに触れた。風坂先生の手がタオルハンカチ越しに、あたしのほっぺたを包んでる。


「使って」

「……すみません」

「笑音さん、たまに雨に打たれたくなる気持ちもわかるけどね。体を壊したら、元も子もないよ」


 優しさをもらうと泣きたくなるのは、どうしてだろう? あたしが優しくされる価値のない人間だから? うん、きっとそう。もったいないって思っちゃうんだ。


「先生、大丈夫です。あたしは1人で大丈夫です」


 風坂先生はかぶりを振った。タオルハンカチがあたしの髪とおでこを拭った。ほっぺたと目元を拭った。


「教師ではないぼくだと、頼りないかな? ぼくでも話を聞くことくらいはできるよ。大丈夫だなんて嘘をつかないで」


 やめてほしかった。


 あたしは誰の前でも笑っていたい。笑えないときは、誰とも一緒にいたくない。なのに、風坂先生の笑顔が優しいから、おかしくなる。


 すがりたい。甘えたい。話したい。打ち明けたい。


 泣きたい。


 そうだ、泣きたいんだ。気付いたら、もう涙が止まらなくなった。強まっていく雨音を聞きながら、あたしは泣いている。


 この涙の意味は何なんだろう? 何が悲しいの?

 イヤだよ。泣くなんて、みじめなだけじゃん。


 だけど、どうしようもないんだ。泣くことしかできない。

 弱いなぁ。痛みや苦しみから顔を背けるばっかりで。


 泣きたくて泣きたくて泣きたい。涙が止まらない。


 風坂先生はタオルハンカチで、あたしの目元を拭ってくれる。泣き顔を見られている。恥ずかしさは涙と一緒に流れて、とっくに消えた。


 ずっと泣いていた。傘の中で、寒かった。

 どれだけ時間が流れただろう?


 目元がひりひりしない。こすらないせいだ。


 タオルハンカチでそっと押さえて、肌から水分を拭う。丁寧で繊細な手付きは、風坂先生がプロだから。毎日、利用者さんにしてあげる作業だ。


 それに気付いたとき、ふっと、あたしは現実に戻った。


「……もう大丈夫です」

「そう」

「ご迷惑、おかけしました」


 風坂先生が、ぽんぽんと、あたしの頭を叩いた。


「迷惑じゃなくて、心配。どうしようもなく苦しいときは、笑わずに泣いていいんだよ」

「でも、風坂先生はいつも笑ってて……」

「ぼくはとっくに大人だから。強がって生きていこうって、ずいぶん昔に選んだから。笑音さんは、まだ迷ったり泣いたりしていい」


 見透かされてる気がした。風坂先生は何でもわかってる。また涙が出そうになって、あたしは大きくまばたきした。


「そ、そうだ、先生。初生は、小テスト、パスしました?」

「テストは問題なかったよ。だけど、やっぱり元気なかったね」


「もう仲直りできないかもしれないです」

「そんなことないと思うけど」


「できないです。だって、あたし、初生が悪口言われてるのを止めなかった。怒らなきゃいけなかったのに、黙ってた。友達失格なんです、あたし」


 風坂先生の笑顔は、困ったなぁと言うみたいに眉尻が下がっていた。度の強いメガネに、細かい雨粒がくっついてる。


 少し、沈黙。それから、風坂先生があたしに尋ねた。


「笑音さん、家はどっちの方角?」


 答えられない。あたしは今日、家に帰れない。瞬一と2人になれない。あたしはとっさに嘘を言った。


「今日は学校から直接、病院に行くことになってるんです。響告大の附属病院に」

「病院? どこか悪くしてるの?」

「いえ、パ……父が入院してるんです。母が付きっきりで大変そうだし、たまにあたしも手伝いに行くことにしてて」


 口に出すうちに、本当に病院に泊まろうって気になった。パパの顔を見たい。検査でバタバタしてなかったら、話を聞いてもらおうかな。


「じゃあ、病院の近くまで一緒に行こうか? ぼくの家、響告市にあるんだ。響告大の近くにね。だから、病院は帰り道だよ」


 風坂先生はゆっくり歩き出した。あたしも慌てて足を動かし始める。状況が今いち呑み込めない。だって、これ、風坂先生と相合い傘だよ?


 普段なら跳びはねるんだけどな。今はダメだ。無理だ。弱ってる。


 胸にしまい込んでる笑顔の理由が、ぽろぽろ、こぼれていく。


「父は、検査入院なんです。検査っていうか、正確にはデータ提供のため。響告大附属病院は研究機関でもあるでしょう? 響告大の医学部と連携が強くて、世界的にも有名な博士がいたりして」


「うん。ぼくの利用者さんも入院してるから、よく知ってる」

「父の病気、ALSなんです」


 風坂先生が息を呑んだ。


「ALS……きんしゅくせいそくさくこうしょうか。脳の司令を筋肉に伝える運動ニューロンがおかされる病気だね」

「風坂先生は、この病気、ご存じですよね」


 例えば、あたしが誰かに手をつねられるとする。痛いと感じるのは、知覚神経の仕事。痛いから手を引っ込めろと指示を出すのは、脳の仕事。脳の指示を腕の筋肉に伝えるのは、運動ニューロンの仕事。


 運動ニューロンは、神経細胞の一種だ。ALSは、運動ニューロンの働きを阻害する病気だ。


 ALSにおかされた患者の運動ニューロンは、脳の指示を伝えない。つまり、患者の筋肉は使いものにならない。病んだ運動ニューロンは、その数自体をどんどん減らしていく。


 風坂先生は淡々と言った。


「病気が進むにつれて、筋肉が動かなくなっていく。手足が動かなくなる。表情筋さえ動かなくなる。食べ物を飲み込むことも呼吸をすることも難しくなっていく。完治させる方法は、まだ編み出されていない」


 あたしは足下を見ながら歩いた。風坂先生、きっと苦しそうな顔をしてる。声でわかる。あたしが風坂先生にそんな顔をさせるなんて、申し訳ない。


「父は、闘病じゃなくて『挑戦』って言うんです。世界で初めてALSを完治するんだって。だけど、どんなに元気なことを言ってても、歩くと転ぶんです。お箸、もう使えないんです」


 パパの症状はだんだん進んでる。


 字を書くのが難しくなった。リハビリで書く文字は、そろそろもう本当に読めない。服のボタンを留められなくなった。だから、ママが着替えを手伝ってる。


 こうやって1つずつできなくなってくんだ。


 膝当てと肘当てを付けて病院まで歩いたり、血圧を測りながらトランプで遊んだり、もうすぐできなくなってしまう。


 読み聞かせをしてくれてた優しい声さえ、いずれ出せなくなる。笑顔も呼吸も、食べ物を飲み込むこともできなくなる。自力で生きることができなくなる。


「あたしは少しでもパパの『挑戦』を手伝いたくて、だから看護師になりたい。パパが生きてるうちに。時間がどれだけあるかわからない。怖いです」


 風坂先生がうなずく気配があった。


「今日、瞬一くんとも話をしたんだ。同じ話を聞かせてくれた。育ての父の『挑戦』を成功させるために、先端医療の研究を志しているんだね」


 ALS患者の運動ニューロンは機能を失いながら減っていく。治療するためには、健康な運動ニューロンを補う必要がある。


 瞬一が目指してるのは「万能細胞」の研究。万能細胞は、体のどの器官にもなることができる。神経にも筋肉にもなれる。


 パパの細胞を採取して培養して、万能細胞を作る。その万能細胞から、健康な運動ニューロンを作る。健康な運動ニューロンをパパの体に移植する。もとが自分の細胞だから、移植の拒否反応は出ない。


 瞬一が目指しているのは、そういう治療をおこなうお医者さんだ。


「ALSじゃない別の難病では、万能細胞を使った新しい形の治療がもう始まってるんでしょう?」

「うん。実験って呼ばれるような段階だけどね」

「実験、ですか?」


「もちろん患者も合意の上だよ。自分にはまだやりたいことがある、死ぬくらいなら人体実験の素材にもなってやる、って。その実験に、ぼくの妹が関わってる」


 風坂先生は雨の中でささやく。それでも、その声はハッキリと通る。悲しみと切なさを秘めた、柔らかい声。


 理由はないけど、わかった。人体実験だなんて痛々しい言葉を使ったその患者さんは、きっと風坂先生にとって大切な人だ。

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