第11章:笑音 - Emine -

●朝焼けが綺麗です!

 早朝の研究所はひとけがない。足音が響く。


 走る風坂先生の背中を、あたしは必死で追い掛けた。足が長い風坂先生は走るのも速い。置いていかれたけど、目的地の場所は覚えてる。息も絶え絶えに、それでも走る。


 あたしは朝綺さんの部屋に駆け込んだ。ちょうどその瞬間、風坂先生が白い遮光カーテンを、さっと開けた。


 鮮やかな朱色の空。朝の太陽が放つ光は、黄金色な透明。息を切らしながら、目を奪われた。朝焼けがあまりに綺麗すぎて。


 風坂先生が朝日を浴びて振り返る。半分シルエットになった顔は、微笑んだ影のほっぺたに涙が光ってる。


「まぶしいだろ、朝綺?」


 優しい声は震えながら、親友の名前を呼んだ。


 朝綺さんを覆っていたガラスケースは取り外されていた。麗さんが、そっと朝綺さんの髪を撫でた。


 あたしは1歩、横たわる朝綺さんに近付いた。朝綺さんはまぶしそうにまぶたを閉じて、また薄く開く。そのたびに、長いまつげがキラキラする。かすかに、ほんのかすかに、朝綺さんの唇が動いた。


 キ・レ・イ・だ。


 潤んだ目に表情が浮かんでいる。カッコいい人なんだって、初めて、ちゃんとわかった。麗さんとは美男美女でお似合いだ。


 数本の管が朝綺さんの腕や胴体につながってる。ベッドサイドにはいくつかの計器があって、朝綺さんの体調がモニタリングされてる。


 朝綺さんの血圧も脈拍も呼吸数も、衰弱気味ではあるけど、正常っていっていい。ナースの授業で波形の見方は習った。


 生きてるんだ。魂を取り戻したんだ。


 風坂先生が朝綺さんのベッドに寄って、麗さんに尋ねた。


「上体を起こすのは、まだ危険かな?」

「布団から浮かせる程度にしておいて。三半規管がついていけなくて、めまいを起こすと思う」


 麗さんは冷静だった。大人だな。あたしだったら、相手は寝付いて弱った体なのに、抑え切れずに抱き付いてしまう。麗さんだって、ほんとはそうしたいのかもしれないけど。


 風坂先生は床に膝を突いて、朝綺さんの首の後ろに腕を差し入れた。朝綺さんの肩を抱くように、少しだけ上体を起こす。


「今が西暦何年か、教えてやろうか? 2058年だよ。朝綺が冷凍保管コールドスリープに入って4年後。約束どおり、麗が朝綺を目覚めさせたんだ」


 朝綺さんは目を閉じて、ちょっと眉をひそめていた。めまいがしたのかな? ゆっくりと、再びまぶたを開く。まなざしが揺れて、麗さんを見つめた。唇が、今度はハッキリと動いた。


 あ・り・が・と・う、う・ら・ら。


 吐息が麗さんを呼ぶのがわかった。繰り返し呼んでいる。う・ら・ら、う・ら・ら。麗さんが口元を手で覆った。喉の奥が、きゅうっと頼りなく鳴った。


「バカ……!」


 つぶやいた麗さんが、声を上げて泣き出した。朝綺さんのやせた手のひらに顔を押し付けて、白い床に座り込んで、小さな女の子みたいに。


 朝綺さんと出会ってからの6年間。麗さんが一生懸命に過ごしてきた時間。その苦しみ、喜び、悲しみ、楽しさ、何もかもを、止まらない涙が証明してる。


 朝綺さんが、泣きじゃくる麗さんを見つめてる。まばたきの内側に、もどかしそうな色がある。あたしの体が、導かれるみたいに動いた。


「麗さん……麗さんは、ステキです」


 あたしは麗さんのそばにしゃがみ込んだ。背中をさすってあげる。朝綺さんが動けない代わりに、あたしが。


 朝綺さんを見上げると、うなずくようにまばたきをしてくれた。あたしは、もらい泣きしそうな顔で無理やり微笑んだ。


「初めまして、朝綺さん。あたし、甲斐笑音です。ピアズでは、ラフさんの仲間ピアになってます。そっちはルラって名前です。ラフさんの馬鹿力、いつも頼りにしてました」


 朝綺さんの乾いた唇がかすかに動く。


 し・っ・て・る。


 そうなんだ。魂の姿でピアズの中をただよってたこと、朝綺さんは覚えてるんだね。夢を見てた感じなのかな? 話、聞いてみたい。


 風坂先生がメガネを外して、その手で両目の涙を拭った。切れ長な目尻に、カラスの足跡形の笑いじわ。あたしの大好きな笑顔がいつも以上にステキだ。悲しみがにじんでいた笑顔は今、本当に輝いている。


「笑音さん、ぼくは昨日、間違ったことを教えたね。ヘルパーは『できなくなっていく』人間を見守る仕事だ、って。違うよね。朝綺にはこれから、できるようになってもらわないといけない。リハビリ頑張れよ、朝綺。ぼくは容赦しないからな」


 朝綺さんが吐息で笑った。


 バ・ァ・カ。


 朝綺さんの病気、筋ジストロフィーは、不治の病と言われてきた。筋ジストロフィーの患者さんのお世話をすることは、死と向き合うことだった。患者さんの能力の喪失を目撃することだった。


 絶望を希望に変えたのは麗さんと、麗さんが一途に挑み続けた医療技術だ。ここから新しい未来が始まっていく。


 バタバタと、いくつもの足音が聞こえた。何人もの誰かが研究棟の廊下を走ってくる。ぷしゅっと音を立ててドアが開いた。振り返ると、白衣の人たちが息を切らして立っていた。


「か、風坂准教授、何か、あったのですかっ!? 遠隔の計器に、突然、異常な数値がっ!」


 准教授と呼ばれた麗さんが泣き止むより早く、風坂先生が笑顔で口を開くより先に、白衣の皆さんは事情を察して雄たけびを上げた。


「お、おおぉぉーっ!」

「患者の意識が戻ってるーっ!」

「准教授、やりましたねーっ!」


 万歳したり踊り出したり、麗さんの部下さんたちはにぎやかだ。よかった。麗さん、仲間がいたんだ。一緒に働いて一緒に喜んでくれる人たち。


 きっと麗さんはこれからまた大変になるよね。先端医療の研究って意味でも、恋人の看病って意味でも。


 麗さんが顔を上げた。笑顔だった。


「ありがと、笑音」


 見とれちゃうくらい、麗さんの笑顔はキレイでかわいくて、あたしは思わずギュッとハグした。


「ほんとステキです! 麗さん最高!」


 麗さんはあたしの腕の中で、一瞬、体を硬くした。すぐに力が抜ける。あたしの背中に、麗さんの腕が回った。麗さんもあたしをギュッとしてくれた。


 風坂先生が笑いながら、あたしたちをからかった。


「女の子同士の友情って、かわいい絵になるね。でも笑音さん、麗にあんまりくっつくと、朝綺が焼きもちを妬くよ? こいつ、動けないんだから」


 朝綺さん、また「バ・ァ・カ」って、ささやいたかな? 遠慮なく憎まれ口を叩く姿を、早く見てみたい。

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