●最低で最悪のバカ。

 昼休みが終わりそうなころ、あたしと初生は屋上庭園を後にした。更衣室で体操服に着替える。


「よぉっし、頑張るぞ!」


 次は風坂先生の授業! 初生には悪いけど、今はテンション上げさせてもらいます!


 初生の手を引っ張って、るらるら歌いながら廊下の角を曲がる。その途端、向こうから来た人とぶつかりかけた。


「うぎゃっ。危ないなー。右側通行がルールだよ?」


 相手の顔を見て足が止まる。固まったのは、相手も同じ。


「うるさいな」


 瞬一だった。あたしを見て、初生を見て、あからさまに目をそらす。横顔が他人みたいに見えた。


 あたしは初生の手をキュッと握った。


「瞬一、今の態度は失礼でしょ? いつまで避けるつもり? あたしは瞬一の姉みたいなものだから、あんたのそういう態度も許せるけどさ、初生に対してそれはないんじゃない?」


 さすがのあたしも、ちょっとまじめに怒っちゃうよ。いい加減にしてほしい。


 瞬一はそのまま行ってしまおうとした。あたしは瞬一の腕をつかんだ。硬いんだ、男の子の腕って。その腕がビクッとした。


「な、何すんだよ?」

「逃げないでってば」


 初生の手が震えてる。瞬一があたしの手を振り払った。


「この間の話、答えろってのか?」

「返事するって言ったのは、瞬一でしょ?」


 初生が、か細い声をあげた。


「えみちゃん、でも……」


 初生が声を呑み込んだのは、瞬一がこっちを向いたからだ。あたしでさえ、ハッとした。瞬一の両目は静かで薄暗くて、だけどひどく熱い。


「いろいろ考えてはみたよ。でも、やっぱり、自分の気持ちは曲げられない。嘘をついても、遠野さんに失礼だ」

「瞬一、それって……」


「ごめん、遠野さん。おれ、遠野さんとは付き合えない。ほかに好きな人がいるから」


 不意に、初生が腕を振った。乱暴な仕草だった。初生の手はあたしの手から離れていった。


 初生は、キッパリと顔を上げていた。唇は震えていた。


「わかってた。甲斐くんの気持ちは知ってた。わからないはずないよ。ずっと隣にいたわたしが、気付かないわけない」

「わかってたって? 初生、何のこと?」


「わかってないのは、えみちゃんだけ。誰も何も言わなければよかった。知らんぷりのままがよかった。壊れずに済んだのに」


 初生の声は震えながらも落ち着いている。覚悟というより、絶望してるみたいに聞こえた。


 瞬一が、もう1回、ごめんって言った。


「聞いてないふりすればよかった。だけど、黙ってられなかったんだ。こいつがバカすぎて」


 こいつっていう瞬一の独特の言い方は、あたしを指すときの。


「あたしが、何でバカ?」

「こんだけ状況わかってなかったら、バカだろ?」

「はい?」


 瞬一は吐き捨てた。


「おれが好きなのは、笑音だ。だから、遠野さんとは付き合えない」


 何を言われたのか、わからなかった。頭も体も固まって、息が止まった。


 初生の声が聞こえた。歪んだ声だった。


「えみちゃん、ほんとに、わかってなかったの?」


 泣いてるようにも笑ってるようにも聞こえた。


 瞬一が立ち去っていく。足音。後ろ姿。あたしの頭を揺さぶる残響。叩き付けられた言葉。


 あたしは立ち尽くしてる。


 初生があたしに背中を向ける。歩き出す。途中から走り出す。足音と後ろ姿が遠ざかる。ねえ、ちょっと待って。


 あたしは取り残されている。


「まっ……」


 やっと声が出た。誰の耳にも届かなくなってから、やっと。


 体から力が抜ける。へなへなと座り込む。廊下が冷たい。瞬一の言葉と初生の絶望の意味が、じわじわとわかる。


 初生は瞬一のことが好きで、瞬一はあたしのことが好きで、初生は瞬一の気持ちをわかってた。


 誰も何も言わなければよかったと、初生が吐き出した後悔の言葉が刺さってくる。


 あたし、バカだ。あたしのお節介のせいでこうなった。初生はあたしを責めてる。嫌ってる。


 瞬一は何を思っただろう? あたしのバカさ加減に、呆れるよりもっと深く、いっそ失望しただろうな。


 あたしが2人を傷付けた。あたし、なんでこんなにバカなんだろう?


 唇を噛んだ。床しか見えない。人工の木目がにじみ出す。


 ふと。


「甲斐さん、大丈夫?」


 思いがけない声があたしを呼んだ。柔らかくて伸びやかで優しい声。あたしは顔を上げた。風坂先生があたしの前に膝をついた。


「か、風坂先生……」

「偶然、聞こえちゃったんだ。立ち聞きみたいなことして、ごめんね」


 あたしはかぶりを振った。風坂先生の笑顔は温かすぎて、声を出したら涙まで一緒に出てしまいそうだ。イヤだ、泣きたくない。


「ぼくでよければ、話を聞こうか? 放課後になってしまうけどね。それでもいいかな?」


 どうしてそんなに優しいんですが?


「立ち聞きしたお詫びにね。実は、特進科の甲斐くんとは、たまに話すんだ。甲斐くんは甲斐さんの……って、紛らわしいな。瞬一くんは笑音さんのいとこなんだよね?」


 下の名前で呼ばれた。こんなときだっていうのに、あたしの心臓はドキドキと、身勝手に高鳴った。


 風坂先生にそっと肩を叩かれて、あたしは立ち上がった。授業を受ける教室へと、支えられるようにして歩いた。

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