●風坂先生はステキ!

 午後の最初が風坂先生の授業だ。ナースⅢって科目。


 「nurseナース」って英語、女性の看護師のイメージが強いけど、男性にも使います。っていうのを、ナース系の授業全部で最初に言われた。


 風坂先生の授業では実技も多い。患者さんの体を抱えたり支えたりする技術の実践。だから、授業は体操服に着替えて受ける。でも、うちの学校の体操服、色もデザインも微妙なんだよね。


「風坂先生の前で、小学生よりダサい体操服なんてイヤだー」


 あたしの愚痴に、初生は笑顔で付き合ってくれる。ぶかぶかの体操服に着られちゃってる初生だけど、かわいい子はどんな格好でも結局かわいい。反則。不公平。


 ざわざわしてた教室に風坂先生が入ってくると、おしゃべりがピタッと収まった。うちのクラスは気分屋だ。好きな先生の授業は、ほんとにまじめに聞く。嫌いな先生の授業は、しらーっとした空気になる。


 言うまでもなく、風坂先生は人気がある。女子からはもちろん、男子からも。


「こんにちはー。授業、始めまーす」


 しなやか柔らかボイスの、ちょっとのんびりな挨拶。若いんだよね、風坂先生の声。31歳にして、全然、声が枯れてない。声優さんだったら少年役で大ブレイクだよ、絶対。


 風坂先生は背が高い。190センチ近いと思う。癖っぽい髪はちょっと長め。顔立ちは派手じゃないけど、バランスがよくてカッコいい。


 黒縁のメガネが、目元をますます優しく見せる。目が奥のほうに引っ込んで見えちゃうくらいの度が強いメガネだ。外したら、どんな感じなんだろ?


「今日から新しい単元です。その導入として、教科書を読むより、ぼくの普段の仕事のことを話しますね。ぼくは、みんなも知っているとおり、看護師ではありません。ヘルパーと呼ばれる職業です。肢体不自由者生活介助士、というのが正式な名称なんだけど」


 風坂先生は教室前方の壁に貼られた黒いデジタルボードに「肢体不自由者生活介助士」と板書した。


 黒いボードに指先で触れて文字を書くときの風坂先生の手、すごく好き。長い指、目立ち気味の関節、キッチリ切られた爪、手の甲の静脈、ポコッと飛び出した手首の骨。


 字があんまりうまくないのはご愛敬。風坂先生もこっそり気にしてるっぽくて、自分の書いた字をしげしげと見て、苦笑いすることがある。すんなりした人差し指でほっぺたを掻いたり、「まあ、いっか」とつぶやいたりしながら。いちいちカッコかわいい。


「ぼくの本業は、こうして教壇に立つことではなくて、体が不自由な人の一人暮らしを支援することです。自立生活支援という仕事はね、社会福祉というより、サービス業に近いんですよ。ぼくの利用者さんはお金を出して、ぼくの仕事を買ってくれます」


 風坂先生の物腰は丁寧で、生徒の前でも絶対に上から目線になったりしない。ぐるっと教室を見渡して、話についてきてるかなーって顔で首をかしげる。一呼吸置いて、そして話を再開する。


「サービス業なんです。例えば、車の免許を持たない人がタクシーを利用するように、お金が間に入ってる。ボランティアではない。だからお互い、利用する側と提供する側の関係でいられて、利用者さんは遠慮せずに、ぼくに仕事を振ってくれるんです」


 我慢する関係だと苦しいんだって、4月最初の授業で風坂先生は話した。「こうしてほしい」って言えない利用者さん、「自分は奴隷じゃない」と感じるヘルパーさん。お互いに我慢してたら関係は長続きしないから、利用者さんの一人暮らしに支障が出る。


「ぼくの利用者さんの1人は、ぼくの親友でもあります。それでも、お金を介在させるサービス業のルールは守っています。親しいからこそ、割り切るべきところは割り切る。そのためには、お金というものはとても便利なんです」


 経験から出る言葉って、どっしりした手応えがある。教科書を何十ページ読んだってわからないことが、風坂先生のたった一言には詰まってる。そう感じる。


「ちなみにね、彼は、今は寝たきりになっているんだけど、昔はよく一緒に遊んでました。彼の車いすを押して、ロックバンドのライヴに行ったりね。彼は21世紀初頭の懐メロなロックが好きで。普段は、2人でゲームをするのが日課でした」


 ゲームって言葉に、くすっと教室から笑いが漏れる。風坂先生も笑顔。いつも笑顔。ほっぺたには、えくぼって呼んでいいのかな、縦長のくぼみが刻まれてる。


「だんだん体の自由が利かなくなる病気だった彼は、腕が動かなくなってもゲームが好きでした。ぼくが代わりにプレイして、彼は隣で見ていた。楽しんでくれていた。利用者さんと趣味を共有することも、ぼくらヘルパーの仕事です」


 さらりと、優しすぎる笑顔のままで、風坂先生はつらい現実に触れた。腕が動かなくなったっていう、それすら過去形。今は寝たきりって、どういう「寝たきり」なの? 意識は? 人格は? 感覚は?


 風坂先生が教室じゅうを見回す。


「みんなはナースを目指してるよね? 患者さんに接していれば、きっと、苦しいこともあると思う。命の形に、じかに触れる経験をするかもしれない。ぼくはもうとっくに大人で、31歳になってます。でも、現場ではまだ、割り切れないことばかりです」


 静かな笑みでそう締めくくって、風坂先生は教科書を起ち上げるよう指示をした。ハッと夢から覚めたように、クラスみんなが端末の操作を始める。


 引き込まれる声としゃべり方だよね、風坂先生って。見惚れる隙を与えてくれないっていうか、めっちゃ集中できる。だからあたし、ナースⅢの成績だけは点数いいんだよね。全部の教科でこれくらい集中しろって話か。



***



 風坂先生の授業は毎度のことながら、あっという間に終わってしまった。栄養学の授業なんか凶悪に長ったらしいのに。


 あたしはわざとゆっくり、机の上のものを片付ける。


 ノート用の薄型プラスチック製の端末は、クロスで画面を拭いて、角を合わせて畳む。教科書用の端末は、古風なハードタイプのタブレット。あたしが小学校に入学したころ、古い型が流行ったんだ。教科書のほうもクロスで丁寧に拭く。


 必要以上に時間をかけるのは、残ってれば特典があるからなのです。


「授業、わかりにくいところはなかった?」


 帰りがけの風坂先生が訊いてくれるんだ。あたしの席、教室の出入口のそばだから。超ラッキー。席替え、一生なくていいよ。


 にこっと柔らかい笑顔。メガネ越しのまなざしは、この上ない癒やし系。癒やされながらも、めっちゃドキドキするっ。


「だ、大丈夫です、ちゃんとバッチリです!」

「そう言ってもらえると、励まされるよ。話にまとまりがなくなるときがあるなーって自覚してるんだけど、なかなかうまくいかなくて」


「そんなことないですってば! 風坂先生のお話、わかりやすいですよ」

「ありがとう、甲斐さん」


 名前呼ばれた! ただでさえドキドキだった心臓が、これでもかって勢いでダッシュする。その反則ボイスで、もっかい呼ばれたら死ねる。でも呼ばれたい。


「お世辞とかじゃないですからっ。あたし、風坂先生の授業、ほんとにいちばん好きなんです! 現場のこと、きちんと教えてもらえるし、実技、役に立ってるしっ」

「実技が役に立ってる?」


「あー、いえ、あの……と、とにかく、風坂先生の授業、すっごくいいので、自信持ってくださいね。それと、あのそのえっと、風坂先生の声、あたしすごく好きですっ!」


 うわぉ、勢い余って言っちゃった! これってアウト? いや、でも、いま言ったのは風坂先生の「声」限定なの。風坂先生「自身」を好きって言っちゃったわけじゃないの。だからセーフだよね?


 風坂先生は一瞬キョトンとした。それから、白い歯を見せて、キラッキラに爽やかな笑い声をたてた。レアだ。超絶レアだ。風坂先生はいつも微笑んでるけど、「あはは!」って笑うとこは初めて見た。


「はははっ、ありがと。嬉しいな、声を誉めてもらえて。高校時代は役者や声優に憧れてたからね」

「ええっ、そうなんですか? あたしも中学のころまでは声優になりたかったんです!」

「ほんと? 声優志望からナース志望に転向なんだ? あはっ、なんだか嬉しい。ぼくと同じなんだね」


 同じって言われた! 同じって言われちゃった! 大事なことなので繰り返すけど、同じって言われちゃったよ嬉しすぎるよ同じだって!


「じゃあ、風坂先生、演劇やってたんですか!?」

「高校時代は演劇部だったよ。大学のころは、ゲームを自作するサークルに入ってて、声の出演や脚本はぼくが担当してた」

「すごーいっ! 自作のゲームで声の出演って、めっちゃ楽しそうですね!」


「単位が危なくなるくらい楽しかったよ。実は、今でも劇団に所属してるんだ。あまり練習に参加できないから、公演のときはチョイ役ばっかりだけどね」

「えっ、今でも舞台に立ってるんですか!?」

「たまーにね」


 なんてマルチな人なの! というか、チョイ役だなんてもったいないでしょ。風坂先生、主役級の素材だと思いますけど? 背も高いし、カッコいいし、声もステキだし。


「ももももしよかったら、今度、風坂先生が出演するとき教えてください! あたし、観に行きたいですっ」


 花束持って行っちゃうって!


「んー、休日にることがあれば、ね。いちばん近い日程の公演は、平日の昼間なんだ。とある福祉施設での『いす持参の演劇観賞会』っていう定期イベントで」

「いす持参、ですか?」


「車いす、折り畳たみいす、パイプいす、食卓用にいす、キャスター付きのいす、何でもいいんだけど、観客にはいすを持ってきてもらうんだ。会場では、固定のいすを用意してないから」


 バリアフリー以上のフリーダムだ。車いすより、普通のいすを持っていくほうが圧倒的に不自由じゃん。


「いす持参って、おもしろいですね! すごいです。うわー、あたしも参加してみたい。ソファかついでいきます!」

「ありがとう。じゃあ、公演情報は授業のときにみんなに告知させてもらうよ。ところで、そろそろ移動教室じゃないかな?」


 風坂先生が腕時計をあたしに見せた。ヤバっ、あと3分で次の授業だ。着替える暇ないや。


「先生、つかまえちゃってスミマセン。栄養学、頑張ってきまーす」

「遅刻しないようにね。行ってらっしゃい」


 風坂先生の笑顔に見送られる。朝から妹の世話を焼く優しいおにいちゃんって感じのセリフじゃない? なんていう想像をしてしまった。


 あたしは風坂先生に頭を下げて、回れ右した。初生が、ホッとした顔をする。教室の後ろで、あたしを待っててくれてたんだよね。


「ごめんね、初生。行こっか」

「うん」

「じゃ、風坂先生、ありがとうございました!」


 あたしはもう1回、風坂先生にお辞儀した。そして、初生の手を引いて、スキップして歌いながら栄養学教室に向かった。


「る~ららる~ら~、るららる~ら~♪」


 ご機嫌モードが止まらないー! とか思って絶好調だったんだけど、栄養学の授業が始まった途端、ネチネチ系おばさま先生に集中攻撃されて、バッキバキに心を折られた。がっでむ。

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