#14


 雨が降ってきた。どこか、雨宿りのできる場所を見つけなければならない。

人間を引きずって歩くのは容易ではない。特に、他人の目を気にしながらとなると、並の努力では成し遂げられそうになかった。

 失神した女を負ぶって歩く。女は太ってはいないが、肉の重量感はそれなりにある。

へこたれそうになるものの、遥々山超えてやってきたこの町で見つけた、絶好のひきつき相手だ。みすみす逃すわけにはいかない。

 しかし、正式にひきつく為には、女に無事帰宅してもらわなければならない。自宅で世迷いに勤しんでもらってこそ、ひきつき坊の糧というか、成果となるのだった。

 雨は小ぶりだが冷たく、気絶した女を長い間さらしているのは危険だ。衰弱してしまうだろう。早いとこ、雨をしのげる安全な場所を見つけなければ……。


 ひきつき坊はホッソイ足腰を精一杯踏ん張り、女を落とさないように気を付けながら一歩一歩進んだ。

 ビルがあった。小さなビルだ。お世辞にもキレイなビルとは言えない。バブル後期に建てられた、小さくて、小汚いビルだった。

 そのビルの両隣は空き地になっている。会社が入っている様子はない。架空会社の架空事務所を設置しようと思ったとしても、このビルは避けるだろう。

 玄関にはスプレーで落書きがされていた。淫猥な落書きもあった。明らかに、所有者の負の遺産となっていた。

 ひきつき坊は助かったとばかりにそのビルに向かい、今までの二倍の努力で階段を上って行った。

 二階の一室に入ると、錆びたロッカーと小汚いデスクが隅に一つだけあって、後は何もなかった。雨のせいで薄暗い。湿度はあるが埃っぽい。ともかく女を床に寝かせると、自分は部屋の隅でうずくまった。


 二時間経って、雨は本降りとなった。

 昼間にもかかわらず、相変わらず部屋は暗い。


 ゴリラを慰める夢から覚め、果歩は目を開けた。


「フガッ!」


 ガバッと起き上がり、首を左右に振った。がらんとした一室。自分がここにいる理由を、ハッキリしない頭で必死に考えた。

 蝶々を追っていたことを思い出し、そういえばヘアゴムを忘れたんだったなと考えた直後に突然、あの変な男のことを思い出した。

 不気味で小さな男。

「見つけた!」と叫ばれたこと。そのことを思い出すと寒気がした。それで、どうしてここに……。


「起きたか」


 声が聞こえた。


「ハッ! ヒー!」


 果歩は飛び起きたが、同時に腰を抜かした。逃げたいと思った。思ったはずだったが、いつの間にかそんな思いも消えて座り込んでしまった。


「なんで君には、おいらの姿が見えるのかなあ」

「え? なになに? ごめんなさい……」

「いやあ、謝ることなんて何もないよ」

「ご、ごめんなさい。命だけはアレなんで……。家に帰してください」

「なんでかなあ……。あ、家に帰る? 行こう行こう」

「えっ! うちに来るんですか? マジであの、へんしつ……警察呼びます!」

「いやあ、おいら妖怪だから、妖怪警察を呼ばないと捕まえらんないよ。まあ、妖怪警察を呼んだとしても、何も妖怪条例に触れることなんてしてないから、どちらにしろ無駄だと思うけどね。そういえば今年の、全日本妖怪オブ・ザ・イヤーは炎尾狼が取ったらしいね。やっぱり最近は、ああいう派手で恰好のいい奴が――」

「ちょっとちょっと、ごめんなさい。話が全然分からなくて……」

「そうか。やっぱり、妖怪界に通じているわけじゃないんだね」

「ようかいかい……」

「人間界に対しての妖怪界だよ。妖怪って知ってる? いや、妖怪は自分のこと妖怪と呼んでたわけじゃないんだけどね。まあ、人間の方が生身で生きている分だけ格上っていう先入観でさ、人間が決めたこの呼び名がおいらたち妖怪の間でも浸透してしまったわけなんだけど、これも仕方ないよね。人間の方が世界に対して影響力が有るのは間違いないわけだし。どの道裏の世界の生き物なわけだし」

「あの、帰っていいですか?」

「ああ、ごめんね。ついて行くけど良い?」

「嫌ですけど」


 果歩は心底うんざりして、力なく部屋を横切ると、歪んだロッカーに凭れ掛かって座った。

なんだか、あらゆる気力が失せていくようだった。

 大体、妖怪ってなんなのよ。あの黒い気持ち悪い塊といい……。どうしてこうも立て続けに、訳の分からない物体が押し寄せて来るのだろう……。

 このかわいらしい素行不良者への罰としては、ちょっと重すぎるのではないだろうか?


「参ったなあ……」


 不気味な男はおんぼろコートのポケットを忙しなくまさぐる。が、中には何も入っていない様子。


「こっちのセリフですわ」


 果歩は、あの不気味な小男に敬語を使うのがバカらしくなっていた。次こそタメ口で喋るぞと決心した。

 男は言った。


「とりあえず休んでいかない?」

「ええ? 何言ってるの?」

「雨降ってるしさ」

「やむまでこんなところに居れないよ。っていうか、妖怪なの?」

「そうだけど。すぐやむかもしれないからもう少し待ったら」

「いやだ。帰る。そして付いて来ないで」


 妖怪と、もしくは妖怪と名乗る人間と一緒に居る時間なんて、短ければ短いほど有り難い。


「そういえば君、何て名前なの?」

「何で急に名前なの? バカなの? ねえ、妖怪ってそういう感じなの?」

「ひろ美とか、そういう感じかなあ」

「果歩だよ! 近藤果歩! もう疲れた。妖怪おじさんといると凄く疲れるわ……。っていうかお腹すいた」

「近くに弁当屋があるよ」

「お弁当買ってくる。出て右? 左?」

「左」


 果歩は出て行った。

 ひきつき坊は思った。「買ってくる」ということは、戻ってくるということだろうか。彼は窓から外を窺った。果歩の頭が見えて、こちらを見上げた。角度的に目が合うことはなかったが、もしかしたら帰って来ないかもしれないと心配になった。果歩は雨の中を走って行った。ひきつき坊は部屋の真ん中に座り込み。念を唱えた。


「ひきつきつくところにつくなればつかんことをつきてつくすのみでありつくものはつかれるものにつくなれど……」


 十五分後、果歩は帰ってきた。


「この辺に生徒手帳落ちて無かった?」


 彼女の右手には二人分の弁当が提げられていた。

 ひきつき坊は言った。


「おいらは人間の食いもんを食わないよ」


 近藤果歩は言った。


「私が二個食べるんだよ」



 みるみる暗くなった。雲と冬が手を組んで、夜を運んできた。


「寒い……」


 果歩は身を震わせ、さあ帰ろう、今帰ろうと心を決めながら空き部屋をうろうろしていた。

私は何をうだうだやっているのかと、心底不思議に思った。

 まあ、帰宅が少々遅くなっても誰も心配しない。前に家出した時も、三日目に電話やメールがあって、四日目にやっと学校に相談した両親だ。そういう家だ。育つ環境として良いか悪いかは分からないが、廃ビルで好きなだけうだうだしている分には助かる。


「ごめん」ひきつき坊が言った。

「何が?」

「ここ出られないの、おいらのせいだわ」

「なにそれ……」

「昼に弁当買いに行っただろう? その時、このまま帰ってこないんじゃないかなあと思って、念仏を唱えたんだ。ここに居たくなるような種類の念仏なんだけど」

「どういうこと? 催眠術みたいな?」

「そんな感じかなあ」

「最悪……。どうすれば出れるの?」

「意志が弱い人間は、明日まで待つか、誰かが無理やり連れだしたりしたら出れるよ」

「誰も来ないよ、こんなとこ……。風邪引くわ」

「ごめんよ」


 仕方なく、暇つぶしに二人でしりとりやら山手線ゲームやらを始めた。

全く面白くなかった。

 その中で果歩は、妖怪の名がひきつき坊だということを知り、ヒッキーというあだ名で呼んだ。ひきつき坊に、そのあだ名への抵抗は無いようだった。

 一通りの遊びをやってみた結果、ひきつき坊が遊び相手として最悪だと知った果歩は、充電が無くなることを恐れながらもスマホでゲームを始めた。

 しかし、すぐにやめた。こういう暇つぶしのゲームは、暇つぶしを期待して始めてしまうとすぐに飽きる。なにもかもが自分を足止めするように思えて嫌気がさした彼女は、空想の世界に逃げ込んだ。

 空想には愛があった。それと比べて、現実には退屈しかない。何てことだろう。現実には大した価値がないのかもしれない。


「おい」


 声がした。


「おい」

「はい?」

「おい。何してん?」


 目を開けると、知らない男がいた。


「ヒイ!」

「ヒイって、邪魔じゃけん。出て行ってくれん? 始めるから」


 男は高校生または大学生、もしくは二十歳前後といった容姿。プライドばかり高そうな田舎のヤンキーで、髪の毛は罰ゲームでやらされたかのようなフワフワの金髪だった。

 都会に憧れているのだろう。都会にこんなヤンキーは居ないけど。

 見ると、もうひとりデブのヤンキーが居た。女もいた。女はこれも年上で、そんなガキは放って置けだとかそのようなことを言った。


「お気になさらず……」

「まあ、いいけど」


 言うと、徐に、三人でおっぱじめた。果歩は度肝を抜かれた。デブは、デブなのにパンツを脱ぐと寒い寒い言いながら、イチモツをちぢこませ、しかし女の裸を見るとムクムク興奮させた。

 なんてこった。妖怪よりも奇妙だ。

 吐き気がした。ところで、本物の妖怪はどこに行った? 果歩は部屋を見回した。

 ヒッキーは、果歩が目を覚ましたときに居た部屋の隅で、三人のもつれ合いを眺めていた。

 くそ。妖怪であっても男は信用できないわ。

 果歩は、自分をこの場に留まらせている呪いのこともあって、人間妖怪関わらずに男への不信感に苛まれた。いや、あの女も下衆だ。まともな人間なんて、もう世界中に自分くらいしか残って居ないのかもしれない。

 果歩は乱れた世を憂いながら、三人が様々な体勢で技を決めて行くのを、組み体操みたいだなあと思いながら見ていた。女の地獄猫のような声が部屋に反響していた。デブは上手くやれていないようだった。業を煮やしたのか、デブは立ち上がって、何を思ったか果歩の方にやってきた。


「ちょ……ちょっと。なに?」果歩は言った。

「いや、俺、君の方が良いんだけど……」

「はあ!? 何言ってんの、超絶キモいんですけど!」

「でも、ほら。誰もおらんし、暗いけん大丈夫」

「居るわ!」

「ちょっと触ってくれるだけでええんよ。まずは。ほら」

「ほらじゃねえよ、ちょっと、ヒッキーてめえ!」

「ヒッキー?」

「おいらにはどうにも……」ひきつき坊はしゃがんだまま動かない。

「どうにもって、こんな目に合わせといて傍観しとうときちゃうやろ!」

「まだ何も酷いことは……」

「あんたのことと違うわ!」

「え? 誰の……あ、地震だ」


 建物がズンズンと揺れ、淫らな夜会は中断された。地震は徐々に近寄ってきて……つまり、それは地震ではなかった。

 果歩は、寒さと悲しみに満ちた乱交に参加するのと、謎の巨大足音に踏みつぶされて死ぬのとどっちが良いのかを考えた。

 結論を出すつもりはなかった。

 出す暇もなく、それが現れた。

 人間が四人と、妖怪が一匹。みんな同じような反応で、全く、恐怖以外の感情をすっ飛ばされたような顔をして、それを仰ぎ見た。

 それは、山崩れのような声で言った。



「どいつだ?」



 果歩は再び失神した。

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