#8


【ひきつき坊】


 ひきつき坊は、留まる人間に取り憑く妖怪だった。ひきつき坊は、留まる人間を、より、その場に留まらせようとする妖怪だった。人間がその場に留まることは、ひきつき坊にとって、とても重要なことだった。取り憑いた人間を、如何にして長く留まらせておけるか。それがひきつき坊の、ひきつき坊としての存在価値であった。


 彼は、ある人間を部屋の中に留まらせていた。

その人間は、たまには外に出ることもあったが、生活の多くを屋内で過ごしていた。

 外に出るということは、その人間にとって苦痛だった。外には生きる意欲に満ちた他人がわんさかいるし、自分の中の生きようとする意志が刺激されて苦しくなるからだ。人間は、人生に片思いをしていた。

 そんな人間に取り憑いて、引きつき坊は、人間の活力を更に削いでいた。気の太鼓を叩き、念仏を唱えた。


「ひいろいろいういういしわらのさいかなし……」


 人間の部屋の戸を、その人間の母親がノックした。


「ねえ」

「なに」

「暇なら郵便局行ってきてくれない?」


 人間にとって、「暇なら」という言葉は残酷に響いた。


「腹が痛い……」

「大丈夫? 薬は?」

「後で飲んでおく」

「今飲みなさいよ。その前に、軽くでもご飯も食べなさいよ」

「分かってる。うん……」


 人間の母親は、足音で不満を漏らしながら戻っていった。母親は息子を育て、今でも育てている自負心から、息子の生活に口を出す権利を所有していると確信していた。

 人間の息子は、自分が独立した人間であるという自尊心を懐に抱えて、堅持しながらも、親の脛をかじっていることへの羞恥心や不安、劣等感に体の四分の一を食い尽くされていた。

 人間は、一時停止していた携帯ゲームを再開した。

 ゲームの中では、主人公が縦横無尽にエリアを飛び回った。人間の思考も飛び回って、敵が現れると熱を帯びた。ゲームに飽き飽きしてきた頃、ひきつき坊が念仏を唱えた。


「ひいろいろいういういしわらのさいかなし……」


 人間はゲームをやめて、溜息をついて、窓から外を見て、スナック菓子を摘まみ、一度読んだ漫画本を取り出して読み、漫画のファンタジーが抜けたところで眠りに着いた。

 ひきつき坊はこうやって存在していた。

 ひきつき坊は、薄暗い押入れの中で眠った。


 朝起きると、大変なことが起こる予感がした。嫌な予感だ。嫌な予感の原因を探ると、それは居間でのヒソヒソ話。それに風。それに、シロアリ。それに……ようするに、いつもと違ったわけだ。

 人間の様子を見ると、こちらも落ち着かない様子で、アニメが映し出されたパソコンをずっと見ていた。それはいつもの光景だが、どうも物語の内容が入ってこないらしく、ちょっと進んでは巻き戻しを繰り返していた。

 この人間の部屋は二階にあった。

誰かが、階段を上ってくる足音が聞こえた。不規則に二人分、四つの足音が近付いてきた。

 ひきつき坊は、襖からそっと部屋の様子を窺っていた。部屋に、人間の母親と、知らないおばさんが入ってきた。知らないおばさんは、とんでもない容量の精気を発していて、ひきつき坊はその迫力に圧倒された。

 人間の息子も震え上がったようだった。

 暫くは抵抗していたが、結局、その頭のデカいそのおばさんに手を引かれて部屋を出て行った。おばさんは終始、意味の良く分からないことを喚いていた。ひきつき坊は心配になって、そっと階下に降りた。怒鳴り声が聞こえた。おばさんの声だ。


「お父さんお母さんだってねえ、いつまでも健康だと思ったら大間違いなんだよ!」


 居間からだ。

 そっと、その様子を覗いてみた。

 知らないおばさんは大きな身振りでまくし立て、人間の息子には反論の余地も隙も無かった。二時間も三時間も、そんな具合で話し続けていた。その内、人間の息子はシクシクと泣き始めた。

 話にケリがついて、おばさんは帰った。

人間の息子が居間から出てきたので、ひきつき坊は急いで二階に戻った。そして再び、襖の間から部屋を覗いた。

 人間の息子は、昔部活で使っていた大きなバッグを出して来て、身支度を始めた。その支度の途中ずっと、人間は、心ここに在らずといった具合だった。しかし、支度が終ると泣き始めた。十分間泣いて、また呆けた。パソコンでは、アニメの主人公が敵役を妙な魔法でやっつけていた。


 次の日、粗暴なおばさんが再び現れた。


「ほんなら、お母さんにしっかり挨拶しなさい」


 おばさんは言った。人間は、人間の母親に向かい、頭を下げた。


「行ってきます……」


 すると人間の母親は泣いた。それを見て、息子も涙をこらえているようだった。ひきつき坊はその様子を、部屋の窓から見ていた。彼は困っていた。非常に困っていた。急に仕事を失ってしまった。恐らくは、これからしばらく、町をさまよう羽目になってしまうだろう。妖怪は、存在価値が無くなったら、そこで終わりだ。死んでしまう。早急に次の手を打たなければならない。彼は夜を待って、家を抜け出した。車を二台やりすごし、住宅街で良さそうな気配のする家を探し回った。


 小雨が降ってきた。


 居場所はない。この町のどこにも、彼の居場所は無いようだった。小雨は段々と存在感を増して、大粒の雨に変わって行った。ひきつき坊は山に入り、そのまま山を越えてしまおうと歩き続けた。雨が上がって、日が昇っても歩き続けていた。疲労という感覚は無かった。昼は木の上で眠った。夜は大きく目を見開いた。


 三日間歩き続けて、ひきつき坊はある田舎町に出た。彼の魂は弱りかけていたが、その肌はピリピリしていた。

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