#11
朝方から小雨が降り出し、昼過ぎまで小雨のまま強まりもせず降り続けた。
町は静まり返っていた。耳を澄ませば遠くの騒音が聞こえる。しかし、どこまで行ってもその騒音の主に届かないようなベールが、この町を覆っていた。
ベールが覆うのは騒音だけでなく、町全体に漂う感情も覆い隠した。誰もが、誰に対しても無関心であるように見える。そんな色で埋め尽くされていた。
公園は人気が無く、少ない遊具はしっとりと濡れていた。
ペッチペチ娘は、朝起きてから十度も屁女を覗き込んだ。十一度目に、やっとその目蓋がゆっくりと開いた。娘は、その目蓋の様子が面白いと思って観察し、その後に屁女が起きたことを喜んだ。
「おっかー」
ペッチペチの母が気付いた時には、屁女はベンチで上半身を起こしていた。
屁女はペッチペチ娘を見ると、緩やかな表情になった。周りを見回して、酷く霞んだ視野と昨日の記憶を取り返そうとしているようだった。
母さんが、その辺に落ちてたビニールに水を入れて持ってきてやった。屁女はそれを飲んで、呆けたように一点を見つめた。
「おっかー。お姉ちゃんが動かんくなった」
「大丈夫よ」
母さんはビニールを捨てて、近くのベンチに座った。
これからどうするか、何となく考えながら雲行きを見た。
母さんは立ち上がり、ペチペチと音を鳴らした。その音は湿気に邪魔されてくぐもっていたが、周囲に超音波を飛ばして近隣の敏感な犬が吠えた。
屁女はペチペチ音で我に返り、立ち上がって、東屋の屋根の下をウロウロ歩き回った。やがてピタッと止まると、うな垂れたり腹をさすったり、もんぺを引き上げたりペッチペチ娘を窺ったりしていた。
娘は母さんのペチペチ活動と、歩き回る屁女を見ながら、学校に行きたいなあと思っていた。
小学校には週に何度か足を運んでいた。子供たちが勉強しているのを見たり、体育の授業をしているのに合わせて走り回ったりした。学校でペチペチ音を出すと良く響いて気持ちが良かったし、誰かに不信がられる心配も無かった。
絶好の遊び場だった。
しかしデパートと同じく、住処から遠いのが難点だったので、娘は、次の住処は学校にもデパートにも近ければ良いなあ、などと考えていた。
母さんが屋根つきベンチに戻ってくると、屁女は再びベンチに座った。彼女は冴えない表情で両手を膝に置き、たまに内腿をさすった。
「どうしたね?」
母さんが声を掛けた。
屁女は消え入りそうなか細い声で喋った。
「実は……」
「おっかー。あたち、今度は学校の近くに住みたい」
「そうね」
「うん!」
「どうしたね?」
「実は。屁が。屁が」
「屁が?」
「屁が。なんとも……」
「出なくなったん?」
「腹にひっこんで。しまって。屁が」
「屁っこきなのに、困ったわね」
「おっかー。見て見て、虫がおるよ。気持ちわるいよ」
「ほんとやねー」
「屁が出ねと。私。私」
「うんうん」
「私。死んでしまう。かも」
母さんは言葉を失った。どう声を掛けたものか、分からなかった。妖怪の死は……異論はあるだろうが……人間のように軽い物ではない。妖怪の死というものは、それはそれは辛く、重く、孤独で、他に例えようも無い悲劇なのだ。
「ちょっと無理したからでしょう。大丈夫、大丈夫。それに最近、あれじゃけんね。余所者がたくさん居るみたいやし」
「空気が。悪い」
「妖気が乱れているのかもしれないわね。私達も他人事じゃないわ」
環境の変化。特に今回は、異国の妖怪が絡んでいて、前例の無い空恐ろしさがある。この街の妖怪は乗っ取られてしまうのかもしれない。何とかしなければ……。
でも、基本的に、この町の妖怪同士の繋がりは浅く、統率というものは無い。たまたま寄り集まった女妖怪三人で何とかできるような相手でないことは明らか。おまけに、山の方からも不穏な妖気を感じるし、経過を見る他は無かった。
何が起ころうとしているのだろうか。
何かが起こったとき、何を守ることが出来るのだろうか?
「おっかー!」
ペッチペチ娘の声が聞こえた。声が少し遠いなと、母さんは思った。母さんが声のほうを向くと、娘は公園の出入り口付近に居て、母さんに向かって手を振っていた。
大きな、黒い塊の上で。
娘と黒い塊は、直ぐに母さんの視界から消えた。母さんは、本人なりに急いで向かい、娘と黒い塊を追ったが、直ぐに見失ってしまった。急に走ったので息が切れた。疲れた。吐き気を感じた後、疲れている場合じゃないと思ってもう五歩走ったが、やっぱり疲れたので歩いた。息を整え、近隣をグルグル歩いて見回り、公園に戻ってきた。
血の気が引いた。屁女が、屁が出ないことで落ち込み、ベンチでうな垂れている。
落ち込んだ妖怪二体、並んで座った。傘を持った人間の子供が一人、大声でアニメのテーマ曲を歌いながら横切って行った。母さんは娘が帰ってきたのかと思って立ち上がったが、間違いだと分かり、座った。似ても似つかない人間と、自分の娘を見間違えるなんてことがあるのだろうか? 実際に今あったのだ。ペッチペチの母にとっては、その見間違いもショックなことだった。
しかし、そのショックを噛み締めていられる心境ではない。
今は、娘の行方だけが心配だった。
去り際の娘が笑顔だったのは救いだ。そうだ、変わったタイプの新しい友達かもしれないと仮定して、自分を納得させようとしたが、そんな気休めよりも先ずは娘を探しに出なければならなかった。
母さんは老体に鞭打って、精一杯ペチペチ鳴らした。ペチペチは超音波を放って、隣町の犬が吠えた。寒さも相俟って、手の平がジンジンした。
「返事が無いわ」
呟いた。
どこかで屁女に聞かせようとした呟きだったが、屁女は彼女個人の理由で塞ぎ込んでいた。
「屁が……」
「私は娘を探しに行くけん。あんたも家戻ってゆっくりお休み。そしたら治るかもしれないからね」
「家。帰ります」
屁女は、悲しみが過ぎて思わず出てしまったような笑顔を見せた。
彼女の前歯は斜めに欠けていた。
笑顔は直ぐに消えて、無表情になり、遠くを見て、ペッチペチの母を見て、言った。
「さようなら」
「さようなら」
母さんは公園を出て、娘が消えていったほうに歩いた。
しばらく行ってから振り返ると、屁女の丸まった背中が見えた。
その背中は悲しかった。
昨日の晩に出会った二人の妖怪は、それぞれに大きな問題を抱えながら、それを分かち合うことなく離れ離れになるのだった。
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