#35

 さちえ。

 さちえ。

 愛しているよ。

 もう一度。

 もう一度だけでもきみと。

 一緒になれたなら……。



・・・・・



 おかしな夢を見た。

 おかしな夢だった。

 あれは私の夢じゃなくて、他の誰かの夢だった……。


 温泉と食事で自分の身を持たせつつ、胃の痛い思いをする。

 次にとれる行動は多分二つ。ツチニョロンの情報を信じ、ラグレグのルートを抑えて待ち伏せ。もしくは、妖怪掲示板の仲間たちに(大ムカデや人食い鬼に)会いに行く。


「果歩ちゃん」

「なに……」

「食欲無いの?」

「ない」

「そうだよね。ビーバー気持ち悪かったよね」

「なんかめっちゃ話しかけてきますね」

「いや、なんか」

「なんですか?」

「……」

「……」


 ということで、和え物を一口で食べ干し、私はツチニョロンに話をしに行った。


 駐車場でツチニョロンは、使用済みの歯間ブラシをじっと観察していた。


「良いのあった?」

「んぬ、ない……ハッ!」

「どうしたの?」

「え、何でもない」

「あそう。今日この後、ラグレグやっつけに行きたいんだけど、手伝ってくれる?」

「お、あ、い、いいぞ」

「ヒッキーは?」


 私は振り返った。そいつは旅館の玄関から両手で丸を作った。

 屁女さんと母さんはどうしよう。二人とも随分参っているみたいだし、とりあえずこの三人でいっか。

 あ、南さんは連れて行くべきだろうか? そうだね。意味ないけど塩を持たせて連れて行こう。

 ひとまずツチニョロンには歯間ブラシを任せて、私は旅館に戻ることにした。

ヒッキーが言った。


「おまえ顔があおいぜ」

「妖怪に言われたくないわ」


 南の部屋に行くと、彼はテレビを見ながらまんじゅうをパクついていた。

 そこらには漫画雑誌やお菓子の袋が散らばっていて、本当にどうしようもない男なんだなと実感させて頂く。この世俗的なだらしなさと、旅館の行き届いた美しさとのギャップが、また新たな妖怪を作り出すのではないかと思えた。

 燦々と照る初冬の日光は、まっさらな畳を白く輝かせた。僅かに井草のにおいが立ち上り、私のくっせえ足の裏を優しく受け止めてくれる。

 南は私を発見すると、お茶でまんじゅうを流し込んでから、やっと慌てた雰囲気を出した。

 彼は言った。


「果歩ちゃん、ちょっとヤバいかも」

「どうしたんですか?」

「さっきロビーの方で聞いたんだけど、この旅館に失踪した女の子の問い合わせが来てるらしいよ」

「失踪? ペチペチの娘さんの?」

「いやいや、妖怪ポリスじゃないんだから」

「妖怪ポリスって何ですか?」

「分からないけど……。妖怪が通報とかしないでしょ」

「じゃあだれ……私だ!」

「そうだよ」

「え、どんな風でした? 警察が動いてるの?」

「多分……。分からないけど、家に帰った方が良いんじゃない?」

「いや、無理ですよ。今更……放ってなんて帰れないです」

「除霊のことなら僕が何とかするから。どうしても気になるなら、一旦帰ってからまた来ればいいし」

「でも、そんなゆっくりしてられないですよ……。命が掛かってるんですよ」

「命……」

「南さんも来てよ。今日が勝負だから。おねがい」


 南は飲みこんだ言葉が喉に詰まってしまい、自らの思考の中であっぷあっぷ溺れていた。何て返事をして良いのか、全く思い浮かばない様子だった。


「来てくれないんですか?」

「行くよ、行くんだけど……。僕が行ってなにか出来るかな?」

「ビビってるんですか?」

「ビビってないけど……」

「何にビビってるんですか?」

「何ってことも無いよ」

「妖怪ですか?」

「いや」

「警察ですか?」

「いや……」

「どっちでも良いですよ?」

「考えさせてくれないかな……」

「まあ、もうすぐ出るんで、ダメならダメで早めに決めて下さい」


 それで、私は南の部屋を出た。

 あのクソ男は、相変わらずクソ男だ。でも、お陰で私の決心が固まった。ダメ人間と一緒にいると、自分がしっかりしなければという気になれるみたいだ。

 私は、自分の部屋で荷物をまとめた。

 へっへっへ。遺書を書いた。

 お盆に敷いてあった紙に書いた。

 そんなことはどうでも良いんだ。

 私は、あのバカが、南のことが、どうしても憎めなかった。

 あのバカに死んでほしくない。

 そう思ったんだ。

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