#6


【屁女】



 屁女が居た。屁女は、おさげ髪をだらんと垂らした、見た目二十代前半の女だった。

 しかし、彼女も妖怪だった。もう二百年近くこの町を彷徨っていた。

 屁女は人間社会に溶け込んで暮らしている。

 屁女はその姿を自由に消すことが出来る。

 屁女は神社の蔵で眠る。

 彼女の活動エリアは限られていたが、その範囲内であれば自由に行き来できた。彼女は人混み、人の集まる個室、バスなどの乗り物に姿を見せては、屁を放って消えるのだった。

 彼女は、それを生業としていた。


 屁女は、自分が屁女であることに対しては、誇りも後ろめたさも持ち合わせていなかった。人が、人であるということ自体には誇りも後ろめたさも持ち合わせていないように、屁女は仕事の出来不出来にのみ、自分の価値を見出していた。

 彼女は町に出た。

 とてもじゃないが、大きな町とは言えない。海に面していて、背後には深い深い山々。山のふもと、郊外には畑が広がっている。

 雄大な山々から流れる川は本数が少なく、川沿いは度々水害にやられていた。ヤマメは銀色が強く、身は締まっていた。

 町の中心部にコンクリートの建物が集まっていた。ワンマン経営のスーパーマーケットや、最近全国チェーン店にフランチャイズされた本屋。小さなレンタル店。ポツポツと点在するコンビニエンスストア。一時間に一本のバスが車幅一杯の坂道を駆け上がる。二時間に一本の電車はトンネルから這い出てきて、トンネルに吸い込まれていった。

 駅前は屁女の主戦場だった。駅前から数百メートルのところに、広大な駐車場を擁す町唯一の大きなデパートがあった。新しいデパートだった。方々から人が集まって、町の景気がそのまま掌握されているような施設だった。

 屁女は今日も、朝から町に下りて中心地に向かった。バスの中で一発。通りがかったカレー屋で一発。歩道で一発。そして、デパートに向かった。

 デパートは昼前という時間帯。昼食目当ての客も大勢いて、館内は混雑していた。屁女はいつものように、感想も無く、館内のショップを眺めて回った。


 今の人間は変わっている。屁女は思った。

 

 人間というのは上辺の存在だ。妖怪というのは、その中身をくり抜いたような存在だ。上辺の人間達が着飾る為の物が、そこには溢れていた。

 純粋な悪魔である子供たちが、天使の様に愛らしく飾られている。

 純白で摩擦力の高いフロアのタイルが、何百何千という足に踏まれて黒ずんで行く。

 きれいな何かが薄汚れて行く時間は短い。しかし、そんなことは屁女に関係ない。

 彼女は、広いフロアの隅まで歩いて行った。仕事としての放屁は、一日最低五回は行わなければいけない。屁女はエレベーターの前で立ち止まると、十数人の一般客とともにエレベーターの到着を待った。ベビーカーの赤ちゃんが、彼女をじっと見ていた。どんなに上手く気配を消しても、赤ん坊に見つかってしまうことは多々ある。

 ランプが光って、エレベーターの扉が開いた。化粧のにおいを撒き散らす淑女たちが、自ら進んで密室に雪崩れ込んだ。赤子は人生何度目かの不快感に苛まれ、目の前に並ぶ太い足と尻に忌まわしい前世の記憶を呼び起こされていた。

 屁女は、エレベーターが五階から駐車場のある屋上へと上がる途中で放屁した。

 何とも言えない雰囲気が、エレベーターの密室内に漂った。咳払いがどこからか聞こえた。屁女には快感も罪悪感も無く、そのまま屋上で降りた。屋上で人間たちは皆、何気ないふりをしながらこっそり深呼吸しているようだった。

 屁女は新鮮な青空を見上げて、また屋内に戻った。


 エレベーター前の通路を奥に進むと、小さな屋上遊園地があって、彼女はそっちに向かった。仕事の後、たまにこうして屋上遊園地に足を運び、日が沈むまで子供たちが遊ぶのを見て過ごしていた。

 ただ見ているだけだった。見守っているわけでも、何かを見出しているわけでも無い。

 則正しい動作を繰り返す遊具と、不規則に動く子供たちが彼女を飽きさせなかったのだ。この日も、屁女はじっとベンチに座り、何度も廻る同じ光景の中、一組として同じ物の無い家族、そして徐々に哀愁を増す夕暮れのコントラストを眺めていた。


 ある瞬間、屁女は帰ろうと思った。


 閉園までは三十分少々残っているが、帰りたい時に帰るものだ。

 そして、席を立った。屁女は腰を上げ、エレベーターの方に向かった。

 空っぽのコーヒーカップが回っていた。遊園地唯一の売店は、片付けに入っていた。売店で人気のホットドッグは売り切れて、新商品のタコスは見込んでいた売り上げの半分ほどしか売れなかった。

 その前で一人、女の子がじっと、売店の片付けを観察していた。小さな頭を左右に振って、店員の動きを追っていた。

 屁女がその女の子に目を取られたのは、売店の前に佇んでいる以滑稽さからではなく、およそ現代人とは思えないその風貌からだった。この田舎町のオシャレが集約された建物の屋上で、フリフリの付いたシャツに紺色の吊りスカートは、良い風に言えば趣があり、白黒テレビでなら映えそうだった。

 屁女がその女の子を見ていると、女の子は振り返った。

 その瞬間に、屁女は、その女の子が普通の人間ではないことを悟った。見抜いたという感じではなく、本能的に悟ったのだった。

 女の子の方も、屁女に何かを感じ取ったようだ。じっと、屁女のことを見ていた。屁女は女の子に引き寄せられるように歩み寄ると、なんの考えも無く近距離まで来てしまった。

 自分を見上げる女の子の顔は、当然そっちから何かを言うんでしょという表情だった。しかし屁女は黙ったまま、そのまま空を見た。

 空は、陰鬱で美しかった。

 しばらく空を見て視線を戻すと、屋上は電飾で眩しかった。

 例の女の子は売店から少し離れたところに戻って、明かりが点されたばかりの電灯の、錆び付いた部分をパリパリと指先で突いていた。

 屁女は女の子のもとに歩いて行った。女の子は屁女を見た。屁女は言葉が出ず、代わりに腸がクルクルと鳴って一発屁を放った。女の子は驚いたような顔をした。そして、直ぐ後に、ケタケタと笑った。その笑顔は愛らしく、無垢であることの価値を感じさせた。

 屁女は数年ぶりに、自分の心というものを意識した。そうさせられた。

 女の子は屁女の着物の裾をちょんと引いて、付いて来いという風に合図をした。二人でデパートを出ると、最寄りの小さな公園に入った。女の子は地面に丸を幾つか書いて、ケンケンパ、とやりだした。屁女もそれに倣った。


 いよいよ日が暮れてきた。


 どうやったのかはわからないが、女の子はペチペチという音を出した。手を叩いているわけではなかった。それに応えるように、屁女は放屁した。

 放屁すると女の子はケタケタと笑い、またペチペチと音を出した。

 カンカンカンカン。遠くで踏み切りの鐘が鳴った。

 屁女は放屁した。

 夜が更けて行った。

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