#5


 ペッチペチの母は翌朝、町に出た。数年ぶりに、その家の敷地から外に出た。あまりに長く同じ場所に留まっていたためか、遠くまで出歩くことに臆病になっていた。よろよろ、のたのた、歩いて、人間に怯え、カラスに怯え、町の高台にまで来た。

 町を見下ろした。これから移住できるような家が、まだこの町に残っているものだろうか?

 住みやすい場所……。

 妖怪の場合には、人間のように間取りなどは気にしない。その場に居ることが、その妖怪にとって、相応しいか否か。それだけだ。人間からしたら、「相応しいか否か」という条件は曖昧に聞こえることだろう。しかし妖怪からしたら、人間の尺度の方が断然曖昧で、しかも無益なものだった。広く、きれいに区分けされた家を人間は好んだ。何故だか分からないが。

 一方、独特な価値観で住処を探すペッチペチの母だが、町を見渡す限り、彼女ら親子にとって住み良さそうな場所は見当たらなかった。

 こんな田舎町でさえ、余りにも電気的な生活基盤が根付いていて、夜は明るくなり、妖怪にとっては厳しい時代が来たものだと嘆息せずには居られなかった。夜中まで光り続けるコンビニエンスストアが、外出を数年間も妨げる原因だったかもしれない。


 自分の、自分達の運命がどの方向に向かっているものか、そんなことは分からなかった。

 妖怪だろうがなんだろうが、先のことは分からないのだ。

 どんな人間も神様も、世界を統一出来た者は居ないのだから、下っ端妖怪に先のことなんか分かる訳はないのだった。

 高台から町を見下ろすと、色々な考えが湧き上がってきた。住処くらいは何とかなりそうな気になる。


 ――ザザザ。


 背後の山で、木々がざわめいた。木々がざわめくのは、風が彼らを動かした時と、風が彼らを動かしたのに便乗して精霊が騒いだ時だ。

 精霊とは、いわば虫みたいなものだった。つまり、危機管理能力だけが妙に発達していた。

 山に何か、異物でも入り込んだのかもしれない。ペッチペチの母は思った。

 数年前にも、このようなことがあった。何者かがこの山に入り込んで、そのせいで精霊が大騒ぎを起こしたのだ。風が変わり、異常気象が発生して、人間の農作物に大きな影響を与えたものだった。

 そのとき人間は、不作の煽りを受け生活苦に襲われた。心の余裕をなくした。そのために、対人間というところに存在意義を置いている妖怪たちは、非常に苦しい妖怪活動を強いられたのだった。人間あっての妖怪だ。しかし、妖怪あっての人間でもある。人間の方はこの仕組みを理解していない。妖怪もほとんどが理解していない。


 さて、ペッチペチの母が木々のざわめきを見せる山のほうを窺い見ると、確かに異様な感じがした。大きな力が感じられた。ゾッとするような意志が感じられた。カラスが何十羽と群を成して、何か警戒するような、あるいは警護するような動きを見せていた。

 山沿いの家には特に古い民家が多くて、そこを根城にする妖怪たちは多く居るはずだ。妖怪という存在の不憫なところは、その移動にある。多くの妖怪にとって、移動という行為は大きな体力を奪い、リスクを伴った。そこに苦を感じないのは憑依型や放浪型の妖怪となる。彼らは逆に、留まることに苦を感じる。自由意思で移動と滞在を繰り返すのは、一部の選ばれた妖怪だけだ。選ばれた妖怪たちは、より人間と近い感覚を持っており、より暴力的でもある。良い噂、悪い噂、あることないことが噂話となって飛び交っていた。


 母さんは森を見た。


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