#17


 屁女は復帰して一発目の仕事を終えた。上手く行ったが、特別な感想は無かった。

 その後は、近くの小さな公園で日暮れを待った。

 妖怪とは孤独なものだ。大抵が、一人で仕事をして一人で眠りにつく。妖怪同士の交流は少ない。偶然に出会っても、軽く会釈するくらいなものだ。


 屁女に近い存在としては、仙人がいる。仙人には、屁っこきとしての生き方を教えてもらった。仕事の場所やタイミング。屁の限度。寝床。禁忌。しかし、そんな仙人とも、一年に一度会えば多い方だ。特に会いたくも無い。仙人と会ったって面白いことなど何もないのだ。わざわざ雨の日に、特段用事も無くやってくるような人だ。

 仙人は妖怪同士の連絡網を持っているようだが、屁女に誰かを紹介するわけでもなかった。


「はぁ……。ぷーぅ……」


 心も雨模様。しとしとと、一年中雨季の心に、あるとき小さな日が射した。それがあの娘っ子だった。ぺちぺちと、音を鳴らして見せた。笑って見せた。話しかけてくれた。話しかけたら答えてくれた。具合が悪くなると、心配してくれた。だけど、どこかに消えてしまった。

 屁女は、海の方面に歩き始めた。


 妖怪っていうのは孤独なものだ。そんな妖怪に小さな日が射して、その温かさ教えられた。温かな物がどれだけ愛おしいかを教えられた。しかし、小さな太陽がまた雲に隠れると、急な冷気で肌が引き裂かれそうだった。

 孤独の痛みを思い出し、屁女は小さな太陽を求めて歩いていた。

 この日は快晴だった。昼間の内に散々日光をばら撒いた大きな太陽は、燃え尽きたように、しかし得意気に海へ沈んで行った。


 屁女は、傍目から見るとただの地味な若い女だ。百年前の地味系女子だった。姿を現したままでも、人間に何かを疑われることはなかった。

 一度だけ知らない人間に、「勝浦さん!」と声をかけられて魂消たが、直ぐに向こうが人違いだと気づいて苦笑いを浮かべながら去って行った。屁女は、自分は人間の時に勝浦という名前だったのかもしれないと考えたが、その仮説を進展される術も無く、いつしか、間違われたのが何という名前だったのかも忘れてしまった。

 そんなことが無ければ、ただそこに存在する女に過ぎなかった。誰も、気にも留めなかった。小汚い浴衣の時は少々目を引いたが、洋服を着ることの方が多かった。現代の二十代よりも随分老けて見える。しかし、肌は乙女のそれだった。

 屁女は鏡を見ると、しばしば、こう思った。

 私が人間だったとき、この年齢、この外見で死んだのであれば、さぞかし惨めな死に様だったことだろう。妖怪に化けて出たくらいだから、きっとそうに違いない。親類は悲しんだだろうが、多くの人間は話の種として彼女の死を何度も口にしたことだろう。亡骸に一方的な情を被せて、自分が厚情の持ち主であると周囲にアピールした人間もいただろう。きっと。きっと。

 屁女は空っぽのタッパーのような自分の顔を、むなしいと思うことがあった。魂が透けて見えているようだった。


 夜が更けていた。

 歩く屁女の顔にヘッドライトが当たって、去った。ヘッドライトが去った後の闇は、その前よりも暗かった。

 歩くのに疲れ、屁女は縁石に腰を下ろした。

 引き返そうと思った。情熱が落ち着いたのだ。

 悲しみはあの子を思い出させるけど、情熱に薪をくべることを止めた。

 不安が大きくなっていた。

 その不安は無力感に塗れていて、引き返す気力も奪って行った。民家に潜り込んで一夜を明かそうか。しかし、見つかる危険がある。元々、隠れるのが上手いタイプの妖怪ではないのだ。下手な行動はできない。そうだ。温泉街まで下りて行けば良い。温泉宿なら人間に見つかる心配も軽減されるし、温泉に浸かれば疲れも癒えることだろう。元々その方面に向かっていたのだ。一石二鳥とはこのことか。


 もう少し、頑張って歩こう。


 屁女は腰を上げ、再び歩き始めた。もう何十分も車とすれ違っていない。それなのに、道には狸の死骸だけが転がっている。屁女は手を合わせて、前を向いて歩き、宇宙からポッコリと飛び出した疣痔のようなお月様にも目をくれず、しかしその恩恵を受け、ふと、さっきの狸は野犬にやられたのかもしれないと考え付いて恐ろしくなりながら、うるさい鳥も犬猫も人間も車も名産の佃煮を生産する工場も冷たく寝静まった町を横切り、無休で鳴き続ける勤勉な海の近くまで出た。

 疲労困憊。宿を探した。知った所が幾つかあった。以前に何度か訪れている。街は数年で様子を変えてしまうが、温泉街は変わらなかった。「古い」ということを「歴史」と言い換え、そのことに誇りを持っているようだった。


 屁女は、手近な宿に忍び込むと、一直線に風呂に向かった。

 館内は空いていた。風呂もガラガラだった。日が落ちて、気温がぐーんと下がっていた。服を脱ぎ、露天に出た。

 生き返るようだ。満天の星々は鋭く光る。素足で踏んだら傷だらけになってしまうだろうね。湯気が上がっている。もうすぐ冬。年を越せば、雪が降るだろう。海は雪を物ともしない。海が鳴いている。真っ黒な海。墨汁でできているのではないかしら? どこかで、こんなセリフを聞いた。少女のセリフ。泣けてきた。涙が出てきた。涙がツツツと頬を伝って、控えめな顎から湯に落ちた。鋭かった星が涙で濁って、綿花みたいに膨れた。喉に大きなつっかえができて、つっかえが喉を押し上げるたびに涙が溢れ出た。屁女は真上を仰ぎ見て、半分口を開けたまま流れるままに涙を流した。自分に何が起こっているのか、まったく理解できなかった。でも、時々こんなことがあるのだ。


 しばらくして、お湯で顔を洗い、屁女は、この後どうしようかと考えた。

 ここを拠点としてあの娘を探そう。外来妖怪の様子を窺って、策を練ろう。仕事も何とかしよう。よく眠るようにしよう。

 目が冴えてきた。星は鋭さを取り戻した。屁女は一人きりの露天で、気が済むまで湯に浸かっていた。屁が出て、源泉かけ流しの湯を気泡が昇った。


 海沿いの国道は、たまに走る車のために待機していた。

 その向こう、誰も見ていない砂浜では、黒い塊と小さな妖怪の子供が遊んでいた。

 

 空では流れ星が走り、月にぶつかって弾けた。


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