#13


 その日、屁女が帰宅した時には、床は冷えて鋭く軋んだ。


 ずっとこの小屋に住んでいた。

 たまに小屋の持ち主が、要らぬ荷物を置いたり、持って行ったりする。そのとき以外は、人の近寄らぬ場所だった。

 小屋の持ち主は相当な爺さんだ。夏は干物が置かれ、冬場は漬物が置かれる。年中、古い酒が置かれている。酒は焼酎日本酒梅酒ウィスキーと強化ワイン。酒は盆と正月に大量に持ち出された。

爺さんは、たまにやって来ては草刈りなどをして、帰って行く。この小屋になにか棲み付いていることには気付いているらしく、必ず手を合わせて帰って行った。


 神様ではないのだけど……。


 漬物が美味く仕上がるのは、小屋に住み付いている神様のお陰だと信じて疑わなかった。

 実際は、屁女は漬物に触れもしなかった。彼女は小屋の中に有る物に対して、何の興味も示さなかった。森の植物。楓やツツジやおぞましい羊歯植物にも興味が無かった。無数の小さな蜘蛛や蟻や山ミミズやムカデにも関心が無かった。ただ仕事をこなして、ただ存在するために存在していた。孤独も悲しみも喜びもなにもかも、日々のスパイスにもならずに床に零れ落ちていた。

 しかし、太陽は重要だった。太陽は暖かかったし、表情があった。コミュニケーションが取れた。屁女は、夜が嫌いだった。月には興味が無かった。月は見上げなければならない。太陽は見上げなくても良い。


 じっと朝を待った。妖怪になって何十年、何百年経っただろう。元は人間だった。人間だった頃の記憶は無いが、人間だったのだという自覚はある。だから、人間だったのだ。しかし、何らかの理由で死んだ。病死か事故死か老死か自殺か他殺かなんだかわからないが、全人類の前例に倣って死んだ。ただその時に少し、屁にまつわる無念を残したようだった。

 屁女がどんな無念を引きずって妖怪化したかなんてことは、誰にとってもどうでも良いことだった。屁女は布団で眠り、以前は人間と同じように食事も取っていた。

 しかし、食事を取ることが時間の無駄だと分かり、やめた。

 人間の頃はどのように生きていたのか、屁女は自分の生活の端々から読み取ることが出来たが、特にそのことを知りたいわけではなかった。


 退屈とは無縁だった。存在するために存在している妖怪は、退屈にめっぽう強い。

一日や二日、何もせずに佇んでいることもできる。人間と違って、下らない競争心や探究心やちょっとした快楽を負うことがないからだ。慢性的な死への恐怖心に支配されている人間とは、本質が違った。


 屁女は、それから三日間小屋に籠った。


 一日のほとんど、耳に入る音だけを聞いて過ごした。

そして三日目の明け方、人差し指で木目をなぞっていると、不意に屁が出た。屁女は喜んだ。ニヤッと笑って、すぐに真顔に戻った。でも、内心は凄く喜んでいた。屁が出て喜んだのは、初めてではない気がした。もしかしたら人間の時に、同じような経験をしたのかもしれない。


 その日は雨だった。雨は感情を持っていた。感情的だった。山を葉を土を屋根を

打ち、自分がこんなにも降っているのだということを主張した。外を見ると、雨は無限の世界に広がっているように見えたが、たかだか数十キロの範囲でしかないらしい。

 ともかく、その日は雨だった。

 雨は変化だ。漬物には良くないが、妖怪にとっては一つの楽しみだった。


 足音がした。チャ。チャ。チャ。屁女は小屋の奥に隠れ、姿を消した。スッと、引き戸が開いた。


「隠れることはないぞよ」


 その声は酷く濁っていて、落ち着いていた。まるで、言葉がぶつ切りにされて出てきたような声だ。


「せ、仙人……?」

「そうそう。仙人じゃ」


 小屋を訪れたのは、屁の仙人だった。屁の仙人は、屁女にこの小屋を紹介してくれた妖怪であり、様々な場面で面倒を見てくれた恩師だった。長い髭に緩んだ顔面を隠していて、貧相な体には白装束をまとっている。外見からして、仙人然としていた。


「本当に。仙人?」

「そうそう。仙人じゃ」

「本当?」

「そうそう」

「あ、そうですか。どうぞ。中に」

「元気だったかいの」

「あ……」

「なんじゃ?」

「本当に仙人?」

「仙人じゃ」

「ほっ……」


 屁女は姿を見せた。小屋は物々に溢れているが、スペースにはまだ余裕があった。人間が代々受け継いでいる骨董品が入った箱の上にはカビた古書が乗っていて、その上に小さな馬の置物が置いてある。

 午年まで出番の無い置物だ。

 その前に丸椅子が二脚あり、屁女と屁の仙人はそこに座った。仙人が椅子に座ると、微かな異音が止むことなく続いた。

 驚いたことに屁の仙人は、常に微量の屁を放ち続けているのだった。


「ほっ、じゃないでしょうに。用心が過ぎるってものだよ」

「はい」

「屁は出たかね?」


 屁の仙人は屁女から相談を受け、ガス回りの良くなるような呼吸法やマッサージの方法などを教えていた。「腹を『の』の字にさすると良いそよ」。屁女はそれを実践していた。


「出ました」

「そうかそうか。そりゃ一安心」

「おかげさまで」


 屁女は蚊の鳴くような声で言い、不器用な愛想笑いを浮かべた。


「やっぱり、病み上がりの一発は豪快に決めたんじゃないのかね?」

「いえ。特に」

「ああ、そうなのか。特にか……。わしが二百年前に腸をこじらせて三か月間も屁が出なかった後なんて、隣の受験生が女の悲鳴と間違えて聞き耳を立てたくらいの突き抜けるような屁が出たものじゃが」

「さいですか……」

「ああ。騒ぎを聞きつけた町奉行がやって来ての。でも、屁だと言ったら家じゅう調べて帰って行ったわい」

「さいですか」

「この話に興味はないか?」


 屁の仙人は自分で茶を入た。水道も電気も通っているこの小屋では、妖怪の嗜み程度に飲食することもできた。


「屁以外に、なにか悩み事でもあるのか」

「なんでしょ」

「なんでしょって、自分のことじゃないか。何でも聞くから、話してみなさい」

「女の子……」

「女の子?」

「ぺっちぺち」

「なぞなぞかのう」

「ぺちぺち」

「ああ。ペッチペチの親子のことかいな?」

「さいです」

「それがどうしたんじゃ?」


 屁女は、ペッチペチ娘が不気味な妖怪に浚われたことを話して聞かせた。屁女の声は小さく、脈絡なく話すので、屁の仙人の小さく乾燥した脳みそではなかなか理解に苦しんだ。

 うーんと考えると、仙人の屁の濃度が上がった。

 屁女は雨の様子を見るふりをして新鮮な空気を吸い、戸を僅かに開けたまま帰ってきた。


「なるほど。大体理解したぞい」


 仙人はお茶をすすって漬物をかじった。屁女は、あまり中のものを飲み食いされると、自分の存在が小屋の爺さんにバレて追い出されるのではないかと恐れていて、アホみたいに漬物を齧る仙人が憎たらしく見えた。


「恐らく、外来の妖怪に関係した奴じゃろう。思えば、そんな話を『丸太かつぎ』の奴が言っておった気もするしの。うん。この漬物、まだやっぱり浅いようじゃ。こっちのは? キムチ? へえ、朝鮮の辛い漬物か……。うわ、からっ……。そしたら、あれじゃ。うん、わしは帰るぞ。その子供の話、妖怪回覧板で回してみるでの。何か分かったら連絡するわい」


 屁の仙人は帰って行った。屁女は水道で湯のみを洗い、冷たい水に震えた。

 雨は強くなっていた。

 屁は出たが、仕事は休もう。町に出るには体がしんどい。

 娘のことを考えた。ペッチペチの母はこの二日間、娘を探し続けているらしい。自分も探しに行きたい。屁女は思った。また一緒に遊びたい。あの子は良い子。

 締めた蛇口から、タタタと水が零れ落ちた。

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