#21
「なので私、行ってきますね」
言ったものの、行きたくなかった。あの妖怪は恐ろしいし、あの男は気持ち悪いし、若干遠いし、今日はさっさと寝たいし……とにかく嫌だった。
「もう少し夜が更ければ、俺も一緒に行ける。急がなくても良いんじゃないか?」
岩男が言った。
「いえ、大丈夫です。ヒッキー」
「なんだよ」
「一緒に行こう」
「ええっ? おいらは行くだけ邪魔だよ。岩男が一緒に行くならまだ良いけどさ。おいらとあんたで何ができる?」
「分からないけど、あんたが一緒に来てくれないと、私も外出する気になれないんだよ。多分」
「まあ、そうなんだけどさ」
「ちょっとは責任感じてよ」
果歩は自分で言って厭な気になった。責任感じてよなんてことをいう自分が、浅はかでいやらしいもののような気がしてしまったのだ。
少々間が開いた。
「私も行きます……」ぺっちぺちの母さんが言った。「この家は、もうじき取り壊されますから……ですから、行きます。どこかへ行かなければならないので、先ず、そこへ行きます」
「でも……」
果歩は内心、このペッチペチの母こそ家で待機していて欲しいと思ったが、断る口実が見つからなかった。
心もとない妖怪討伐。まさか、お供選びの段階でこんなに苦戦するとは……。
果歩はひきつき坊の腕を取り、家を出ようと頑張った。足が進まなかった。こいつといると、いちいち屋外に出るのがしんどい。母さんが付いて来るのを背中で感じた。家を出た。外は夜の帳。目を凝らしても、見開いても、一向に晴れない闇だ。果歩は顔を歪めた。
無理無理無理……。
弱音を吐いた。夜は恐ろしかった。自分が先頭切って進むには、夜は強すぎる。
肝試しとか、本当に苦手なんだよねと言ってから、自分が話し掛けている相手が妖怪だと思い出し、脱力して笑った。
「何がおかしいんだ?」
ひきつき坊はいつもの調子だ。こんな意味不明な物にも、じきに慣れ、親近感を覚えて行く自分は嫌いではない。この生意気な妖怪に心を許すのは不本意だが、いつまでも突っぱねているだけでは進歩が無いだろう。きっとこんな具合で、数々の女がどうしようもない男に引っ掛かってきたのだろうな。大人ぶり、果歩は思った。
バスに乗った。最終のバスだった。今日中に帰ることが出来ないということだ。
憂鬱になった。でも、みんなが付いているから平気だろう。岩男もその内来ると言っていたし。でも、あんな大きな岩の妖怪が旅館なんかに来たらパニックになってしまうかもしれない。あの、廃ビルで出会ったセックス野郎どもみたいに、みんな失神してしまうんじゃないかな?
旅館の最寄り駅に着いた。果歩らの他には誰も降りる者はいない。誰も乗っていなかったからだ。
歴史ばかり重視してきたこの温泉街では、温泉協会なるジジイの溜まり場で、役員たちが互いをけん制し合い、どこか他が潰れるのを今か今かと静観している。向上心というものが無い。すました顔をして、排他的な保守主義を貫くための見積もりを各々で立てているのだ。
しかし、共倒れになるのも時間の問題だ。みんなで衰退して、いつしかコアな客しか訪れないような萎びた温泉街になることだろう。今だって、観光ガイドでは穴場扱いされているのだから。
温泉街は静まり返っていた。波音が微かに聞こえた。塩のにおいに慣れたころに、硫黄のにおいが飛び込んでくる。紛うことなき、おならのにおいだ。
果歩は地元ながら、このにおいが苦手だった。電信柱で住所を確認した。海岸沿いの国道を歩いた。線路を渡って路地に入って、坂道を上がって行くと十数分で旅館に着いた。歴史とプライドを感じさせる外観だが、それにしては少々、照明がキツ過ぎるように思えた。果歩は南に電話を掛けた。相手はすぐに出た。
「もしもし?」
南の声は強張って情けなく、声の強弱にむらがあった。
「もしもし。あ、果歩ちゃん。ちょっと、急いで来てくれるかな。あのー……なんか様子が、何て言ったらいいかな……」
「なんですか?」
「とにかく、来てくれないかな。三階の『よもぎの間』だから。女将に伝えてあるから、受付で名前だけ言って。お願い」
電話を切った。果歩ちゃんって言うんじゃねえよ気持ち悪い。
しかし、どうも声の調子がおかしかった。心配じゃないってこともない。旅館の人に名前を告げると、どうぞいってらっしゃいませ、がんばってくださいませといった感じで中へ通され、嫌な予感がした。
よもぎの間に向かった。
エレベーターは無い。頑丈な木の階段には小さな緑の絨毯が敷いてあって、人間一人と妖怪二人の足音を見事に消した。
この場に不似合いなダッフルコートが派手に揺れ、首元がむず痒かった。本物か偽物化、広葉の観葉植物に見送られ、よもぎの間に着いた。
開けると、南が、はだけた浴衣姿で大の字になっていた。
鼻の穴には、とんがりコーンが刺さっていた。
その光景に、果歩は度肝を抜かれた。
「え! なにこれ、どうしたんですか!」
果歩が駆け寄ると、南は左の頬をグッと上げて渋い顔をした。
「急に体調が悪くなって……。こうしていると、多少良いんだ」
「何かに取り憑かれたんですか!?」
「いや、分からない……。ただ、こうしてると楽なんだよ」
「塩、塩……」
果歩は昼に南が買っていた塩を探した。見当たらない。クソ。とんがりコーンが鼻に刺さるくらいは何てことないが、万が一死なれたら困る!
何の気なしに開けた備え付けの冷蔵庫で、潮を見つけた。この人、塩を冷蔵庫に入れるタイプの人なんだ気持ち悪い……。
袋のまま塩を持って戻った。塩を一握り掴んだ。指の間から、サラサラと零れ落ちた。
「喰らえ!」バッサーと、南の顔面に叩き付けた。「どうですか?」
塩南は、顔面の塩を手で払った。
「しょっぱい」
その後も一向に良くならないので、除霊は諦めた。きっとこいつ、変なものでも食べたのだろう。
果歩がひきつき坊を見ると、ひきつき坊は押し入れに入って行くところだった。ああいう場所が落ち着くらしい。
母さんは、旅館のお手伝いさんと話をしていた。あまりにも素朴な恰好をした手伝い女は……いや、しかし、不思議な感覚があった。
「母さん」
「なんね」
「そのひとは?」
「この人はね。屁女」
妖怪だ! 果歩は確信した。屁女という名前の仲居などいない。いたとしたら、あまりにも悲しい身の上ではないか。
「その屁女さんは……」
――ぷーぅ
「屁女さんは、どうしてここに……。くっさー」
果歩は急いで窓を開けに行った。ガラガラと大窓を開けると、海の上を滑ってきた冷たい空気が部屋に流れ込んだ。
新鮮な空気を吸い込むと、胸がスッとして軽くなった。寒い寒いと言って、南は上着を着込んだ。窓を閉めた。
「今、僕に話しかけてた?」
「話しかけてないですよ」
「そうか」
「気分悪いの、治ったんですか?」
「空気を入れ替えたからかな。多少良くなった」
「とんがりコーン取ったらどうですか?」
「ああそうか。でも、これ差しといて良かったよ。鼻に塩が入らなかったから」
「へぇ……」
「ガスか何かが漏れてたのかな。それで体調が悪くなったのかもしれない」
「そうかもしれませんね」果歩は屁女のことを見た。「っていうか、臭くなかったですか?」
「部屋?」
「はい。部屋」
「硫黄臭かったよ」
「ああ、それですね、硫黄じゃないですよ多分」
「え、僕の体臭?」
「違います。この部屋、妖怪がいるんで……」
「あそっか。そうなんだよ。足音が聞こえてさ……。誰か近くにいるような気がして、気持ち悪かったんだ。なんなんだろう?」
「だから妖怪ですよ」
果歩は南に、この部屋には現在、合計三体の妖怪がいることを話した。南は、幽霊はいないのかと聞いた。分からない。と果歩は答えた。ぺちぺち音がする! 南は言った。それも妖怪ですよ。妖怪? はい。「ぷーぅ」。屁女が屁を放った。くさっ! 今の果歩ちゃん? 妖怪ですよ! 果歩は屁女に、屁は我慢できないのかと聞いた。できます。できるんだ。はい。じゃあしばらく我慢してくださいね。はい、あ、最後にちょっと……。ぷーぅ。くさっ! 南は具合悪そうに寝そべって、とんがりコーンを鼻に差した。
「今、窓開けますから」
果歩は窓を開けた。新鮮で冷たい空気が入ってきた。ああ、気分が良くなった。
「あれ?」
果歩は、外の暗闇に目を凝らした。海岸。何か蠢くものがあった。その影は、人の形ではなかった。あんな、ポットのようなフォルムをした人間が居るわけない。動物? なぜ海岸を動物が……。
窓を閉めて、今日は何とか南に金を出させて旅館の別の部屋に泊まろうと計画し、一階の売店に足を向けた。
ロビーでは、見知らぬ老夫婦が軽く言い合っていた。携帯電話の扱いで苦戦しているらしい。
誰かの向上心に付き合わされるのが、この世の中だ。
お菓子を買って戻ると、テレビを点けてバラエティー番組にチャンネルを合わせた。妖怪たちは三人で話し合っていた。
「岩男が来たら海の方で会議しよう」。ひきつき坊が言った。
一人アホ面でテレビを見ている南は、やたら果歩のことを観察していた。まだこの状況に慣れず、果歩のことを怪しんでいるようだった。
果歩は妖怪たちの話に適当な相槌をしながら、お菓子を食べ、テレビを見て笑った。妖怪と喋れるなんて、傍から見た自分は奇妙だろうなと思った。まあ、天真爛漫で不思議ちゃんな自分というのも悪くない。今後は、このキャラで行こう。南を見た。南は、果歩のことを見ていた。なになにキモい。と思っているうちに、南は果歩の肩に手を置き、押し倒した。
うわあ! へへへ、変態じゃあ!
この変態野郎ぶっ殺すと頭では思ったものの、声が出なかった。喉が引っ付いて、腹が震えるだけだった。
「やめ……」声を絞り出した。
「でも、こんな、部屋に二人きりで……」
そうだ。こいつにとっては二人きりの部屋だった。妖怪を見た。人間のことなど、全く目に入っていない。あの有名な妖怪さん達は人間も助けるのに!
「ちょ、待って」
「キス……キスだけ」
キスだけと言いつつ、完全に奴の手は胸を揉みしだきに来ている。胸は諦め、南の迫り来る地獄のキス顔を両手で押さえた。
なんて屈強な首筋なんだ!
グイグイ迫ってくる恐怖の顔面と、ギュウギュウ絞られる乳。コートを着ていて良かった! くっそー。こういう時のためにみんな部活をしてるんだな。私は帰宅部であるばかりに、こんな男に襲われるわ、変な妖怪に絡まれるわで散々な目に……。
「あっ!」果歩は自分でも思わぬ大声を出した。
「えっ!」と南は飛びのいた。
「さっきのがそうだ! おはぎの妖怪!」
妖怪たちが反応した。南も、たった今目を覚ましたように姿勢を正した。
「どこに?」
「外。海岸に居たかも……」
「行こう!」
南は塩を持って、勇気凛凛部屋を出て行った。
あの野郎、今のを無かったことにしたいのか? こっそり通報してやろうかと思ったが、妖怪たちもいそいそと出て行ったのでそれに続いた。
外に出た途端、南は「寒い」としか言わなくなった。ガタガタ震えていた。浴衣だからな。可哀そうに、天罰だろう。
海の方面に走った。海の方面に走りながら、果歩は、もうおはぎの妖怪は去ってしまっているだろうと思っていた。ずいぶん時間が経っているから。でも、ペッチペチの母の手前、一緒に走った。海岸に着いた。
「さっ、ささ寒い!」
南が手にしている塩は少しずつこぼれ、道しるべのように旅館へと尻尾を伸ばしていた。その塩を辿ってか、遅れて、ペッチペチの母と屁女が追いついた。
「いないね」果歩は声の震えを隠せなかった。
ぺちぺち。
「娘の反応もないです……」
「そうですか」
「妖怪も来てるの?」
「うん」
残念さ半分で、しかし、こんな暗闇の海岸にヌッと巨大おはぎが出てこられたら失神するかもしれないなと、安堵もしていた。
満ち潮の力を借りた強い波。酔っ払いが布団に倒れ込むようにして、砂浜へなだれ込む。
人間二人と妖怪三人は、砕氷の散りばめられた夜空の下、得体の知れない探し物が消えて行った闇を覗き込んでいた。
「おい」
声がした。皆、振り向いた。
岩男だった。
南は失神した。
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