CENTER OF NARRATIVE GRAVITY
Sacrifice
カコン。
閑寂な古刹より、時を刻むわびしい音が鳴りひびく。その門の前にぼくは立つ。
この屋敷はまるで世界から孤立しているかのようにひっそりと佇んでいる。あるいはこの場所のまわりに漂う霊園のような空気がそう感じさせるのかもしれない。あの世にいちばん近い場所。ここまで来るのに、ぼくは一本の川を渡ってきた。その橋のふもとにはいつも小さな花束が供えられてある。ぼくは少しだけ立ち止まって祈りを捧げ、子どもたちが雪で遊んでいるそばを通り抜けて来た。日が高くなるにつれて外灯は残業を終えたかのようにみずからを消し、まもなく正午というところだった。
考えてみればふしぎなことだ。前にここを去ったとき、ぼくは限りなく現実に近い場所――いわば小説の外側にいた。しかし今、ぼくはここで受け取った小説の中にいながらにしてこの屋敷を訪れている。そこには奇妙な時空のねじれがあった。ここで、この屋敷が小説の内外で二重に存在していると考えるのは誤った推理だろう。むしろあらゆる時空が、この屋敷を軸にしているようにぼくには思われた。
「――それでは、あなたは物語と心中することにしたのですね」
ぼくの立ち話を聞いて、かりんはそう直言した。
「違うさ」とぼくは自信をもって答える。「ぼくはこの物語の中で主人公として生きていく。それだけのことだ」
「たとえそれが現実ではないとしても、ですか?」
「ああ。ぼくはこれまでの魂の遍歴を通じて気づいたんだ。絶対的な現実など存在しないとね。だからそれは、現実の定義の問題になる。ぼくの生まれ育ったこの世界が現実ではないというのなら、ぼくはきっと虚構の中で生まれた人間だったのだろう。それでもぼくは、この世界を愛してる。なぜならここは、ぼくにとって現実と同じ価値をもつ世界だからだ」
眼前にひろがる堂塔伽藍の風景がぼくたちの声を包みこむ。一晩寝ていないので頭が痛く、時の流れも早く感じる。そろそろユキは起きているだろうか。ぼくのことをひどく恨んでいるかもしれない。……なにか、想いが飛んでくるような、そんな胸騒ぎがする。
「では、今日はいったいどのような用件でいらしたんですか。そこまで考えを固めておられるなら、今更ここに来る理由などないのではありませんか」
「報酬を受け取りに来た」
「はあ、報酬、ですか」
「そうだ。ぼくはまだ例の実験に参加した報酬を受け取ってない。その金がないと、妹にクリスマスのプレゼントを買ってやれないんだ。この世界に住む一人の兄として、それだけは絶対やり遂げなければならない気がする。だから今、どうしても収入がほしい」
小綺麗な和服に身を包んだかりんは一瞬、疎ましそうな視線をぼくに注いだあと、言った。
「報酬なら、すでに手渡していますよ」
「なんだって?」
瞬時に記憶を遡ったが、そのようなものを貰った憶えはなかった。
「……まさか、小説がその報酬だなんてことは言わないよな?」
「いいえ、違いますよ」
かりんは首を振った。
だとしたら、彼女から受け取ったものなどひとつしかない。
「もしかして……これのことか?」
懐に隠していた小さな刃を取り出して示すと、彼女はそれを見て確かにうなずいた。
「その小刀は、そこいらのものとは出来が違います。売ればそれなりの値にはなるでしょう。ただし、同じものは二度と手に入らないと思ってください」
確かにその鋼といい柄といい、まるでこの世のものではないかのような精巧な美しさだった。しかし、とぼくは考える。これは彼女にユキを殺せと言われて渡されたものにほかならない。それを売り払うことはぼくにとって非常に多くのことを意味する。はたして本当に金に換えてしまってよいのかどうか、悩むところではあった。
いや、ぼくはもう決めたのだ。どんな困難が立ちはだかろうと、この世界と共に生きていくことを。
「わかった」
礼は言わない。彼女も望んではいないだろうから。
「用件はそれだけですか? では、どうぞお元気で」
そう言って、立ち去ろうとするそぶりを見せる。
「待てよ」
「なんですか? わたし、これからしなければならないことが山ほどあるのですけど」
ぼくは構わずに問いかけた。
「なぜ、嘘をついたんだ?」
「……嘘、ですか」
「そうだ。ユキは《夢喰い》なんかじゃなかった。彼女もまた、この物語の中に生きる一人の人間だったんだ。それをおまえは適当に理由をつけてこじつけて、ぼくにユキを殺させようと仕向けた。そうだろう?」
「それは……」
「それに、ユキがぼくの心に寄生する存在だというのなら、おまえがその姿を見て、話しかけていたのはおかしいじゃないか」
かりんはばつの悪そうな顔をして黙り込んでしまった。仕方がないので、ぼくは次のように続ける。
「べつに謝れと言うつもりはない。ただ、どうしてあんなことを言ったのかが知りたいだけだ。そんなにぼくらの仲を引き裂きたかったのか」
ユキはぼくに黙っていた本当のことを話してくれた。それは嘘でも間違いでもないとぼくは思う。ただその話を信じるならば、かりんの説明とはいくつか食い違うところがあった。ぼくはいまその点について問いただしている。
カコン。
静寂のあと、地をつたうように洩れてきたのは、なんとも不気味な笑みだった。
「ふふふ、ふふふふ……」
普段の落ち着き払った態度との違いにぼくは不覚にも動揺を覚える。追い詰められた人間がよくそうするように、かりんは笑っていた。
「なにがおかしい」
彼女はぼくの言葉など耳に入らないといったそぶりで腹を抱えて笑っていたが、やがてその衝動がおさまると見たか、酔ったような素顔でぼくに向き直って言った。
「見本さん、あなたという人は、本当にどうしようもない人ですね」
「そうだな」
木々がざわめきだす。まるで彼女の心に呼応するかのように。
「どうしてそこまで無知でいられるのか。無知でいながら、人の話を聞こうとしないのか。だからあなたはいつまでも子どもなんです。わたしの言う通りにやっていればよかったものを、あなたはいつもそれを台無しにする。そして今度はわたしが悪者ですか。ええ、そうですよ、確かにわたしは嘘をつきました。でも、それがなんだと言うのですか? 他人の人生を奪うことにくらべれば、わたしのやったことなどかわいいものじゃないですか」
これは女という生き物によくある開き直りと責任転嫁だ。真に受ける必要はない。彼女はただ、自分の目論見が外れたことを悔しがっているだけなのだ。
だが、最後の一言が妙に引っかかる。
「なあ、かりん」
「嫌ですよ」
「まだ何も言ってないぞ」
「わかりますよ。どうせわたしのことが知りたいと言うのでしょう? あなたがたは、人は、これだから嫌いなんです。自分だけは別、自分だけは許されると考えて、他人の領域を簡単に侵そうとする……さもしい根性で足を引っ張ろうとする。そうやって満遍なく堕落していくんです喜んで。もういいです。帰ってください。これ以上あなたに気を遣いたくありません」
ひどい言われようだが、ぼくの心は以前のように荒れ果ててはいなかった。ぼくにはぼくを愛してくれる家族がいる。そのことがぼくに勇気と希望をくれた。この穏やかさで、彼女のことも包みこんでやりたい。できることなら、すべてを赦す海のように。
「要するに、詮索されるのが嫌いなんだな」
「そういうことです。わたし、ツンデレなどではありませんから」
「でも、ぼくらは家族のようなものだろう?」
「……はぁ?」
「身内なら、下手に取り繕う必要なんてないじゃないか」
かりんはその言葉に顕著な反応を示した。
「ど、どうしたんですか急に。とうとう頭までテクノブレイクしてしまったんですか。わたし、あなたの家族になった覚えなどありませんけど」
「本当にそうか?」
「な、なんですか」
たじり、とかりんが一歩後ずさる。おそらく意味ありげな顔で詰め寄るぼくの姿が相当気持ち悪かったのだろう。だが引き下がったら負けだ。
「おまえはぼくに嘘をついた。問題はそれだ。おまえは特に意味のない嘘をつくような人間のようにも見えるが、今回に限ってはそうじゃないとぼくは思う。おまえが嘘をついたのは、ユキに対して殺したいほどの恨みがあったからだ。それほどの恨みというものは、なかなか簡単に生まれるものじゃない。復讐の誓いでも立てない限りは」
「……それ以上言うと、エリミネイター・モードを発動させますよ」
「なら本当のことを話せ。冗談じゃないんだ」
真剣な眼差しを作って言った。
「…………っ」
かりんは狼狽えたように歯噛みしている。
カコン。
反響した音が消えたのち、彼女は静かに口を開く。それは理論武装の解かれた、彼女の生の声だった。
「だって……そうすれば……、そうすればあなたも自分の過ちに気づいて……わたしのもとに帰ってきてくれると……思ったから……っ」
「……やっぱり、そういうことだったんだな」
どうやらぼくの直観は当たりだったようだ。そう、それはたんなる直観だった。根拠があるわけでもないし、現実的に考えてありえない話でもある。ただ、なぜか確信があった。
罪を犯した少女と、身寄りのない少女。
他人の人生を奪った、という一言。
「おまえは、あのときの――」
と、話の核心に迫ろうとした、そのときである。
ふらり、とかりんが木の葉のように体勢を崩す。
「お、おい」
ぼくは咄嗟にその薄い肩を抱きかかえたが、そうしなければ膝から倒れてしまっていただろう。まるで突然マリオネットの糸が切られたみたいに、かりんは立つ力を失っていた。その身体は外気にあてられておそろしく冷たい。
「おい、しっかりしろ! なんだ、具合が悪いのか?」
間近から顔を覗きこむと、かりんは閉じていた目をうっすらとひらいた。
「すみません……どうやら少し、消耗してしまったようです……。見本さんが、あんまりいらいらさせるものですから……」
「おい、無理して立とうとするな」
「ですが……先生のところまで案内しなければいけないので……。それから、鐘をつかないといけないので……。ああそれと、枯山水も描き直さなければ……」
言った先から、かりんは一人で身体を起こそうとして足元からくずおれている。そのとき、ぼくは彼女の身体の異変に気がついた。着物の襟がはだけていて、間から白い肌がちらついているのだが、それがまた変な感じなのだ。異常なほどつるつるとしていて、肩や鎖骨のあたりに奇妙なものがのぞいている。ちょっと見ただけではわからないほど微かだが、有機的ではない、継ぎ目のような何かが。
「お、おまえ……まさか……」
「ああ……いけませんね……。こんなふしだらな格好をお目にかけるつもりはなかったのですが……。おや、いつもの半勃起はどうしたんですか見本さん? もっと悦んでくださいよ……」
その口調は頼りなく、見た目に反して、身体もずっしりと重たかった。ぼくは空いた左手を取られ、彼女の胸に押し当てられているのだが、驚いたことに、この硬い皮膚の内側からは心臓の鼓動を感じない。……かりんの身体の中には、血液が流れていなかった。
「かりん……、おまえの身体……、機械なのか……?」
「ええ、そうですよ……見てわかんねーのですか? わたしの身体はMAYUの逆……話素を燃料として動く機械です。しかし、どうやらこの物語の中で、わたしの役目はここまでみたいですね……覚悟はしていましたが、わたしは人間と違って、新たに話素を生み出すことはできないので……」
彼女が言ったことを、ぼくはとっさには理解できなかった――話素を燃料として動く彼女が、ぼくたちとは逆に、有限な感情を消費して存在しているということを。
「……冗談だろ? なあ、おい、からかうのはよせって。そういうのはもういいから。なんだよおまえ……、なんでそんなに……不条理なんだよ……」
「うるさいですね……。もういいのはこっちですよ……。ちょっと、悪いんですが、運んでいただけます? この身体、動かないので……こればっかりは……」
「い、いいけど……おまえ……これからどうなるんだ……? 機械って、死んだりするのか……? 死なないよな……?」
「はぁ……、いやですねぇ……そうやって、すぐに手のひらを返すお方は……。これ以上、私に気を使わせないでくださいよ……。もうさっさと行きましょう。私の案内がないと、あなた、迷ってしまいますよ?」
「……えっと、おんぶとお姫さまだっこ、あるけど……」
「では、後者で……」
緊急時とは思えないほど間の抜けた会話だったが、かりんが満足そうな微笑をうかべ、ぼくの頬に手をさしむけてきたとき、そこに芽生えていた崇高な情熱は、それが風前の灯火とは思えないほど力強く輝き、ぼくたちの間の影をなくし去った。たとえそれが彼女自身をいっそう弱めるものだとしても、その無辜の光はなんら損なわれることがない。こんなに近くあることがぼくには不思議に思われたが、ユキの話を聞いたときから、なんとなく想像はしていた。あのとき生まれるはずだった妹は、本当はかりんだったのではないかと。ユキを責めるわけではないが、そうだとすると、この子にとってはとてもつらいことだったろう。今までの冷たい態度も、そこから来ていたのかもしれない。……ただぼくたちはそれに触れなかった、かなしいことは言いたくなかった。なんだか泣きたくなってくるから。
熱にうかされたような調子でかりんがぽつりと口にする。
「……見本さん。ここが夢の中だとして、それはいったい、誰が見ている夢なんでしょうね」
「それは……」
もちろんぼくが、と言いかけて口をつぐむ。
彼女のものの言いかたは、なにかそれ以外の可能性について言及しているようだった。
ぼくは夢というものの存在を、本質的に自分がそれを見ているという仮定の下でしか知らない。だが、夢の中には当然のように多くの他者が存在していて、そこには夢を見ている人と、夢に見られる人との関係がある。そしてその関係性だけに目を置くなら、夢見る立場がつねに自分自身でなければならない理由はない。あくまで可能性の話だが、自分ではそうと知らないうちに、だれかの夢の中にぼくが召喚されている、ということだってありえるのかもしれない。
つまり彼女が言いたいのは……。
「MAYUは今、夢を見ている……? そしてぼくという存在は、その夢が生み出した一箇の虚構に過ぎなかったというのか……?」
彼女は答えなかった。もはや答えるための力さえ失っているのだろうか。
屋敷の中は焼香の強いにおいがした。ぼくは両腕にささやかな疲れを感じている。だが進まなければならなかった。全身が流砂に沈みこむように思われる一方で、内なる発動機が回転しているようにも思われる。ぼくはそのときぼくひとりだけではなかった。人生において、そこに流れる空気と一体に溶け合うような極稀な瞬間がある。滾々と湧き出すこの力は自分の中にはない、ぼくたちの魂が交わる別宇宙の無限遠点からやって来るように思われた。なぜこれを少しでも分けてやることができないのだろうか。力というのはなんだろう。なぜ死にかけている人間に、この余りある生を注いでやれないのだろうか。かりんが口を開くたび、その精神をすり減らしていたのだということを知らなかったことが悔やまれる。にもかかわらず、ぼくの腕のなかにある小さな少女はむきだしの心をさらすのだった……。
「ああ……もう嫌になりますね……なぜわたしにばかり、こんな役が回ってくるのでしょうか……。皮肉なことですね……。わたしはこんな物語、砕け散ってしまえばいいと思っていました……。それがかえって、物語に強度をもたらすことになるとは……」
「かりん、もうしゃべるな……!」
「いいえ、言わせてください……最後にこれだけは……! 私、心が洗われるような気がします……。幸せなのかもしれません……。こんな気持ちは味わったことがなかったので……。あの、見本さん……聞いていただいてもいいですか? 私のわがままを……」
「だめだ、何も言うな! 言ったらおまえはもう……!」
かりんはくすりと笑っている……はたしてこれが、実験によって再生された自我なのか……いや、人間そのものだ。冷たい機械の肌ならば、ぼくの体温であたたかくなれ。
「わかってます……でも、いいんです。死ぬことは怖くありません……。一度見たことがありますから……。先生にすくって頂いたんです……。思い出だけで生きてきました……。心にあるのはいつも……」
「かりん! かりん――!」
人間の身体と違い、新たな話素を生産できず、ただ減り続ける一方の心でかろうじて自我を保っていたという彼女は、おそらくその瞬間にみずからの命を使い果たし、安らかに沈黙する――ある意味では凝縮されたその生は、ひとつの物語の死だったのかもしれない――だがいま物語になった彼女の意思は、迷える魂が出会う朝露の雫のような癒しの涙を機械の瞳にこぼさせた。それを可能ならしめるのは夢や魔法などではなく、一人の少女の発する声がときに世界そのものと釣り合うこともあるのだという事実だった。ぼくは動かなくなってしまったかりんの美貌を見つめながら自分自身もすっかり消尽してしまった気がして呆けたように立ちつくす。ぼくたちはぼくたちのことをまだ充分に堪能してはいなかった、それはまだ輪郭のない可能性の萌芽でしかなかった。なのに死というこの絶対的な事件が皮肉にも完璧な形を与え、わずかな記憶から実現されえなかったあらゆる表情までもが一挙に胸へ去来して、激情によって弾かれた琴線が暗黒の中で休まることなく振動していることをぼくに知らせる。ぼくは男で、時が経ってからはじめて女性を愛し始める、狡い生き物だったのだ。……
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