Harbor

 窓のむこうに灯台が見え、そこにある電光表示によれば、雨とある。そりゃあそうだ。などと言いつつ、ぼくたちは温かい屋根の下でコーヒーを啜っていた。

 空の色は生きた羊の毛皮ように濁っている。

 目的の港町に着くやいなや、天候の気まぐれに見舞われた。赤煉瓦の地面に藍鼠いろの染みが一つ二つできたかと思うと、間髪入れず本降りになる。仕方がないので急遽予定を変更し、ぼくたちは近場にあった「アダムの肋骨」という名のカフェで雨宿りをする運びとなった。

「猫がねずみでも獲っているんじゃないかしら。ごろごろ、ごろごろって、空の上で」

「ふむ、これじゃあ漁も引き上げかもね」

 アキが言ったように、ときおり遠雷が轟いて、ケルト風のBGMをかき消す。店の中は比較的落ち着いていて、客数は多くも少なくもないが、思ったよりもテーブルが狭く、靴と靴とがぶつかり合うほどの距離で差し向かいに座るのはやはり照れくさい。なるべくここまで紳士的な態度をつとめてきたぼくではあるが、テーブルの上にこぼれ落ちているようにも見えるセーターの膨らみなんかを感知すると、いよいよ目が窒息しそうになる。

 改まって言うほどのことでもないが、奇警なファッションが許されるのは美少女だけの特権であり、その点でもアキの容姿はきわめて目立つ。先ほどからちらちらと遠巻きな視線を感じるのは、おそらくそのためだろう。……アキは気にならないのだろうか?

「あ、これあたしの好きな曲だ。ロンドンデリー・エア」

 全然無頓着な様子だった。もともと衆目に晒される機会にも普段から差がある男と女とでは、そもそも感受性の出来からして違うのかもわからない。アキは自由人だ。おのれの感性だけを信じているような気風には端倪すべからざるところがある。

「ロンドンデリーってイギリス? インド?」

 ぼくはアキの話にも興味を持っているという体を装うために軽く訊ねた。

「アイルランドよ、確か。ねえ、知らなかった曲を覚えたとたん、その曲をあちこちで頻繁に耳にするようにならない?」

「カクテルパーティ効果みたいな?」

「それ、知らない。XYZってカクテルなら知ってるけれど。あたしもいつか、バーで寂しく飲んでたらどこからともなくカクテルが飛んでくるような女になりたいわ」

「ツツジ野原で駆け回っているほうが、アキにはお似合いだと思うけれど」

「やかましいわね。あたしだって夢見る年頃なのよ。ちょっと失礼、お花を摘んできますわ」

「いいだろう、排泄を許可する」

「わざわざ下品に言い換えないでよね! それ、あたしじゃなかったらマジでキレてるわよ?」

 もちろんこんな与太話をいつまでも続けるつもりではなかった。実を言えば、入店前からずっと例の話を切り出す機会を虎視眈々と狙っているのである。しかし緊張して話がうまく進まない……。緊張している人間というのはあらゆる人間のなかで最も奇矯なふるまいをするもので、ぼくの場合はどうやらばかに態度がでかくなるらしい。

 アキの姿を見送ったあと、ぼくの視線は店内のあちこちにあるレトロ趣味のオブジェに移る。なかなか瀟洒なつくりの店で、解体された船の帆柱や竜骨などが建材に使用されているほか、舵や錨、羅針盤といった模造品レプリカが暗茶色の飾り棚に並んでいるのはおもしろい。そう考えると雨景色というのもそこまで悪者ではなかったようだ。

 さてアキは現在排泄に取り組んでいる。いまこそ時、心の船出を迎える時だ。ぼくは店員を呼びつけて追加のネルドリップを注文し、それを待ちながら「本題」に入る準備を整えていた。慎重に鞄の中から取り出したのは、神聖な小説だ。すでに汚らしく手汗が滲みだしている本物の原稿。ここにはぼくの全てがある。ぼくの魂の全てが。

(落ち着け、落ち着け……)

 今日はこれを手渡すために用意してきたわけだが、正直、不安で汗と動悸が止まらない……。この緊迫感は、実際に直面してみないことには決してわからないだろうが、自分の作品を人に託すという行為は、精神の一部、しかもを切り渡すことと同じなのだ。これからぼくがしようとしていることは、ある意味では大金を支払うよりも遥かに度胸がいる。喩えるならばピストルや爆弾のような、危険なものを扱う取引に手を染めている気分だった。持ち上げればずっしりと重く、黒檀色のテーブルに置いてもどんとした迫力がある。まるで、この世に存在してはいけないもののようだ。放射性物質のようだ。

 はたしてアキは気に入ってくれるだろうか。

 祈るしかあるまい。


 しばらくして、アキがのほほんと戻ってくるのが見えた。ぼくはテーブルの四分の一以上を占めている精神の結晶体を出したままにしておくのは都合が悪いと思い、いそいそと鞄の中にしまい直している。頭の中では計画を立てていた。物事には順序が大切だ。本体はまだ見せずに、まずはぼくのたったひとつの作品が、どれだけ自分の哲学に基づいているかという話をして、アキの興味をひかねばならない。それはすべてが有機的に組織された一大パノラマになるはずだ……。

「やーやーおまたせおまたせ。雨、もうすぐ止みそうだね。よかったよかった。で、なんの話をしてたんだっけ。あ! そういえば小説を書いたって本当? あたし、びっくりしちゃった。だってまさかあのケイが、本当に小説を書き上げるだなんて。天地がひっくり返っても、そんなことはありえないと思っていたのに」

 核心を突くその一言が、心臓をどきりとさせる。ちょっと言い方が癪にさわるが、渡りに船とはこのことだ。この際ぼくは、それが大船であろうが泥船であろうが構わない。ぼくは虚勢の帆を張って、次のように言い返した。

「うるさいよ。いつも言っているように、今まではただ書きたいものがなかっただけで、ぼく自身は生まれたときから作家なんだ」

「またあんなこと言ってる。そういうとこ、ほんと昔から変わらないのね。安心と同時に心配を覚えるところだわ」

「何を言う。アキだっていい加減その小説みたいな喋り方、なんとかしたらどうなんだ。ぼくまで移ってきちゃったじゃないか」

 アキは藤椅子にもたれかかり、目をぱちくりとさせて言った。

「あたし、そんなこと考えたことないわよ。あたしはただ、いつ写真を撮られてもいいようにお化粧するのと同じ理由で、言葉にも気を遣っているだけ」そして突然身を乗り出してくる。「ねえ、聞いてもいい? いったいケイがどんな小説を書いたのか、あたし、興味あるんだ。ミステリー? SF? それとも文学かしら? 寺山修司や澁澤龍彦みたいな?」

「え? いやあ、ええと……。まあそういう要素もあるかもしれない……」

 アキは純真な気持ちで訊いたのかもしれないが、ぼくはなんというか、すごく、申し訳ない気持ちになってしまった。寺山修司? 澁澤龍彦? いったいなぜそんな巨匠の名前が出てくるのだろう。確かにその二人はぼくたちが共通して愛読している大家ではあるけれど、ぼくの作品はそこまで高尚なものではなかった、というか、およそ高尚とはかけ離れたところにあるのがそれなのだ。もし、アキが想定している基準がそんなところにあるのなら、やっぱり彼女には見せないほうがいいのかもしれない。いつまでも可能性は未知数と思われていたほうが、遥かにましなような気がしてきたのだが……。

「なによ、もったいぶってないでさっさと言えばいいのに。まあなんとなく、その気持ちはわからないでもないけれど。だって処女作っていったら、期待と不安の結晶だものね。あたしも初めて書いてみたときは結構テンション上がったなあ……。もうとっくに黒歴史だけれど、今思えばあれがいちばんあたしらしさが出てたかも。……あ! もちろんそんな意味で言ったんじゃないからね! あたし、すごいと思ってるんだよ。一人の力でちゃんと一作書ききるなんて、それだけで立派なことなんだから。ていうかもしかして、初読者ってあたし、だよね? わぁー、なんか感激……」

「いや、別にそんな、大したものじゃないんだけど……」

 アキがなぜこんなに知った口ぶりを叩けるかというと、これまで二人しかいなかった文芸部を実質一人で存続させてきたという一応確かな実績があるからだ。アキはファンタジーとポエム担当で、一部はネットにも公開し、それなりの評価を得ている。ぼくも読んだことがあるが、正直舌を巻いた。あまり認めたくはないが、アキの文才はプロ並みだ。それでも、ぼくが小説を書いてみたいと思ったのは、アキでもできることが自分にできないわけがないと思ったからでもある。

 そんな彼女だからこそ、読者になってほしかった。

 しかし……。

「ほーら、結局通る道なんだから、出し惜しみするだけ損よ損。言っちゃえ言っちゃえ、笑わないから。タイトルは? どのくらいの長さがあるの?」

 何度も言うようだが自分の小説を人に見せることは恥部を晒すこととほとんど同じである。つまりペニスなのだ……ぼくはアキに我がチンポを見せようとしているのかもしれない……。我が命の光、我が罪、我が魂、チンポ……。ああ、精神的姦淫じゃないか……。

 いや……チンポを出すことにくらべれば、この程度の辱めなどあってないようなものかもしれない……。

 言い出しにくい雰囲気のなか、ぼくは観念して口を開いた。

「じ、実は……」

「実は?」

 息を呑む静寂。


「……ラノベ」

「へ?」

 しばし沈黙。

「ラノベ……なんだけど」

「あっ……」

「あ……」


 ……おわかりいただけただろうか?

 この一瞬にして、ぼくはすべてを悟っている。すべてを――この場にしっとりとしたジャズピアノのBGMがもし流れていなかったなら、そして気を利かせてくれたアキのフォローがあと一秒でも遅れていたなら、哀れな男は酸鼻を極める無言の圧力に耐えきれず席を離れてしまっていただろうが、どちらにせよ今の自分の状況が客観的にすさまじく悲惨で、どれだけ遡って後悔したとしても決してしたりないことには変わりがないということを。

「……う、うん、ラノベかぁ、いいよね、ラノベ。萌え~ってやつでしょ? あたしあんまり詳しくないけど、最近流行ってるし、アニメなら観たことあるよ。面白いよね」

 がぶがぶと水を飲み干す。

 身体が熱い。

 ここは針のむしろか何か?

「……すまん……今のはなかったことに……」

 そうだ……あんなものはなかったのだ……。帰ったら燃やそう。夜を待ってから燃やそう。キャンプファイヤーにはぴったりの時期。バケツにぶちこんで、うんとたくさん灯油を注ごう。きっとよく燃えるぞ……。ぼくはその火を最後まで見ていよう……。

「だ、ダメだよ! せっかく書いたんだから、もっと自信持っていいんだよ! 自分の好きなことを題材にするっていうのはとても素敵なことだと思うし、それを批判する人はいないわよ、きっと! あたしもなんだかごめんね、変にハードル上げちゃったみたいで。反省してる」

「もういい……もういいんだアキ……」

 ぼくはなにか勘違いをしていたのだ。

 所詮はオタク。

 そしてこれがオタクに対する一般的な女子の反応である。

 アキに罪はない。

 悪いのは、これまで無駄に批評家じみた創作論を語ってみたり、教室で岩波文庫や河出文庫を広げていっぱしの文学青年を気取ってみたりしてきたぼくのほうだ。(ああ村上春樹? 人気だよね。序盤、中盤、終盤、隙がないと思うよ。だけどぼく負けないよ。キャラたちが躍動するぼくの小説をみなさんに見せたいね……)

 生まれてきてすいませんでした。

 以上です。

「ちょ、ちょっと、どこ行くの?」

「いや……風にでも当たろうかなと思って……」

 ぼくはきわめて叙情的な気分で上着の裾を翻した。が、不運とは重なるもので、給仕中のウエイトレスにぶつかってしまい、盆が落ち、陶器が割れる。ぼくはそんな煩累を悉く無視して時雨の街へ出て行こうとした。いまのぼくには万事が些細なことに過ぎない。

「待ってよ! ねえ、なにか変なこと言ったかな、あたし。バカになんてしてないってば! 読ませてよ、小説。普通に興味あるし」

 普通に、か。

「小説? 小説ねえ。はっ! あんなのは小説じゃない。あんなのは、ただの、自涜オナニーだ」

 無遠慮に痴態を演じるアキとぼくには当然周囲からの仮借なき注目が集まっている。ぼくはそんな生温かい視線に対してすっかり縮こまりつつも、内心では抗議の声を張り上げたかった。

 ――違うんです、ぼくらはもう、そんなんじゃない。

「なんで勝手にへこんでんのよ。ああもう、ほんとナイーブなんだから……」

 アキの傍若無人なやさしさから逃げるように幼稚なぼくは店を出た。曇天の下は相も変わらず身を切るような寒さだが、この身体の火照りを冷ますにはむしろこれくらいが丁度いい。横なぐりに降る細雨、油くさい潮風、抜けるような汽笛の音。人々はほとんど傘を差している。ぼくはそれらをかき分けかき分け、ひたすら埠頭を目指していた。なぜというに、こういう気分のとき行く場所といえば、海にきまっているからだ。こんなはずではなかったが、とにかく海へ行かねばならぬ。

 音のしない卸市場や鉄工所らを睨みつけ、また睨み返されながらもずんずん進んでいると、ほどなくしてアキのついてくる気配を感じる。アキは走ってぼくに追いつくなり、新品のビニール傘のうち一本を無言でぼくに差し出してきた。見れば彼女もずぶ濡れで、ボタンも留めずに駆け出してきたのか、開いた襟から下着の柄まで透けて見える。表情からしていろいろと思うところはあるのだろうが、あえて黙ってくれているようなそぶりだった。こういうところは、だてに付き合いが長いわけではない。ぼくはこの日はじめて彼女から理解を示されたように思い、感謝とともに後ろめたさを覚えたが、愚にもつかない自尊心プライドが幅をきかせているばかりに、傘を奪い取るやいなやすぐにまた歩き出してしまう。アキは微妙に距離を開けてついてくる。

 正直なところ、頭はもう冷えていた。だが波止場に着くまでは、何も口にするまい。物憂げな昼下がりのために最後の言い訳をするけれど、ぼくが渡そうとしていた小説もどきは、ぼく自身が好きで書いたものではなかった。これは物語が生まれた過程を知っているならわかると思う。もっとも、アキはそのことを知るよしもないのだが。

 薄汚い廃工場に差しかかる。打ち棄てられたドラム缶やら鉄パイプやら、あわれなもので溢れかえった場所を、ぼくたちは役者のように踊り歩いた。そこには悪い犬がいて、ぼくたちを待ち構え、今にも襲いかかろうとしている。なんとか避けて通れたけれど、どうせならアキのスカートぐらい食いちぎってくれてもよかったのにな、と思ってしまうぼくの脳は、やっぱりどうしようもなくライトノベルに向いていると、自覚されないわけでもなかった。

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