Ghost writer

 こうしてぼくは、小説『ぼくの妹は息をしている(仮)』を受け取った次第である。はじめて生まれた自分の小説をこのように命名したことについて、異論は受けつけない。もっと適切な題名があったのではないかと思われるかもしれないが、ラノベの原点に立ち返るという意味において、これ以上のタイトルは存在しないようにぼくには思われる。聡明な読者であれば、この「(仮)」というのが二重の意味を有する点にすぐにも気がつくことだろう。

 ただ小説のよしあしは、ぼくにはあまりわからない。

 自分で書いた小説の価値など、まあたいていよくわからないものだ。どうしてこんなものが生まれてしまったのかと、己自身を問い詰めたくなることのほうが多いと思う。この小説のどこが面白いかときかれれば、ぼくは閉口するしかない。そこでは実在しない妹との閉鎖的な日常生活が開き直ったように綴られているばかりだった。

 夢を見た。

 夢の中で、ぼくは小説の書き直しを命じられている。それが誰の命令なのか、あるいは自分自身による命令なのかはわからない。ただぼくはひたすら目の前の文章を推敲しなければならなくて、それ以外のことなどまったく考える余裕がなかった。

 ところがこれがうまくいかない。なぜかというに、ぼくは一度で完璧な文章を書いてやろうと無理やり意気込んでいて、おそらくこれがいけなかったのだろう、頭から順番に直していこうとすると、尻尾にかけて文脈の乖離が著しくなり、かと言って、尻尾を直せば今度はまた頭のほうで綻びが見え出す……こんなきりがない(しかしよくある)いたちごっこを、気づけばぼくは延々と続けさせられている始末なのである。

 ただ、最終的にはものすごくいい出来になったので、ぼくはいよいよ感動して窓際に立ち、仕上がった原稿を一枚ずつ朝日のなかに晒してみながら、えもいわれぬ達成感に包まれていたのを覚えている。まるで人生の夜明けのようにぼくは思った。この瞬間は自分のなかで永遠に忘れられないものになるだろうと。

 それは一番最初に書いた文章と一言一句同じものだった。


 翌日ぼくはそんな打ち明け話を、惰性的なチャットの流れで、幼馴染のアキにしている。このときぼくは、初めての作品を得たばかりで浮かれ気分になっていたのだろう、誰でもいいから努力を認めてほしいという意地汚い利己心によって動いていた。それがあのゴーストライターの手による作品なのにもかかわらず、である。

『テセウスの船ね』とアキはすぐに返事をした。『そういえばあたし、海が見たいわ。明日暇?』

 この驚くべき積極性と行動力とがアキの特徴なのだが、そういうわけでぼくたちは、この冬休みにわざわざ電車で海沿いのとある街まで羽を伸ばしに来ることになった。

 普段ならぼくは物事の急な変化に弱いので、なんだかんだと理由をつけてこういう誘いは断ることが多いのだけれど、今回賛成することにしたのは、せっかくだからこのアキに、記念すべき小説のになってもらおうという、きわめて打算的な企てがあったからである。

 また、小心者であるぼくは、というときに、決していい加減な部分があってはならないと考えていた。なんといっても処女作なのだから、先立つものをできるだけ用意するのが義理という気がするのである。婚姻の儀式プロポーズと似たようなもので、この行為はどちら側にとっても必ず特別な瞬間となるように配慮されなければならない。電子メールでの受け渡しなど論外で、できれば手渡しがよかった。

 こういうことを考えた際に、海という場面はいかにも望ましく、ぼくの美意識にかなっているように思われた。極めつけには、ぼくは「読みたい」という一言を引き出すにまで成功していた! ……ここまで条件を整えたなら、もはや恐れることはなにもあるまい。

 そう思っていた時期がぼくにもありました。

 最大の誤算。

 それは、アキという元カノの人格と趣味とを、まったく考慮に入れていなかった点にある。


「じゃっっっじゃっっっっじゃーん」

 などと昼間っから陽気なテンションでふざけつつ、当日アキはびっくりするような派手な格好でぼくの前に現れる。セミロングの髪を、毛先にかけて緑っぽくなる橙いろに染めていて、さらに山吹いろのトレンチコートを上から羽織っているのだった。終業式以来の再会になるが、そのときはまだこんな風采ではなかったのに……。少し想像力の働く人ならわかると思うが、明らかにこれはジョークの一種だ。しかもすべっている。深刻に。

「……失礼しました」

 ぼくは思わず改札手前で踵を返してしまうところだった。が、その襟首をぐっとつかまれて、

「ウケ狙いとかじゃないから! ウケ狙いとかじゃないから!」

 と先手を打たれてしまい、変わり果てた幼馴染の姿に向き合わざるを得なくなる。こいつとはそれなりに長い付き合いになるが、こんな衝撃を受けたのは、ふられて以来初めてだった。まったく前日のテセウスの船のたとえではないが、自我同一性アイデンティティとはいったいなんのことだろう。

 すらりと小股の切れ上がった長身で、閉月羞花へいげつしゅうかとはいわないまでも、なかなかの美貌をもち、なによりこんな自分オタクに対しても懇意にしてくれている、その信用こそが取り柄だった、のに。

「アキ……いったいおまえの身に何があったんだ……。自分を見失ってはいけない……。ぼくはいまとても激しいショックを受けている……。昔ぼくが事故で入院したときに、花束なんかを持ってきてくれたアキに今日は会えると思って来た……。だがおまえも変わってしまったんだな……。もうまるで別人みたいだ……。さてはおまえ、アキではないな……? 何者だ?」

 まるでネタに命を賭けているような、目の前の女が口を開いた。

「と、とりあえず落ち着いて。あたしだよ、あたし。春はあけぼの、夏は夜、アキといったらあたしです。あのころからあたしは満月が妙にこわくて、いまでも大きな月を見ると思わず飛び上がってしまう。そのことを知っているのは、あたしの幼馴染だけ」

「む、その暗号を知っているとは……。いや、まだなにかおかしいぞ……。本物のアキなら、ここでスリーサイズと下着の色を教えてくれるはず……」

 ショルダーバッグがぼくの顔面をぶっ叩いた。

「ちょっと! どさくさにまぎれて変態行為に及ばないでよ! 失礼しちゃう。もう行くわ」

 人を誘っておいて勝手に乾いた人混みのなかへ消えていこうとするアキの背中に向かって、ぼくは腹立ち紛れにぼそりとこう口にしてみる。

「……紅葉女」と。

 言うが早いか、持ち前の地獄耳でこれを聞きつけ、振り返って飛んでくる。

「ちっ、違うんだから! これはあたしもちょっとないかなって思ったんだけど、気づいたのが家を出た後だったから! 引き返して着替える時間もなかったし、もう恥ずかしくて恥ずかしくて、耳の先まで真っ赤に……ってウケ狙いとかじゃないからっ!!」

「いや……残念が服を着て歩いているところの服の話はいいとしても、その残念はなんなんだよ?」

 アキが頭を振り回してうわあああああああとわめき出した。駅構内に響き渡るような声で。

「やめて……遠回しに直接尊厳を攻撃するのだけは! これにも話せば長い理由があるの! ほら……覚えてる? 中学の同級生の五十嵐さん。あの子いま美容師やってるんだけれど、美容師界のコンテストに出場するとかなんとかで、モデルになってくれないかって相談が来て。で、あたしも冬休みだしいいかなって思って……」

 ぺらぺらとよくしゃべる。頭が痛い。こんな存在がギャグみたいな女を引き連れて遠出するのは、ぼくはやっぱりいやだなあと思った。馬が合わないというか。

 こいつと会うと、どうしても口が悪くなる。

「ちなみにぼくは紅葉女だなんて言ってないからな」

「嘘! 言った! 聞いた!」

 来た、見た、勝った、みたいな言い方。

「ふん、聞き間違いだろ。自意識過剰なんじゃないか?」

「じゃあなんて言ったのよ?」

 ぼくは面と向かって鷹揚に答えた。

「……」と。

 こうしてぼくの頬には立派なもみじマークが作られた次第である。

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