Faith
「……で、何か用ですか大物ユーチューバ―さん?」
「あはははは、てめえの奥歯をガタガタ言わせてアフィリエイトの錆にしてやる!」
いざ本人を前にすると、やはりどうしても思うようにはいかないものである。
「わたしの手料理を召し上がりやがっておいて、いきなりそんなアグレッシブなこと言われるとは思いませんでした……」
「ああ、それはサンキュな。でも先に挑発してきたのはそっちだぜ。そういえばあんた、ひきこもりなんだってな? おっさんから聞いたぞ。いま幸せか? 幸せならいいが、そんな寂しげな背中で佇んでいるところを見ると、どうもそうではないらしいな?」
ぎこちない会話の空白を、サッサッサッと、箒が銀砂をひくものさびしい音が埋めてゆく。
「……第一に、定義からして、私はひきこもりではありません。第二に、私が幸せであろうとなかろうと、見本さんには全然関係のないことです。第三に、そういうところが嫌いだとわたしは先刻申し上げたはずです」
ふうむ、なかなか手強いな。自白性ツンデレ症候群かと思いきや、どうもこれは「孤独」という名の
「……友達とか、いる?」と聞いてみる。
「いりません。わたしの貴重な感情を、下手に浪費したくはないので」
「そうなの? 今なら安いぜ? おっさんのツケだ」
「あなたみたいな小説の作者を、わたしが信用するとでも思ってんのですか?」
正論っぽい。
「まあ待て、話をしよう。ぼくはこんななりをしているが、どちらかと言えばあんたの味方で、ひきこもりに仇をなそうと考えているわけではない。さっきは過激なことをわざと言ったが、あれは些細な冗談だ。かりんもそれは同じだろう? なんだか同じにおいがするんだよ。そう、ぼくは人間という愚にもつかない生き物が救いようもない道化揃いであることも、これが決して覆らないことも知っている、要するにあんたの仲間だ。けどな、人間ぎらいなんか誰もが罹る
かりんは穿つような目でぼくを見て、あくまで気丈に言い張った。
「それは、傷の舐め合いを要求しているということですか?」
「もし、そうだと言ったら?」
「なめないでください」苛烈な一言だった。「……わたしは無駄なことが嫌いです。そしてこの世でいちばん無駄なこと、それは他人に気を遣うことです。無駄に期待をして、無駄に裏切られるほど滑稽なことはないにちがいありません。泣いてもいい弱音を吐いてもいいそんなに背負い込まなくてもいいなどと、歌詞で覚えた他人の言葉を言うだけ言って現在の不当な立場を知らせておいて、後から梯子を外すのがあなたがたのやり口なのです。ああ穢らわしい。あと一度でもそういうことがあってしまえば、わたし、今度こそ死んでしまうでしょうね……」
なるほど、こいつは重症だ。こいつはじめじめした部屋で腐敗した林檎みたいに自分の心をだめにして、傷んだまんま放置してしまっていることに自分で気がついていない……。構わぬメンヘラに祟りなしとは言うが、爾在さんの顔を立てるためでなければ、迷わず逃げ出しているところだった。
いっぽう当の爾在さん本人はと言えば、食後すぐあの「
「ははあ、それでウサギみたいなカチューシャつけてんのか? 口は正直でも身体は素直なんだな…………」
「カチューシャじゃありません、リミッターです! これを外すと内なる力が解放されて、敵性動物を排除するためのエリミネイター・モードに切り替わるんです。あんな下等発情生物とこのわたしを一緒にしないでください!」
なんだその無茶設定。しかも突っ込むのそこかよ……。
まあいい、ぼくもちょっと錯乱していた。
「ねえ、ところでそれ、さっきから何してんの? 掃除……ではないよな?」
「これですか?」
そう、ここは実に安閑とした、昔のような風景なのだが、かりんは白い砂を一面に撒いた整然たる庭のひとつに立って、竹箒でせっせとミステリーサークル的ななにかを描こうとしているそぶりなのだ。ぼくはその手前の縁側から話しかけている構図になる。
「
「ふむふむ、世界をね……。……何が?」
自分の背丈より長い箒の柄を使い、かりんがちょいちょいと
「たとえばこの真ん中のお岩は、山や陸そのものを示します。そしてこれを同心円状に取り囲む模様は、一般に水だといわれます。しかし見方によっては、それらを構成する原子であったり、あるいは宇宙におけるエネルギーの様態であったりと、いろいろなものに喩えられますね」
「へえ……、山が、原子……? それじゃあ、話素もそうなのかい?」
「ですね。話素も円や、その立体構造物である球体への指向性をもちます。民俗学的にも玉はタマ、魂などに通じるものがありまして、宇宙は単純な入れ子構造をしていますから、ひとつの象徴で多くのものを表すことができるんですよ。勉強になりましたか?」
どうやらこういう話が好きらしいな。こころもち得意気になって自慢の知識を披瀝している。
「ふーん……。それはつまり、
ぼくの目には逆立ちしてもただの砂にしか見えないが。
そもそも形のない心の分子であるところの話素が、粒状をしているというのも変な話だ。
それにこの理論は、精神が肉体の外側から降って湧くという、ある仮説に帰結する。
「ま、見本さんにはまだわかんないでしょうね~。人間ははじめ、三次元的な物の見方しかできないんです。四次元的な視野で物を見るには、時間が必要ですからね。わたしもわかりませんでしたが、毎朝描き直しているうちに少しずつ納得できてきたような、そんな気がします」
ひきこもりに説教されてしまった。
「それは全部、おっさんに教わったこと?」
「ええ」と彼女は素直に首肯した。「……先生には、ほんとうに感謝しています。身寄りのないわたしを引き取って、ここに住まわせてくださったのですから。仕事をお手伝いするのは当然のことです。自分の境遇を恨んだことは、これまで一度もありません」
あ、ないんだ、身寄り。
そうだよな。
この娘は爾在さんの養子になってから、もう長いのだろう。
でも、おっさんのことを先生と呼ぶ。
「すこし、非科学的な話でもしましょうか」
「お?」
かりんがはじめて、自分から話題をふってくる。
「《夢喰い》の話をきいたことはありますか?」
「《夢喰い》? ……ああ、きいたことはあるよ。ポケモンで知った。スリープ、スリーパー、スリーペスト」
「フン」
いまのはぼくが悪かった。
「元々は
「えっと……つまり、食べられた夢は記憶から消えると?」
「そうなりますね。まあ、現代になってこんな話を信じる人はいないと思いますけれど。……でも、人が夢の記憶を忘れることができるのは、もしかしたら貘のおかげかもしれません」
そんな話、考えたこともなかった。人が夢を忘れていくのは、ぼくは自然なことだと思う。もし現実と同じように記憶されたら、頭が混乱してしまうから。忘れるという機能を貘が担っているのだとしたら、いったい全世界に何匹の貘がいることになるのだろう。そんなにたくさんいるのなら、一匹ぐらい捕まっていてもいいはずだ。
「なぜそんな話をするの?」
「いまこの瞬間が夢の続きではないかと、さきほど口にされていたじゃないですか。わたし、考えていたんです。でもやっぱり、ここが夢ではないことを保証するものはありませんでした。月並みな回答になりますが、たとえどんなことを言っても、結局それを信じるのは自分次第で、その証人になれるのも自分しかいないんだと思います」
「ああ……それ、考えてくれてたんだ。ありがとう」
てっきりうやむやにされたのだと思っていたけれど。
気を遣うことが無駄なことだと、この娘は本当に思っているのだろうか。
「むしろ、悪い夢ならよかったんですけどね――」
と、かりんの小さなつぶやきを耳にした、ちょうどそのときである。
――ニャア。
見ればかわいらしい鳴き声とともに、整然たる
「あ……ああーっ!」
それはかりんが血相を変えながら竹箒を放り出して上げた悲壮な叫びだったが、やってきたねこはその法外な声の大きさにびっくりして、砂の上をいたずらに駆け回りはじめる模様。
「こら! ねこ! ねこ! こら! 何しやがんのですか! こら! 逃がさねーですよ!」
かりんがねこを追いかけている。まるでトムとジェリーだ。
「おい、おまえらそんなに走り回ったら……」
だがもはやかりんはねこ以外のなにものも目に入っていない様子だった。ああ、かわいそうなねこ。とうとう捕まってしまって、両腕に抱き取られつつ、無慈悲にも腋から下をマットのように引きのばされるの刑を受けている。そのころ枯山水のほうはと言うと、途中まで描かれていたのに今となっては跡形もない。
「このっ……、よくもっ……、よくもやってくれましたね……。今日という今日は許しませんよ……。さあどうしてほしいですか? どうしてほしいか言ってみなさい……。にゃあ? にゃあじゃないでしょうが……! あのですねえ、にゃあで済んだら警察はいらねーんですよ……! ここはトイレじゃないと何度言えばわかるんですかあなたは? このっこのっこのっ、どうしてくれるんですかこれ……。はあああ、せっかくがんばって描いたというのに……」
「なるほど、これがエントロピーの増大法則……」
ぼくはなんだか妙に感心して目の前にひろがる
「あっ!」
一瞬の隙をついて、ねこがだっと逃げ出した。おそらく逃走という行為にかけて、ねこほど華麗な動物はいない。さてさてその行方を目で追っていくと、本能的に選ばれたのであろう、もっとも安全と思われるところの、ある場所に行き当たっていた。
「……なにをやっておる」
ちょうどやってきた爾在さんの手広い肩の上である。
「せ、先生……。これはその……ねこです。そのけしからんねこを取り締まってください!」
爾在さんは肩にねこをのせたまま、足元からおもむろに一握の砂をすくい上げ、手のひらの上に広げながら、悠然としていた(この人はいついかなる場合にも悠然としているんだろう)。
「枯山水はここでは大切なものだ。正午までに必ず描いておくように」
「は、はいぃぃ……」
「にゃお~ん(恐れ入ったか)」
ぐぎぎと歯を食いしばるかりんと、憐れむようなため息をつく爾在さん、そしてその肩の上で君臨しているねこという、見事に美しい三者関係が完成されていて、それらを包む青空が、この冬のなかでたぶんいちばん微笑ましい。一迅の天使の通ったような風が吹き、爾在さんの掌中にあった銀色の砂が、煙のように散っていくのをぼくは見ていた。新しい門出や望郷をないまぜにした崇高な風。ギャルゲーならばここでオープニングテーマが流れるであろうことは想像に難くない。
「また来なさい」
餞別の茶封筒や諸々の注意とともに、爾在さんからそんな言葉を贈られる。ぼくは瞼を開けない爾在さんの殊勝な顔と、その向こうで半泣きになって箒を握るかりんの顔とを交互に見て、瞬時に思惑を了解した。そして言った、とても笑顔で。
「はい、もう二度と来ません」
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